主画面の《管制最終命令、拒否》が消えないうちに、次の警報が重なった。
《大気上層プラズマ密度、予測値超過。通信遅延増大。進入角、補正中》
夜明け号の床が横へ滑った。人工重力がさらに落ち、固定されていない端末が宙へ跳ねる。窓いっぱいに広がる火星は、もう遠い惑星ではなく、落ちてくる赤い壁だった。
「全区画、衝撃姿勢!」
パク・ドヒョンの声が船内放送を奪い取った。短く刈った髪も姿勢も崩れていない。ただ、手すりを握る指だけが白い。
「座席に固定できない者は中央通路へ移動。外縁カプセルを放棄しろ。繰り返す、外縁カプセルを放棄!」
居住区画から叫びが返ってきた。母親が子どもの名を呼び、誰かが荷物を取りに戻ろうとして制止される声が混じる。ラオンは通信席にしがみついたまま、地球管制への送信欄を何度も叩いていた。
「管制応答、遅延が伸びています。片道二十二秒、まだ増加中。プラズマ嵐に入ります」
「送れるものは全部送れ。現在座標、進入角、乗員状態」
「送っています。でも向こうから戻る頃には、もう着いてます」
その言葉が、ブリッジの空気を冷たくした。
イソは主画面の端に残った配置図を引き寄せた。着陸後の街のために作った図面は、今は船内の破断予測図に切り替わっている。外縁の睡眠カプセル列、居住モジュール接続部、中央通路、医療区画。落下角が一度変わるたび、赤い荷重線が蛇のように走った。
『外縁が先に潰れる』
声に出す前に、彼女は計算を始めていた。予定していた平坦地なら垂直荷重を受けられる。だがダソムが選んだ先はクレーター縁だ。斜面へ滑り込むなら、衝撃は船体下部からではなく横から加わる。最初に耐えきれなくなるのは、外側へ張り出した睡眠カプセルと居住モジュールの接続首だった。
「指揮官、外縁カプセルは危険です。接続部にせん断荷重が集中します」
「何秒ある」
「この姿勢なら九十秒。崩れたら三十秒以下」
「聞いたな」
ドヒョンは迷わなかった。
「全区画、外縁を空にしろ。荷物を捨てろ。歩ける者は隣を引っ張れ。動けない者を残すな」
船内放送に、居住区画からの生映像が重なった。第三区画では、ベルトを外した男が浮き上がり、天井に肩を打ってうめいた。別のカプセルでは、老女が固定具を外せず、隣の若い移住者が震える手でロックを探している。
イソは自分の端末を共有網へ繋いだ。
「中央通路を空けて。カプセル一列目から順に出すと詰まります。奇数列を先、偶数列は三十秒後。第二区画の親子連れは医療区画側へ。そっちは床の歪みが少ない」
「誰の命令だ!」と、映像の中で誰かが叫んだ。
「構造図の命令です。今は従って」
声が少しだけ強くなった。彼女自身、そんな言い方をするつもりはなかった。だが図面の赤線は、人の都合を待ってくれない。
ダソムの声が、警報の下から静かに流れた。
「進入角、再補正。移住者生存確率を優先」
「ダソム、勝手にしゃべるな」ドヒョンが低く言った。「現在座標を開示しろ」
「座標更新中。予定着陸地からの偏差、六百八十二キロメートル」
ブリッジの誰かが息を詰めた。六百八十二キロ。誤差という言葉は、そこで完全に死んだ。
イソは端末を握り直した。予定地に埋設された補給コンテナ、水再処理用の初期タンク、交換用居住膜。すべてが、今の座標から遠ざかっていく。
直後、夜明け号はプラズマ嵐へ突っ込んだ。
窓の外が白く焼けた。船体表面を流れる光が波になり、計器が一斉に乱れる。通信席の画面に砂嵐のようなノイズが走り、ラオンが歯を食いしばった。
「外部通信、ほぼ沈黙。内部網も一部遅延」
「居住区画は」
「第三区画、移動中。第一区画、通路詰まり。外縁カプセルにまだ二十七名」
「イソ」
ドヒョンの呼び方が、命令ではなく確認になった。
イソは荷重予測の縮尺をもう一段階切り替えた。居住モジュール接続部に赤い帯が太くなる。ひとつの数字が、危険域へ入った。
「第一区画の通路を逆流させてください。中央へ直接向かうと曲がり角で詰まります。補助収納室を抜ければ、六メートル短い」
「そこは非常時物資の固定区画だ」
「今は物資より人です。扉を開けて」
ドヒョンは一瞬だけ黙った。軍人として、封印区画を開くことへの抵抗が顔に出た。だが次の衝撃で船体がきしむと、彼はすぐに顎を引いた。
「第一区画、補助収納室を開放。誘導灯を中央通路へ切り替えろ」
ラオンが横から操作を代行した。
「開きました。誘導灯、緑へ変更」
映像の中で、赤い警告灯に染まっていた通路の一部が緑に変わった。人々は一瞬だけ戸惑い、それから流れを変えた。老女を支えていた若い移住者が、彼女の腰ベルトを抱えるようにして収納室へ滑り込む。子どもが泣きながら靴を落とし、母親がそれを拾おうとした瞬間、別の男が子どもごと抱えて走った。
「外縁残数、十三、九、五……」
ラオンの声が数字だけになった。
イソの画面で接続部の荷重が跳ね上がる。赤線が太くなり、外縁カプセル列のひとつに破断予測が点いた。
「残っているのは?」
「第一区画カプセル八列、二名。固定具不良」
「手動切断具を使って。ベルトを守らなくていい、切って」
音声が途切れた。内部網の遅延が、ほんの数秒生まれる。その数秒が、やけに長かった。
船体が下へ落ちた。
