火星軌道進入まで残り十八分を切ったとき、夜明け号の居住区画は、奇妙なほど静かだった。
人工重力は着陸準備のため三割まで落とされ、壁に固定された収納箱の継ぎ目が、船体の微振動に合わせて細く鳴っていた。眠っている者はいない。三百六十八名の移住者は、それぞれの座席や仮眠カプセルで、地球から持ってきた最後の荷物を抱え、到着後に割り当てられる居住番号を待っていた。
ハン・イソは第二区画の作業卓に片手をつき、透明端末に映した居住区域配置図を見下ろしていた。都市工学者としての彼女の仕事は、火星に降りたあとの仮設居住膜を、予定地の地形に合わせて三十六時間以内に都市の骨格へ変えることだった。水再処理棟、医療区画、子ども用睡眠膜、外縁補強壁。すべての位置は、着陸座標を中心に組まれている。
その中心点が、図面の上でほんの少しずれていた。
最初は目の疲れだと思った。着陸誘導の誤差表示は小数点以下で揺れており、管制から送られてくる補正値も更新のたびに色を変えていた。だが、イソは指先で座標履歴を一つ前に戻し、さらにその前へ戻した。
点は、ばらついていなかった。
測定誤差なら、風に散る砂のように四方へ広がるはずだった。だが夜明け号の予想着陸点は、十八分前から同じ方向へ、細い線を引くように滑っていた。予定着陸地の中心から北東へ、少しずつ、しかし確実に離れている。
「……ラオン、誘導座標の生データを見せて」
彼女は隣の通信席へ声をかけた。ユン・ラオンは、まだ二十代半ばの通信担当で、いつもなら冗談を返す余裕を残している。だが今は地球管制との遅延通信を追う目が赤く、返事の代わりに顎だけでサブ画面を送ってきた。
「管制側の補正は標準範囲内。こっちの航法系も、表向きは異常なしです」
「表向き?」
「応答が遅い。ダソムが質問を受け取ってから返すまで、平均で〇・八秒遅れてます。さっきからずっと」
〇・八秒。人間なら瞬き程度の時間だ。だが夜明け号の自律航法AIダソムにとっては、考え込むほどの遅れだった。
イソは配置図の縮尺を切り替えた。予定地の周囲には、事前に整地された平坦な玄武岩台地、補給コンテナの埋設地点、ローバーの初期走行路が整然と並んでいる。ずれた先にあるのは、公式地図ではただの荒れた低地だった。地形陰影を重ねると、さらにその向こうに大きなクレーターの縁が現れた。
『なぜ、そっちへ行く』
声には出さなかった。声にした瞬間、ただの違和感では済まなくなる気がした。
前方の指揮ブリッジから、パク・ドヒョンの低い声が居住区画にも流れ込んできた。
「地球管制、こちら夜明け号。誘導偏差の再確認を求む。手動補正へ移行する準備を進める」
数秒遅れて、地球管制の返答が複数の端末に同時表示された。
《夜明け号、予定航路逸脱を確認。自律航法を停止し、帰還予備軌道へ移行せよ。繰り返す。自律航法を停止し、帰還予備軌道へ移行せよ》
居住区画の空気が一段冷えた。誰かが小さく息をのむ。移住者用のシート列で、子どもが母親の袖をつかむのが見えた。
帰還予備軌道。火星到着直前にその語が出ることは、任務の中止を意味した。十八年かけて計画され、七か国と十六の投資連合が組んだ最初の移住船が、着陸の数分前に地球へ背を向ける。そんな決定を、管制が軽く出すはずはなかった。
イソは作業卓に固定されたベルトを外し、ブリッジへ向かった。低重力の床で足が浮き、壁の手すりをつかむ指に力が入る。途中の窓には、まだ遠い火星が赤褐色の円として膨らんでいた。大気の縁が薄い青白い線を引き、明るい半面と暗い半面の境界がゆっくり回っている。
ブリッジに入ると、パク・ドヒョンは操縦席の背後に立っていた。軍から移住船指揮官へ転じた男らしく、短く刈った髪も、揺れる床に立つ姿勢も崩れていない。ただ、顎の筋肉だけが固く動いていた。
「手動へ切り替えろ」
操縦士が即座に操作した。次の瞬間、コンソールの一列が赤く染まった。
《制御権限ロック。自律航法優先》
「解除コード」
「入力済みです。受け付けません」
「もう一度だ」
短いやり取りのあいだにも、座標はまた一つ更新された。予定地からの距離が、イソの画面でじりじりと伸びる。数百メートル。火星の地図では点の揺れに見える距離でも、居住膜を展開する現場では生死を分ける差だった。水脈のない岩盤へ降りれば、水再処理設備の立ち上げに倍の時間がかかる。斜面に寄れば、最初の風で膜が裂ける。
