恩彩の手が、道潤の腕をつかんだ。
ガラスへ伸びかけていた右手が、そこで止まった。指先はまだ震えていた。怒りでではない。左手首の革が沈んだ感覚が、神経の奥に残っていた。
「今ここで怒れば、李偉戦と同じになる」
恩彩の声は低かった。
「呉明植の名で動かされて、反応を全部渡す。膝だけじゃない。あなたが何を見て、何に切れるかまで、また表に入れられる」
道潤は検査官を見た。ガラスの向こうで、男は椅子から半分立ち上がったまま、モニターの文字を見ている。『モンゴル試験体セッション3 原本アクセス承認』。その一行は、まるで道潤を誘うためにそこへ置かれた餌だった。
「……分かってる」
道潤は手の力を抜いた。拳をほどくのに時間がかかった。一本ずつ指を開き、息を吐く。左踵を床へ沈める。右膝では支えない。骨盤を前へ出しすぎず、怒りで表へ出かけた短い進入線を身体の奥へ押し戻す。
『今は、渡さない』
そう思った瞬間、視界の狭さが少し戻った。検査官の顔ではなく、ガラスの端、天井の小型カメラ、操作卓の横にある別端末が見えた。そこには認証画面とは別に、細い接続ログが走っていた。
恩彩も同じものを見ていた。
「患者は興奮状態。これ以上の競技動作は危険」
彼女は道潤の腕を離さず、操作室へ向けて言った。
「膝の低位進入は一回実施済み。復帰確認としては十分。継続するなら、今この画面ごと正式な医療検査として提出して」
検査官はしばらく黙った。背後のスタッフが慌ただしくキーを叩き、モニターの文字が消えかける。しかし完全には消えなかった。別端末の接続ログに、英数字の列が一瞬だけ残る。
『GATE04_OPS_MEX』
恩彩の指が、道潤の腕に短く圧をかけた。合図だった。見た。覚えた。騒ぐな。
「復帰確認は保留継続ではなく、条件付き許可とします」
検査官がようやく言った。
「第四路への移動を認める。ただし現地到着後、追加確認を受けること」
「文書で」
恩彩が即座に返す。
「口頭の許可は記録にならない。あなたたちは記録が好きでしょう」
検査官の眉がわずかに動いた。だが反論はなかった。プリンターが動き、薄い紙が一枚、操作室の下の受け渡し口から出てきた。恩彩が先に取り、文面を確認する。道潤はその間、モニターの残像を頭の中で繰り返した。
第四路。運営。メキシコ。
原本アクセスの経路は、呉明植の記録へ直接つながったわけではない。だが扉の先から、次の関門の運営サーバーへ細い線が伸びていた。黒手袋会はモンゴルの記録を、次の会場とも共有している。つまり相手は、こちらが何を怒り、何を隠したかを、到着前に受け取る。
「歩ける?」
恩彩が小声で聞いた。
「歩けるふりなら」
「違う。歩けることを隠して歩けるか」
道潤は少しだけ口元を歪めた。
「それなら、さっきよりましだ」
地下測定室を出るまで、二人は余計な言葉を交わさなかった。階段を上がるたび、膝の奥が重く鳴る。だがその痛みはもう、ただの損傷ではなかった。怒りで踏み抜けば記録される弱点になる。沈めて扱えば、まだ誰にも渡していない中心になる。
その夜、リハビリ室の蛍光灯は一つだけ点いていた。出発許可は得た。だからといって、膝が治ったわけではない。第四路へ向かう前に、恩彩は最後のセッションを始めた。
「今日は隠さない。覚えさせる」
彼女はマットの端に立ち、目隠しを渡さなかった。
「見えている状態で、見たものに引っ張られない。相手を想定して。低く入る。でも右膝を主役にしない」
道潤はうなずき、左足を置いた。
最初の二回は、まだ地下測定室のガラスが身体に残っていた。呉明植の名を聞いた時の熱が、肩を前へ出そうとする。恩彩は止めなかった。ただ、短く言う。
「今のは怒りの入口」
道潤は戻った。左踵。親指。骨盤。右膝は遅れてついてくる。相手の腰の内側へ入る線を、今度は隠さず通す。ただし踏み抜かない。短く入り、腰で粘り、相手が押し返してくる前に中心を置き直す。
