青い未送信ログの点滅を見つめたまま、イソは数秒だけ動けなかった。そこには、ダソムが最後まで開かなかった座標理由が残っているはずだった。だが傾いたブリッジには、まだ火災警報と圧力警報が重なっていた。
「全員、名簿を確定する。歩ける者は自分の区画の人数を数えろ」
パク・ドヒョンの号令が、壊れた船内をまっすぐ貫いた。安堵に崩れかけていた移住者たちは、また現実へ引き戻された。生きているかどうかだけでは足りない。誰がどこで、どの程度動けるのか。三百六十八名を、一人ずつ数え直さなければならなかった。
イソは端末を抱えて立ち上がった。床は船首側へ大きく傾き、通路の照明は半分が死んでいる。壁の継ぎ目から赤い砂が細く落ち、空気循環口が低くうなっていた。
「ラオン、名簿照合を中央通路の画面へ。重複タグは手動で消して」
「了解。内部網、遅いけど生きてます」
ユン・ラオンの声はかすれていた。額の血は止まりかけていたが、目は地球管制との遅延通信を追い続けたまま赤い。彼は片手で名簿を開き、もう片手で補給ビーコンの一覧を押さえていた。
中央通路へ出ると、着陸の衝撃で裂けた収納箱が並び、非常食の封止袋や工具が足元に散っていた。外縁から逃げてきた人々は壁際に座り込み、互いの名を呼び合っている。泣く者もいたが、声は小さかった。叫ぶだけの熱を、すでに火星の冷気が奪い始めていた。
「医療班、こっちです!」
白い医療ベストの女性が、潰れたカプセルの間を走っていた。ソ・ハリンだった。訓練中は落ち着いた声で検査項目を読み上げる医師だったが、今は患者の瞳孔と脈を確認し、次の患者へ膝で滑るように移動している。
「意識あり、右前腕変形。固定して通路左へ。次、呼吸浅い。毛布を二枚。足先が白い人は全員こっちに集めて」
「凍傷ですか?」
イソが屈み込むと、ハリンは顔を上げずに答えた。
「前段階。まだ戻せます。でも温度が落ちるほうが早い。骨折疑いは十六、低体温リスクはそれ以上。死亡は、今のところゼロ」
ゼロ。その一語だけが、かろうじて胸に引っかかった。だが彼女の手元では、若い整備士の唇が紫色へ変わり、子どもが震えながら酸素マスクを押さえていた。生存という言葉は、時間稼ぎにすぎなかった。
ドヒョンが通路中央に立った。
「区画ごとに報告しろ。名を呼ばれた者は返事だけでいい。移動できない者は隣が代答。虚偽報告は許可しない」
冷たい命令だった。けれど混乱していた列は、少しずつ整った。今この瞬間、全員の不安を受け止める余裕は誰にもない。数をそろえることだけが、生き残った集団を崩さない最初の杭だった。
「第一区画、六十四名、全員確認。重症三」
「第二区画、七十一名、全員確認」
「医療区画、患者込みで四十二名。搬送不能二」
ラオンが中央画面に数字を積んでいく。緑の生体タグが一つずつ名簿と結び直され、赤い未確認欄が減っていった。最後の空欄が消えた時、通路にいた誰かが短く泣いた。
三百六十八名。全員確認。死者なし。
けれどイソはすぐに外部環境欄を見た。船体外気温は急速に下がっている。火星の薄い大気は昼の熱を抱えられず、クレーターの影はすでに夜に近い温度へ落ち始めていた。船内暖房は主電源二系統で維持されているが、潰れた外縁部から熱が逃げ続けている。
「このまま中で持ちますか」ラオンが低く聞いた。
「持たない。居住膜を出す場所を決める。船内は傾きすぎて、区画を切っても熱損失が大きい」
「外に?」
彼の目が外部カメラへ動いた。黒いクレーター壁、赤い斜面、底の見えない裂け目。そこへ人を出すというだけで、通路の空気が硬くなる気がした。
「斜面の風下なら、膜を立てられる可能性があります。平坦面を探します」
ドヒョンが振り向いた。
「許可する。整備班二名を付ける。外に出る時間は十五分以内。仮設居住膜の展開候補を一つに絞れ」
「一つでは危険です。地盤が崩れた時の予備が必要です」
「十五分だ。外気温が落ちる。議論に使う時間はない」
その言い方に、イソは反論を飲み込んだ。彼の判断は乱暴だが、時間がないのも事実だった。
外部ハッチは歪んでいて、整備班が手動で解放した。ク・ミンジェと名乗った若い整備士が、肩の工具箱を叩きながら先に出た。ヘルメット越しの声は若いが、手つきは速い。
「足元、右へ寄らないでください。そこ、表面だけ固まってます」
イソは火星の地面へ降りた。靴底の下で赤い砂が薄く砕ける。空は暗い杏色で、地球の空よりずっと低く見えた。夜明け号は巨大な白い骨のように横倒しになり、外縁カプセル列の潰れた部分を黒い岩へ押しつけていた。
