「ロック信号、落ちています。誰かが……」
ラオンの声が途切れた瞬間、ミンジェが先に走った。発言席の白線を踏み越え、人を肩で押し分け、食料保管庫へ続く短い通路へ飛び込む。イソもすぐ後を追った。背後では椅子の脚が床をこする音と、息を呑む気配だけが残った。
保管庫二の扉は閉じていた。だがロックパネルの縁の表示灯が、正常の青ではなく黄色に瞬いていた。ミンジェは包帯の巻かれた右手をかばいながら外装を押さえ、左手で非常点検カバーを開く。
「破壊じゃない。正規解除の後に再ロックしてる」
「ログを出して」
イソが言うと、ラオンは横から端末を差し込み、警報履歴を引きずり出した。彼の赤い目が画面の行を追い、呼吸が一瞬止まる。
「開閉、総会開始後十三分。認証は……指揮部権限です」
通路の入口で誰かがうめいた。
「指揮部?」
「誰の権限だ!」
人波が一歩、こちらへ寄った。ミンジェが片腕を広げ、これ以上近づくなと押し返す。彼の背中越しに、イソは保管箱の在庫表示を見た。タンパク質ジェル、医療補助兼重労働者補助用。端末上の残数は三。現物確認欄が赤く跳ねる。
ミンジェが保管箱の中を覗き込んだ。
「二箱、ない」
その言葉は、警報より鋭く食堂区画へ届いた。
「二箱って何本だ」
「待機二十七人分より多いのか」
「誰が持っていった!」
怒号が通路へ流れ込んだ。さっきまで洞窟に先に住んでいたものの話をしていた場が、いまはただ一つの棚だけを見ていた。空いた棚。誰かの胃に消えたかもしれない箱。倒れた労働者の横に残った整理券。すべてが一本の線でつながってしまった。
ドヒョンが人垣を割って通路へ来た。
「下がれ。保管庫周辺を封鎖する」
「説明してください」
イソは扉の前から動かなかった。
「解錠記録に指揮部権限が残っています。誰が、何のために、二箱を出したのか」
ドヒョンの顎の筋肉が固く動いた。
「緊急医療搬出だ。低血糖者が出た。医療室へ回した」
その答えに、数人の肩がわずかに落ちた。理由としては、ありえた。床に倒れた男を全員が見ていた。ブドウ糖ジェルだけでは足りない患者が出るかもしれないことも、誰も否定できない。
だがハリンが一歩前に出た。
「ありません」
短い一言だった。食堂区画の空気がまた固まる。
ドヒョンが振り返る。
「何がない」
「医療室の需給帳簿に、該当時刻のタンパク質ジェル搬入記録がありません。患者タグへの紐づけも、投与記録も、未使用返品記録もない。緊急搬出なら、最低でも搬入口のスキャンが残ります」
「混乱時だ。記録が遅れているだけだ」
「医療ジェルは開封前にロットを読む。倒れた補修班員へ投与したのはブドウ糖ジェル一包。タンパク質ジェルではありません」
ハリンの声は大きくなかった。だが、診断の時と同じで逃げ道がなかった。
「つまり、医療室には来ていません」
一拍の沈黙の後、総会は爆発した。
「盗んだのか!」
「指揮部が先に食ったんだろう!」
「俺たちには十四グラムで、箱ごと持っていくのか!」
誰かが保管庫の扉へ掴みかかろうとし、ミンジェが体で止めた。ラオンは端末を抱えたまま後退し、壁に背をぶつける。セユンは図面を落としかけ、ベルがそれを支えた。ミンソルの祖母が少女の肩を引き寄せる。ミンソルはまだ警報灯を見ていた。自分の問いが別の怒りに押し流されるのを、ただ黙って見ていた。
「静粛にしろ!」
ドヒョンの声が響いた。
「保管庫への接近を禁じる。記録は指揮部が確認する」
「指揮部の記録が問題なんです」
イソはすぐに返した。
彼女自身、胸の奥が熱くなっていた。怒りだけではない。ここで一度、棚の数字が信じられなくなれば、洞窟の汚染リスクも、菌糸農場の収穫予測も、熱封印装置の運用条件も、すべて同じ不信の泥に沈む。
「配給表、保管庫の開閉記録、搬出記録、医療室の需給帳簿。全体を全員に公開しましょう。名前ではなく区画と用途でいい。どこへ何箱出たのか、誰が承認したのかを見えるところへ出してください」