李偉の手ではなかった。
エミルの低さでもなかった。
ンディアイの脚を奪う圧でもなかった。
それらを思い出しても、身体はもう借りに行かなかった。見たものは見たものとして遠くにあり、足裏だけが自分の場所を決めていた。
三度目、道潤は恩彩が差し出したミットの内側へ入った。右膝は鳴らない。左足裏が床を噛み、骨盤がほんの少しだけ前へ送られる。腰は逃げず、肩は急がない。ミットに触れた手首は力で押さえず、相手の逃げ口だけを消した。
恩彩の身体が半歩ずれた。
「もう一回」
道潤は黙って戻った。汗が顎から落ちる。痛みは消えない。だが痛みの周りに、通れる幅があった。狭く、短く、派手さのない道。その中でなら、右膝を守ったまま前へ出られる。
十回目で、恩彩が手を下ろした。
「それを、第四路で使うかはあなたが決めて」
「使わずに済む相手ならいい」
「たぶん、そんな相手じゃない」
恩彩は紙の許可証と、地下で写し取った接続ログの番号を机に置いた。手書きの横に、メキシコシティの空港コードが書き足されている。
「運営サーバーの枝は次の関門へつながってる。現地で入れる場所を探す。試合だけ見ていたら、また先に記録される」
「あなたは、ここまででいい」
道潤は言った。止めるつもりで口にしたのに、声は強くならなかった。
恩彩は荷物をまとめる手を止めずに答えた。
「私が決める。メキシコまで同行する」
「危険だ」
「今さらね。あなた一人だと、怒るべき場所と黙るべき場所を間違える」
道潤は言い返さなかった。事実だった。恩彩が腕をつかまなければ、地下測定室で彼はまた自分を差し出していた。
出発前夜、施設の窓の外では湿った風が木の葉を揺らしていた。道潤はベッドの端に座り、左手首の革を見下ろした。認証を開いた後も、リストバンドは沈黙している。内側の硬い板は冷たく、ただそこにあるだけだった。
開けるな。扉の前に立つまでは、鍵を壊すな。
呉明植の声が、記憶の中で短く響いた。道潤は革に触れ、まだ切らないと決めた。鍵が扉を開いたなら、次は扉の向こうを見なければならない。
翌朝、二人は空港へ向かった。道潤は杖を持たず、かといって完治した歩き方もしなかった。左足に少し長く乗り、右足を遅らせる。見ている者がいれば、まだ回復途中に見えるはずだった。だが足裏の奥では、昨日刻んだ短い中心が静かに息をしていた。
搭乗確認の端末が緑に変わった。
『ダカール発、メキシコシティ行き。搭乗手続き完了』
その瞬間、道潤の携帯が震えた。
差出人名はなかった。だが画面に浮かんだ鉄環の紋章を見た時点で、二人は同時に足を止めた。自動再生された映像には、古いリングが映っていた。三方を観客席に囲まれ、天井から派手な照明が落ちている。リング中央を、銀のマスクを片手にぶら下げた男が歩いていた。
男はカメラへ近づき、笑った。字幕が先に出た。
『呉明植の小さな道場の弟子が、ここまで生き延びたのか』
恩彩の顔が硬くなる。道潤は画面の男の膝ではなく、歩幅を見た。軽い。だが一歩ごとに、見ている者の視線を集める間がある。
男は胸に手を当て、ゆっくり頭を下げた。
『第四路、ラファエル。メキシコで待つ』
映像の最後、ラファエルはリングのロープへ片足をかけ、カメラの外へ向けて何かを合図した。次の瞬間、観客のいないはずの映像に、録音ではない歓声が爆発した。
字幕が、もう一行だけ浮かんだ。
『君の怒りも、膝も、師の名前も、こちらのリングでは全部拍子になる』
道潤の左手首で、革の内側がかすかに沈んだ。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
21話 第四路、廃闘牛場の挑発
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