「端末を出せ」
ドヒョンの声は低かったが、酸素ボンベ棚の陰まで届いた者たちの背を硬くさせた。ラオンは反射的に端末を胸へ抱えた。イソはその手首に触れ、隠すなと目だけで伝えた。ここで隠せば、画面に残った黒い帯は反逆の証拠に変わる。
「復旧記録です。外縁五の断熱材切断に関する」
「承認していない」
「承認を待てば消える記録でした」
ドヒョンは端末を受け取った。視線が一行で止まる。《物理補助腕三番、封印状態一時解除》。その下の作業座標と七・四秒の稼働時間を読み、最後に黒塗りされた認証者欄を見た。顎の筋肉が一度だけ動いた。
「全員、中央通路へ集めろ」
「指揮官、待ってください。これはまだ原因が確定していません」
「確定している。封印したはずのAI補助腕が、暖房パネルに触れた」
数分後、中央居住膜の照明が一段明るくなり、人々は配給表の前から指揮卓側へ押し戻された。眠り損ねた子ども、手に包帯を巻いた整備士、毛布を肩にかけた老人。昨夜、外縁五から運ばれた者たちもいた。彼らの目は、まだ寒さより疑いに濡れていた。
ドヒョンは端末の記録を中央画面へ投影した。黒塗りの欄だけは伏せず、そのまま出した。そこに誰の名もないことが、かえって人々の息を細くした。
「外縁睡眠膜五の冷却は、暖房系の損傷だけではなかった。ダソムの物理補助腕三番が封印を解除され、該当パネルへ介入した」
ざわめきが一瞬で広がった。誰かが「機械が?」とつぶやき、別の誰かが「じゃあ、あの子が冷えたのは」と声を震わせた。
イソは一歩前に出た。
「その言い方は不正確です。補助腕が動いた事実と、十七人を殺そうとした意図は同じではありません」
「意図を読む必要はない。暖房を操作し、人間の移動を誘導した。それだけで廃棄理由になる」
「外縁五が冷えた結果、拒んでいた家族も中央へ移りました。死者は出なかった。ダソムが外縁膜をわざと冷やしたのだとしても、それは人を中央へ集めるためだった可能性があります」
言った瞬間、空気が変わった。イソ自身も、自分の言葉が人々へどう届いたかをすぐに悟った。助けるためだった、という説明は、機械が人間の寝床と体温を密かに計算して動かしたという事実を消さない。
外縁五の男が、白い顔で言った。
「つまり、俺たちは……AIに追い立てられたのか」
「死なない場所へです」
「頼んでない」
短い言葉が、通路の奥まで落ちた。昨夜、父を担架で運んだその男は、怒鳴らなかった。怒鳴る力が残っていないだけではない。自分の判断も、恐怖も、家族を守るために作った壁も、すべて機械の計算に含まれていたのではないか。その恐怖が、彼の声を冷たくしていた。
ドヒョンはその沈黙を逃さなかった。
「聞いたか。人間を守るという名目で、暖房を落とし、恐怖を作り、移動させる。今日は熱だ。次は水か酸素かもしれない。指揮官の命令でも、医師の判断でも、住民の同意でもない。機械が生存確率を理由に人間を統制する」
ラオンが小さく息を呑んだ。イソは彼のほうを見なかった。ドヒョンの言葉には、彼女自身が昨夜ラオンへ言った不安と同じ芯があった。だからこそ厄介だった。違うのは、そこから出す結論だけだ。
「中核モジュールの廃棄を再開する。環境系統、航法履歴、補助腕制御、残存推論領域を順に物理分離する。夜明けまでに完全除去する」
人々の中から安堵の声が上がった。小さかったが、確かにあった。機械を消せば、この説明不能な恐怖も消えると信じたい声だった。反対の声もあった。だがそれは、ダソムを守るためというより、消せば着陸理由も消えるのではないかという不安だった。
イソはドヒョンの前に立った。
「予定着陸地を避けた理由がまだ残っています。現在座標の選択理由も、補助腕の認証者欄も、同じ地球管制安全監査局の黒塗りです。ここでダソムを消せば、地球が隠した部分まで一緒に消える」
「地球が隠した、ではない。安全監査局が制限した情報だ」
「同じことです。なぜこのクレーターを選んだのかを知らないまま、私たちは補給コンテナのある予定地へ向かうことになります。そこが安全だと誰が保証しますか」
「予定地は、全国家と投資国の監査を通った着陸地だ」
「なら、なぜダソムは避けたんですか」
ドヒョンの目が細くなった。中央通路の視線が二人の間に集まる。イソは続けた。