「できない」
ドヒョンは即答した。
「なぜですか」
「保管庫の搬出権限は、封印済み生命反応データの保全ファイルと同じ指揮部認証階層にある。無制限に開けば、軍事等級封印ファイルへの接続権限まで開く可能性がある」
「配給記録と生命反応データを同じ鍵で閉じているんですか」
ラオンが小さく言った。声には驚きより、嫌な納得があった。
ドヒョンは彼を見た。
「非常時の改竄防止だ」
「違います」
イソは言った。
「全部を同じ箱に入れたから、食料の説明まで封印の言い訳で閉じられる。今必要なのは生命反応データの全公開ではありません。配給と搬出の公開です。分離して出せばいい」
「その作業には時間と権限がいる。いま暴徒化寸前の住民へ保管庫ログを投げれば、次に起こるのは検証ではなく襲撃だ」
「隠せば襲撃は遅れるだけです」
「遅らせることにも意味はある」
その言葉で、群衆の怒りがもう一段変わった。遅らせる。何を。誰のために。誰がその間に食べるのか。言葉の隙間へ、人々は自分の恐怖を押し込んでいく。
外壁補修班の男が白線を踏み越えた。
「洞窟の話なんか、もうどうでもいい。まず倉庫を開けろ」
「全箱を数えろ!」
「指揮部の寝床も調べろ!」
「医療室のせいにするな!」
通路へ押し寄せる人の圧で、保管庫前の床がきしんだ。ミンジェが歯を食いしばり、両腕で人波を止める。
「押すな! 扉が歪む!」
「どけ、整備士!」
「箱を返せ!」
イソは中央へ戻ろうとした。ここで全員が通路に詰まれば、酸素ラインも担架動線も塞がる。倒れる者が出る。だが声を張る前に、食堂区画の床で何かが踏まれて乾いた音を立てた。
かさり、という軽い音だった。
清掃担当の女性が足元を見下ろし、椅子の下から銀色の薄い袋を拾い上げた。最初はただの包装材に見えた。だが彼女の手が震え、袋の表面が非常灯に光った。
タンパク質ジェルの空包装だった。
「これ……」
彼女の声は細かった。けれど、その手が上がると、全員が見た。折り畳み卓の下、発言席のすぐそばに落ちていた空の袋。端は乱暴に裂かれ、内側には白い粘りが薄く残っている。
「誰がここで食ったんだ」
誰かが低く言った。
次の瞬間、同じ言葉が何十もの喉から跳ね返った。
「誰が食った!」
「総会中にか!」
「俺たちの前でか!」
ドヒョンが一歩近づいた。
「証拠品として回収する。触るな」
「証拠品?」
外壁補修班代表が笑った。笑いはすぐに怒声へ変わる。
「裁判でも始めるつもりか。なら被告席に立てよ、指揮官!」
その一言で、総会は完全に会議ではなくなった。裁きの場になった。人々は洞窟案の賛否ではなく、誰が先に箱を開けたのかを叫び始めた。ハリンは医療室の帳簿を端末に映そうとし、ラオンは解錠ログを守るように抱え、ミンジェは押し寄せる体を受け止めながら何度も下がるなと叫んだ。
イソは食堂区画の中央に立った。
四方から声が来た。倉庫を開けろ。指揮部を調べろ。医療室は嘘をつくな。洞窟を焼け。焼く前に箱を数えろ。子どもを下げろ。倒れるぞ。誰も誰の言葉も最後まで聞いていない。
彼女はその全部を見た。白線の消えた床。空包装を掲げる手。黄色く点滅する保管庫二。発言席の横で肩を縮めるミンソル。火星の地下に先に住んでいたかもしれないものへの問いは、いま人間の棚の奥へ押し込まれていた。
この瞬間を逃せば、洞窟の議論は二度と同じ形では戻らない。飢えが不信に変わった場で、緩衝層も汚染も共生も、すべて「誰が食ったか」の叫びに踏み潰される。
その時、空包装を見ていたラオンの顔色が変わった。彼は袋の端に残った小さな識別タグへ端末を向け、震える声で言った。
「待ってください。これ……医療用ロットじゃありません」
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
27話 外縁通路に残された可能性
次の話