「医療用ロットじゃありません」
ラオンの声は怒号の底へ落ちたのに、妙にはっきり残った。イソは空包装へ視線を落とした。銀色の袋の端に焼き込まれた識別タグは、医療室のロット体系と違う配列をしていた。先頭二桁は用途分類、次の三桁は保管棚、末尾は割当先。イソは配給表で何度も見た構造を、頭の中で素早く組み直した。
「ラオン、搬出記録だけを追って。患者タグじゃなく、用途分類から」
「やっています」
ラオンは壁に背をつけたまま、端末を片手で操作した。押し寄せる人波が肩に当たり、画面が揺れる。ミンジェが保管庫前で足を踏ん張り、「下がれ!」と叫んだ。だが怒りは中央食堂区画だけで止まらなかった。連絡通路の向こう、外縁睡眠膜からも人が出てきていた。寝台から起きたばかりの者、毛布を肩にかけた高齢者、子どもを抱いた親。食料保管庫二の警報は、薄い膜と通路を伝って、夜の冷気より早く広がっていた。
「用途分類、医療ではありません」
ラオンが言った。
ドヒョンが目を細める。
「未確認の断片で騒ぐな」
「断片じゃありません。照合先が出ました。搬出先、熱封印装置運用班。ローバー二号、作業前補助食。承認者は指揮部権限。時刻は総会開始後十三分」
食堂区画の空気が、一度に重くなった。
誰かが低くつぶやいた。
「洞窟を焼く連中に回したのか」
次の瞬間、怒号がまた弾けた。
「俺たちには十四グラムで!」
「倒れた奴には渡さず、装置班には箱ごとか!」
「最初から総会なんて待つ気なかったんだろ!」
イソはドヒョンを見た。彼は逃げなかった。短く刈った髪の下で顎の筋肉だけが動き、周囲の罵声をすべて軍用ヘッドセットの雑音のように押し殺していた。
「説明してください」
イソは言った。
ドヒョンは低く答えた。
「熱封印装置の運用班に、作業前補助を割り当てた」
「総会の前に?」
「作業は中断されているが、再開命令が出れば即時に動く必要がある。装置要員が倒れれば、洞窟農場の工事そのものが止まる」
「工事はまだ共同決定されていません」
「飢えは共同決定を待たない」
その言葉に、外壁補修班の男たちの何人かが黙った。倒れた同僚を見たばかりの者たちだった。食べられなければ作業は止まる。作業が止まれば膜は裂け、農場もできず、次の配給はさらに細る。その連鎖だけは誰にも否定できなかった。
だがイソは首を振った。
「必要なら、そう言って総会に出すべきでした。熱封印装置を動かす班に補助食が必要だと。医療室ではなく装置班に回したと。秘密配給をした瞬間、配給表は共同の表ではなく、指揮部の内訳になります」
「秘密ではない。緊急措置だ」
「名前を変えても同じです。誰を先に立たせるかを、見えないところで決めた」
ドヒョンの声が硬くなる。
「誰かが立たなければ、全員が倒れる」
「だからこそ、見える場所で決めるんです」
二人の間に張られた言葉の線へ、住民の怒りが何度もぶつかった。倉庫を開けろ、装置班を呼べ、洞窟を焼け、焼くな、食わせろ。白線はもう消え、発言席はただの床になっていた。ミンソルは祖母の腕の中で、空包装とドヒョンを交互に見ていた。彼女が聞いた「先に住んでいたもの」の話は、いま「先に食べた者」の話へ変わってしまっている。
「どいてください」
ハリンの声が、罵声を割った。
彼女は医療端末を胸に抱え、診療区画側から戻ってきていた。白い医療ベストの胸元には、赤い警告表示が小さく反射している。走ってきたばかりで息を整える時間も惜しみ、彼女は端末を壁面へ接続した。
「倒れた外壁補修班員の血液検査が出ました」
「今は配給の話だ!」
誰かが叫んだ。
「その配給の結果です」
ハリンは画面を開いた。白血球数、リンパ球比率、血糖、電解質、脱水指標。数字の意味を全員が理解したわけではない。けれど赤い線を越えた項目が多すぎることは、誰の目にもわかった。