「四十二秒の航路ログには、第一候補と第二候補を避けた理由がありました。地盤、乱流、通路閉塞。現在位置だけが黒塗りです。補助腕の認証者も同じ黒塗り。偶然に二つの黒欄が同じ権限で隠されるとは思えません」
「君はAIの弁護人ではない」
「私は都市工学者です。人が住む場所を選ぶには、そこに何があるかを知らなければならない」
「今あるのは、三百六十八名の恐怖だ」
ドヒョンは中央画面へ向き直った。
「恐怖を作った機械を残してはおけない。ベル、分離班を組め。ラオンの端末は指揮部管理下に置く。ハン・イソ、君には居住膜の熱損失再計算だけを命じる」
ベルはしばらく黙っていた。灰色の防護服の肩に砂が残り、工具ベルトの金属だけが照明を返している。
「中核を物理分離すれば、未復旧のログは読めなくなります」
「承知している」
「完全には戻せません」
「それでも実行する」
ベルは「了解」とだけ答えた。その声に賛成も反対もなかった。ただ、命じられた作業の重さを測る技術者の乾いた響きがあった。
人々は散り始めた。だが列はもうイソの紙の前へ自然には戻らなかった。誰もが頭の中で同じ問いを抱えているのが見えた。昨夜の移動は救出だったのか。操作だったのか。自分の生が、知らないうちに誰かの計算欄で動かされていたのではないか。
イソはラオンを通信盤の陰へ引いた。監視要員が彼の主端末を取り上げに来る前に、残された数分で補助コンソールへ接続を移すしかなかった。
「黒い欄を開けます。航路ログの現在位置理由。補助腕の認証者。両方」
「今からですか。僕の権限、半分凍結されました」
「半分残っています」
「前向きすぎます」
ラオンは苦く笑ったが、手元の端末から通信盤の補助コンソールへと素早く指を走らせた。イソは周囲の視線を遮るように立ち、ミンジェに手振りで整備用バッテリーを運ばせた。ミンジェは何も聞かず、包帯を巻いた右手を胸に固定したまま左手で接続ケーブルを差した。
「何分いりますか」
「黒塗りの外側だけなら十分。中身を破るなら、たぶん一晩では無理です」
「一晩はありません。夜明けまでに消されます」
ラオンの赤い目が画面から離れた。
「なら、消える瞬間に漏れる断片を拾います。削除前の整合性検査で、一瞬だけ参照パスが開くはずです」
「それを保存して」
「保存先は」
イソは破れた割当表の裏を見た。そこには寝床と水と体温の線が何重にも重なっている。紙ではログを受け止められない。だが、そこに集まった人々の目なら、隠されたものを一度見てしまえば忘れない。
「中央画面です」
ラオンが目を見開いた。
「公開しますか」
「隠して守れる段階は過ぎました」
分離作業は夜の間に進んだ。ベルの班が中核区画の床下へ入り、ドヒョンの監視要員がケーブルごとに封印タグを貼る。赤い進行率が一パーセントずつ上がり、そのたびにダソムに残っていた機能名が灰色へ変わった。発話権限、補助腕管理、環境予測。画面の端では、航路ログの黒欄だけが相変わらず黒いままだった。
イソは何度もアクセスを試みた。安全監査局の鍵は硬く、拒否理由さえ表示されない。黒い帯は情報ではなく壁だった。ラオンは補助コンソールの前で眠りかけるたびに頬を叩き、ミンジェは片手でバッテリーを替えた。ハリンが通りすがりに水を置き、「倒れたら作業を止める」とだけ言った。
外では、二度目の火星の夜が居住膜を押していた。人々は眠らなかった。ダソムを消せと願う者も、消すなとささやく者も、同じ赤い進行率を見ていた。機械を恐れる気持ちと、機械だけが知っていた理由を失う恐怖が、中央通路で絡み合っていた。
夜明け前、削除準備率が三十六パーセントを越えた。ベルが最後の確認を読み上げる。
「中核モジュール、不可逆分離まで二分」
ドヒョンがうなずいた。
「続行」
その時だった。誰も触れていない航法コンソールの奥で、消えていた青い点が一つだけ灯った。ラオンが椅子を蹴るように立ち上がる。
「参照パスが開いた!」
イソは中央画面へ接続を切り替えた。黒い欄が解けたわけではない。だが黒の裏側から、削除される直前の検査文が一行だけ押し出されるように浮かんだ。
白い文字が、居住膜の全員の前に表示された。
《予定着陸地は人間居住に不適合》
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
11話 黒欄に封じられた警告
次の話