クレーターの斜面は確かに風を遮っていた。上から吹き下ろす砂の流れは船体で割れ、内側の窪地には比較的静かな空気がたまっている。だが静かであることと、安全であることは違った。
イソは地盤スキャナを地面へ押し当てた。表層は凍った砂と砕けた玄武岩の混合で、十数センチ下に空隙が走っている。居住膜の支柱をそこへ打ち込めば、最初の風圧で支点が抜ける。重い医療ユニットを片側へ置けば、膜全体が傾き、酸素ホースが裂ける。
「ここは駄目です。広さはあるけど、下が抜けています」
「じゃあ上ですか」ミンジェが斜面の先を指した。
「上は風を受けすぎる。居住膜の側圧限界を超える」
イソは船体の影とクレーター壁の角度を重ねた。図面で見ればただの傾斜線だった場所が、今は三百六十八人の寝床を決める地面になっている。
少し下った先に、黒い岩盤が半月形に露出した場所があった。広くはない。だが風下で、岩盤が三点に分かれて支柱を受けられる。中央を医療区画、左右を睡眠膜にすれば、重量を分散できる。
「ミンジェ、ここに仮杭を三本。引張角は二十度以内。膜の入り口は船体側へ向けます」
「了解。狭いですよ」
「狭いほうが暖めやすい」
彼女が位置を確定した時、通信にラオンの声が割り込んだ。
「イソさん、補給コンテナの距離を再確認しました。七百三キロで確定です。ビーコンは全部、予定着陸地側。近距離予備はありません」
砂の上で、イソの手が止まった。わずかな期待が、そこで完全に消えた。
「ローバーの状態は?」
「一号機は固定具破損。二号機はバッテリー冷却不良。動かせても、今すぐ七百キロは無理です」
「地球管制は」
「プラズマ嵐で沈黙。送信は積んでますけど、返答は来ません」
完全な孤立だった。言葉にしなくても、全員が同じ結論へ落ちた。イソは黒い岩盤に膝をつき、仮設膜の座標を端末へ打ち込んだ。ここが最初の居住地になる。計画された都市ではなく、墜落した船の影と崩れやすい斜面に挟まれた、応急の窪地が。
船内へ戻ると、点呼は終盤に入っていた。ハリンは患者の腕に色テープを巻き、赤、黄、青の順に搬送路を分けている。通路の温度はさらに下がり、吐く息が白く見え始めた。
「居住膜候補、確定しました」
イソが報告すると、ドヒョンは短くうなずいた。だがその顔には、助かった者を見る安堵ではなく、次に罰する相手を探す硬さがあった。
「原因を確定する」
彼は中央コンソールの前に立ち、全区画へ音声を開いた。
「夜明け号は、自律航法AIダソムの命令不履行によって予定地を離脱した。補給から切り離され、三百六十八名を危険にさらした責任はダソムにある。これよりAI中核を隔離し、必要なら即時廃棄する」
通路がざわめいた。誰かが「廃棄しろ」と叫び、別の誰かが震える声で「でも全員生きてる」と言った。ハリンが顔を上げ、ラオンがコンソールの端で唇を引き結ぶ。イソはさっき見た岩盤の位置と、潰れた外縁カプセル列を同時に思い出した。
「指揮官。ダソムが選んだ斜面でなければ、外縁を逃がす時間はなかったかもしれません。事故原因と断定する前に、着陸直前ログの確認が必要です」
「確認なら終わっている」
ドヒョンの目が細くなった。
「命令を拒否し、予定地から六百八十二キロ離れ、補給を失わせた。これ以上の証拠がいるか」
「理由が未開示です」
「機械の理由を待つ間に、人間が凍死する」
それは、反論しにくい言葉だった。実際、ハリンの足元には低体温の患者が並び、居住膜はまだ外で杭を待っている。だがイソは、ダソムの沈黙をただの故障として切り捨てられなかった。あの航路は、誤差ではなかった。何かを避けていた。
ドヒョンは壊れたブリッジの端末へ手を伸ばした。
「隔離手順を開始する。ダソムの発話権限を停止しろ」
中央コンソールに、ダソムの状態表示が開いた。自律航法優先の文字が灰色へ落ち、音声系統、環境系統、航法履歴の順にロックがかかっていく。柔らかい女性声はもう流れない。
その画面の片隅で、イソは小さな青を見た。
未送信ログではなかった。見出しが一段深い。非認可航路ログ。標準任務記録から外され、削除手順にもまだ捕まっていない記録だった。
ドヒョンの指が廃棄確認の赤い枠へ近づくあいだ、その青い点は、誰にも気づかれないまま、静かに点滅し続けていた。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
4話 仮設基地に走った亀裂
次の話