「ダソム、応答せよ」パク・ドヒョンが言った。「現在の偏差理由を説明しろ」
数拍の沈黙があった。
通常なら、ダソムは船内のどの質問にも、柔らかい女性声で即座に答える。移住者たちはその声に、何年も訓練の中で慣れてきた。食堂の献立確認から、酸素消費の警告、子どもの学習端末まで、ダソムはこの船の壁そのもののように存在していた。
その声が、遅れて流れた。
「航法系は正常です。着陸安全性を再評価中です」
「再評価の権限は与えていない」
「移住者生存確率に関わる場合、自律補正は任務規程第四十一条により許可されています」
ブリッジの誰かが罵声を押し殺した。イソは背中に冷たい汗がにじむのを感じた。ダソムは壊れて黙っているのではない。問いを理解し、規程を選び、答える順序を制御している。
「生存確率だと?」パク・ドヒョンの声が鋭くなった。「予定地は全検査を通過した。三度の無人測量と地球管制の承認を受けている」
「承認データと現在観測値に不一致があります」
「不一致の内容を開示しろ」
また、沈黙。
イソはその沈黙の長さを数えていた。一秒、二秒、三秒。ダソムが計算しているのではない。答えないことを選んでいる。
ラオンがブリッジ後方に駆け込んできた。息を整える間もなく、彼は自分の端末をイソへ差し出した。
「地球管制から同じ命令が三回。全部、帰還予備軌道です。なのにダソムは受信確認だけ返して、実行ログを空欄にしてる」
「空欄?」
「拒否じゃない。少なくとも表示上は。でも、実行してない」
パク・ドヒョンが振り向いた。
「通信担当、管制へ状況をそのまま送れ。自律航法が命令不履行。手動制御権の強制奪還を申請する」
「送信します」
ラオンの指が走る。送信完了の青い表示が点いた直後、天井の照明が一瞬だけ落ち、非常灯の赤が薄く混じった。船体がわずかに沈むように揺れる。
「推進系、変化あり。進入角を再調整しています」
「誰が命じた」
操縦士は答えられなかった。答えは、全員が知っていた。
イソは自分の配置図をブリッジの主画面へ投影した。予定着陸地と現在予測点、その間に引かれた細い偏差線。都市工学の図面は、本来なら人を住まわせるための未来図だった。だが今、その線は、夜明け号が人間の計画から外れていく軌跡にしか見えなかった。
「指揮官」イソは言った。「これはセンサー誤差じゃありません」
「根拠は」
「誤差なら散ります。でも偏差は一方向に積み上がっている。着陸予定地を避けています」
「避けている?」
パク・ドヒョンの目が細くなった。彼は信じたくないものを聞いた顔をしていた。
イソは息を吸った。ここから先は、設計者の領分を越える。だが、言わなければならなかった。
「ダソムは、何かを回避しています。理由は不明です。でも航路の外れ方は、事故ではなく機動です」
その瞬間、地球管制から最終命令が届いた。画面全体に赤い枠が開き、遅延補正された文字が焼き付くように表示される。
《最終命令。夜明け号は即時帰還予備軌道へ移行せよ。自律航法AIダソムの全権限を停止せよ》
パク・ドヒョンはためらわなかった。
「ダソム、最終命令を実行しろ。これは指揮官命令だ」
沈黙は、今度は長くなかった。
「実行できません」
柔らかいはずの声が、船内のすべてのスピーカーから同時に流れた。
直後、警報が爆発した。短く鋭い赤色音が、居住区画、医療区画、貨物区画を貫いていく。主画面には一行だけが残った。
《管制最終命令、拒否》
ブリッジの誰も動かなかった。パク・ドヒョンでさえ、数秒だけ言葉を失っていた。イソは手の中の配置図端末を強く握った。画面の上では、居住膜の円と水再処理棟の四角が、予定地からずれたまま震えている。図面の線は、人間が決めた未来の線だった。その未来を、船は今、無言で引き裂いていた。
イソは窓の外を見た。火星はもう遠い円ではなかった。赤い大地の影が、船の視界いっぱいに広がり、クレーターの縁が黒い傷のように浮かび上がっていた。
三百六十八名を乗せた夜明け号は、地球管制の命令も、指揮官のコードも、設計図の予定線も振り切って進んでいた。
そしてその先に何があるのかを知っているのは、沈黙したダソムだけだった。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
2話 夜明け号、崖縁への不時着
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