「低血糖と脱水だけではありません。リンパ球が落ちています。免疫低下の警戒線を、もう超えている。今の栄養状態で外作業を続ければ、擦過傷一つから感染が広がります。患者だけではない。補修班、装置班、清掃班、子どもも同じです」
食堂区画の怒りが、別の形に沈んだ。恐怖は静かになる時のほうが重い。
ハリンは続けた。
「タンパク質ジェル二箱で解決する段階ではありません。けれど、隠して回せば、足りない場所が見えなくなる。見えなければ、次に倒れる人を予測できない」
ドヒョンは画面を見たまま言った。
「だから洞窟農場を急ぐ」
「急ぐことと、焼くことは別です」
「熱封印なしで地球菌糸を入れれば、汚染リスクが増える。熱封印を遅らせれば、飢えのリスクが増える。どちらもリスクなら、確定している死を先に避ける」
その論理は鋭く、そして残酷にわかりやすかった。人々の視線が揺れた。アレス03の赤い地図より、壁面に映った血液数値のほうが近い。地下の未知より、目の前で倒れた労働者の腕の細さのほうが、ずっと現実だった。
外縁睡眠膜から来た女が、震える声で言った。
「菌糸農場がなければ、子どもは何を食べるんですか」
別の男が応じた。
「洞窟に何かいるかもしれないって言って、こっちが先に死ぬのか」
「焼けばいい」
誰かが、はっきり言った。
「洞窟を焼いてでも農場を作れ。火星の中に何がいようと、俺たちの子どもはここにいる」
その言葉は、一度出ると戻らなかった。別の口が拾い、形を変え、強くしていく。焼け。作れ。生きるのが先だ。熱封印装置を出せ。装置班に食わせるのは当然だ。いや、なら全部公開しろ。秘密にするから盗みに見えるんだ。
イソは拳を握った。彼女も飢えの数字を見ていた。免疫低下の赤い線も見た。ここで「火星を守る」とだけ言えば、人間を見捨てる言葉に聞こえる。だが「焼け」と言った瞬間、二十年前に封印されたアレス03の警告も、ダソムが命令を拒んでまで避けた座標も、ただの障害物になる。
『互いを殺さずに済む距離』
最初の夜、外縁睡眠膜で彼女が言った言葉が胸の奥に戻った。だがいま、その距離を描く線が見つからない。
その時、食堂区画の隅で、カン・セユンが動いた。
彼はさっきから図面を抱えたまま、群衆の間に押し込まれていた。背の高い体が人波の中で妙に頼りなく見えたが、今は違った。彼は折り畳み卓の端末に自分の作業用キーを差し込み、何も言わずに画面を切り替えた。
壁面に、アレス生態モジュール03から抽出された地質マップが映った。
赤い濃淡が洞窟中心部へ集まり、亀裂構造を脈のように染めている。何度も見た危険な地図だった。住民の何人かがまたざわめき、誰かが「だから焼くんだ」と言いかけた。
セユンはその赤い中心を指さなかった。
彼の指は、洞窟入口の外側、これまで候補地から外れていた細い通路の上で止まった。地質班の古い線では「外縁通路」とだけ記されていた場所。赤い信号は薄く、熱分布も中心部より低い。だが完全な空白ではない。居住膜側の廃熱線と、クレーター岩盤の影が、そこでかすかに交わっていた。
セユンはまだ何も言わなかった。
怒号は収まっていなかった。ドヒョンは地図を見て表情を変えず、ハリンは血液数値の端末から目を上げた。ラオンの指が止まり、ミンジェが押し返していた腕の力を一瞬だけ緩めた。
イソだけは、セユンの指先から目を離せなくなった。
赤い中心ではない。焼く洞窟でも、諦める農場でもない。生体信号の薄い、洞窟の外縁通路。
その細い線が、飢えと汚染のあいだにまだ名前のない出口を開いているように見えた。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
28話 霜が描く空白の等高線
次の話