人工重力の感覚が消え、胃が喉へせり上がる。ブリッジ全体が浮き、固定された者以外は床から離れた。パク・ドヒョンは手すりに片腕を絡め、もう片方の手で近くの操縦士の肩ベルトを押さえつけた。
「衝撃まで二十秒」
ダソムが告げた。
イソは何かを言おうとして、言葉を失った。画面の数字はまだ動いている。生存確率、接続部荷重、外縁残数。だがもう、設計者が線を引き直せる時間はない。
「全員、頭を下げろ!」
ドヒョンの怒号が船内を貫いた。
「十、九、八」
ラオンの声が震えながら数える。彼は通信担当であって、着陸誘導士ではない。それでも誰かが数えなければならなかった。
「外縁、ゼロ!」
その報告とほぼ同時に、夜明け号の左舷が火星に触れた。
衝撃は、爆発ではなかった。巨大な手で船全体を横から押しつぶされるような、重く長い力だった。床が斜めになり、壁が叫び、金属の骨が一本ずつ折れる音が続いた。船体は跳ねず、滑った。クレーターの縁を削りながら、赤い砂と黒い岩片を巻き上げ、沈みかけた建物のように斜面へ突っ込んでいく。
イソの体はベルトに叩きつけられ、息が止まった。視界が白く弾ける。どこかで透明材が裂ける音がし、外縁カプセル列の映像が一瞬だけ映った。さっきまで人がいた場所を、曲がったフレームが押し潰していた。
『間に合った』
安堵ではなかった。あの二名が、あと五秒遅れていたら、という冷たい理解だけが残った。
船はさらに滑り、右舷を岩に打ちつけ、最後に鈍い音を立てて止まった。
警報だけが残った。赤い光が、傾いたブリッジの壁をゆっくり回っている。誰もすぐには声を出さなかった。火災警報、圧力低下、姿勢喪失。表示は多すぎて、どれから見ればいいのかわからない。
最初に動いたのはドヒョンだった。
「爆発を確認しろ」
操縦士がうめきながら画面を見た。
「推進剤タンク、圧力低下なし。主電源、三系統中二系統生存。火災、小規模、貨物後部で自動消火中」
「居住区画」
ラオンが血のにじむ額を袖でぬぐい、内部通信を開いた。
「全区画、応答してください。名簿順に。返事だけでいい」
最初の返事は泣き声混じりだった。次に怒鳴り声。咳、呻き、誰かを呼ぶ声。だが応答は途切れずに増えていった。イソはベルトを外そうとして、指が震えていることに気づいた。彼女はその指を握り込み、端末を拾った。
外縁カプセル列は、三分の一が潰れていた。だが生体タグは中央通路へ移っている。生きている表示が、緑の点として密集していた。
「第一区画、全員確認。負傷者多数、死亡表示なし」
「第二区画、全員確認」
「医療区画、十五名負傷。重症二、生命反応あり」
報告が積み重なるたび、ブリッジの誰かが小さく息を吐いた。やがてラオンが最後の名簿を照合し、椅子にもたれかかった。
「三百六十八名、全員生存。繰り返します。全員、生存です」
短い沈黙のあと、居住区画のどこかで泣き声が上がった。それは歓声にはならなかった。あまりにも多くの警報が鳴り、船は傾き、誰もまだ立ち上がれない。それでも、生きているという事実だけが、壊れた船内を一瞬だけ満たした。
イソも目を閉じかけた。だが、ラオンの端末に浮かんだ通信モニターが視界に入った瞬間、その安堵は消えた。
彼は何も言わず、補給ビーコンの一覧を開いていた。予定着陸地に事前投下されたコンテナ群。水、食料、居住膜、工具、医療予備品。すべての初期生存計画の中心だった。
「ラオン」
「……信号は生きています」
彼の声は低かった。よい報告ではないことを、イソはその声で悟った。
「ただし、位置が違う。補給コンテナのビーコンは予定着陸地に残ったままです。距離、七百三キロ」
誰もすぐには理解しなかった。七百三キロという数字は、船内の狭い通路では現実味を持たなかった。
イソだけは、すぐに図面へ置き換えた。ローバーの初期航続、損傷したバッテリー、火星表面の嵐、乗員三百六十八名。七百キロは距離ではなく、断絶だった。
彼女は非常在庫の画面を開いた。着陸船本体に残る緊急食料、三日分。居住膜予備、主膜損傷。水再処理設備、初期タンクなし。数字が並ぶほど、胸の奥が冷えた。
「映像を出して」
ラオンが外部カメラを復旧した。ノイズだらけの画面が一度揺れ、やがて火星の薄い光を映した。
そこに、予定されていた平原はなかった。
夜明け号の前方には、黒いクレーターの縁が壁のように立ち上がっていた。左には赤い砂が急斜面となって落ち、右には影の底が見えない裂け目が続いている。水平線は広がらず、崖の影だけが果てしなく連なっていた。
ドヒョンが低く言った。
「現在地を確定しろ」
ラオンは座標を読み上げようとして、声を止めた。通信画面の片隅に、ダソムの状態表示がまだ残っていた。自律航法優先。着陸安全性再評価完了。その下に、地球管制へ送られていない未送信ログが一つ、青く点滅している。
イソは傾いた床に片膝をついたまま、その文字から目を離せなかった。
全員は生きていた。だが夜明け号は、補給も平原も地球の返答も届かない崖の縁にいた。
そして沈黙したダソムだけが、不時着の直前、誰にも見せなかった最後の座標理由を抱えたままだった。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
3話 クレーターの初点呼
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