二人目の労働者は倒れなかった。壁に肩を押しつけ、歯を食いしばったまま、誰かが差し出した水筒を拒んだ。自分より先に担架で運ばれた男を見ている目だった。
イソはその視線を背中に受けながら、中央居住膜の食堂区画へ向かった。食堂と呼ばれてはいるが、いまそこに食べ物の匂いはない。折り畳み卓は配給計算端末と医療記録の置き場になり、壁際の温水器はとっくに停止していた。ラオンが非常灯を二列だけ点け、床に白い線を投影して発言席と待機列を分けた。
「代表だけでは足りません」
イソは入口に立つラオンへ言った。
「技術、医療、農業、配給、整備。それから患者家族、子どもを見ている人、高齢者区画、清掃、教育補助。発言順を出して。名前がある人だけで終わらせない」
ラオンは赤い目で一瞬だけ彼女を見た。
「時間が足りません」
「短く切る。けれど、切り捨てる順番をこちらで決めたら、総会ではなく説明会になります」
「了解」
彼の指が端末を走り、壁面に発言順が流れた。カン・セユン、ソ・ハリン、マーシャ・ベル、ノ・アミン、外壁補修班代表、患者家族代表、睡眠膜三の高齢者介助担当、清掃班、教育補助。最後のほうに、十二歳、移住者家族枠、ミンソルという名が小さく加わった。
その表示を見た瞬間、後方で低い笑いが漏れた。
「子どもにも決めさせるのか」
誰かの声に、数人が短く笑った。笑いは乾いていて、怒声より痛かった。
ドヒョンが食堂区画の中央に立った。短く刈った髪、崩れない姿勢、顎の硬さ。彼は壁の発言順を見上げ、明らかに不快そうに目を細めた。
「意思決定を薄めるな、ハン・イソ」
「薄めているのではありません。影響を受ける人を入れています」
「熱封印装置を運ぶかどうかの判断だ。汚染管理、農業工程、車両運用。専門性が必要な決定を、感情の列に並べるのか」
「専門家が出した案の危険を、誰がどう引き受けるかの決定です」
ドヒョンは答えず、腕を組んだ。彼の背後には警備タグをつけた者が二人立っている。拘束という言葉はもう出ていなかったが、消えてもいなかった。
総会は静かに始まった。最初にセユンが立ち、洞窟入口を使えば五、六日で菌糸の初期収穫が見込めること、標準タンパク質の二割には届くかもしれないことを説明した。声は緊張で少し乾いていたが、数字は隠さなかった。
「味はよくありません。量も十分ではありません。ですが、現状の棚を見れば、ゼロよりは大きいです」
次にハリンが立った。彼女はアレス03サンプル容器の温度周期、反応点の増加、洞窟候補地が赤い亀裂構造と重なることを短く示した。生物とは断定しない、けれど外部熱源なしに同じ周期で変化している。火星地下を空の配管として扱うには、説明できない項目が多すぎる。
「熱封印は一度行えば戻せません。失敗した時に増える患者は、飢えた人だけではありません」
ベルは熱封印装置の運用条件を読み上げた。予熱、搬送、密閉膜展開、複数回走査。ローバー二号の帰還余裕は薄く、砂嵐が来れば現場放棄もありえる。
「可能です。ただし、簡単ではありません。成功しても、設備と人員を食います」
アミンは食品工程の復旧見込みを再確認した。最短七日、安定には十日以上。初回収量は三割以下。配給表の数字を壁に出すと、食堂区画は呼吸を忘れたように静かになった。
その静けさは、外壁補修班代表の発言で割れた。
「俺たちは、七日も十日も待てない」
彼は倒れた男の同僚だった。頬に赤い砂がついたまま乾いている。
「今日倒れたのは一人じゃない。壁にもたれた奴を数えればもっといる。地下に何かいるかもしれないと言われても、俺の班は明日も外壁に出る。食わなければ、膜が裂けても縫えない」
患者家族代表は、父親の回復食が減ったことを話した。怒鳴らずに話そうとしていたが、最後のほうで声が震えた。
「父は、火星を汚したいわけではありません。ただ、まだ息をしているんです」
高齢者介助担当の老人は、食堂の椅子に手を置きながら立った。子どもを見守る区画で毛布を数え、夜の間に何人が泣いて起きるかを知っている人だった。
「若い人が食べられないと、年寄りは運ばれません。子どもが食べられないと、寝ても起きません。順番をつけるなら、その順番も見えるところでつけてください」
清掃担当は、廃水残渣を菌糸培養へ回す案で自分たちの作業量が倍になること、感染対策資材が足りないことを言った。教育補助の女性は、子どもたちが配給量を覚え始め、自分の皿を見て親の顔色を読むようになったと報告した。
イソは一つずつ記録欄へ落としていった。意見はまとまっていない。だが、何が怖いのかは少しずつ形になっている。飢え。汚染。秘密。専門家だけで決まること。子どもにまで見える空腹。
「次、ミンソル」
ラオンが読み上げた時、食堂区画にまたざわめきが走った。
人垣の後ろから、小柄な少女が出てきた。薄い保温ジャケットの袖は少し長く、手の甲まで隠れていた。壁面に十二歳と表示されていたが、火星へ来てからの数日でさらに幼く見えた。彼女の祖母らしい老女が、後ろで心配そうに肩へ手を添えようとして、途中で止めた。
ミンソルは発言席の白線の前で立ち止まり、イソを見た。何を言えばいいのかわからない顔ではなかった。言ってよいのかを確かめる顔だった。
「短くでいい」
イソは言った。
「わからないことでもいい。ここは、質問していい場所です」
ミンソルは小さくうなずいた。そして、袖から片手を出して挙げた。
「洞窟にも、先に住んでいたものがいたら、どうなるんですか」
誰もすぐに答えなかった。
問いは、専門用語を一つも使っていなかった。生体反応、汚染管理、熱循環、地下塩水層。大人たちが何枚も重ねた言葉を、少女は一度で外してしまった。そこにいるかもしれないもの。先に住んでいたもの。イソの胸の奥で、最初の夜に自分が呟いた言葉が、冷たい手で触れられたように蘇った。
設計は、先に住んでいるものの確認から始める。
「ほら見ろ」
後方の男が吐き捨てた。
「今度は子どもの言葉で食料を決めるのか」
「こっちは飢えてるんだぞ。お伽話じゃない」
「洞窟の住民に配給券でも配るのか!」
笑いが起こり、すぐに怒声へ変わった。別の誰かが、子どもに黙れと言った。その声に、ミンソルの祖母が前へ出ようとし、隣の人に止められた。
「黙らせるな」
ハリンが言ったが、声は広がる怒号に押された。
外壁補修班の男が立ち上がる。
「質問はいい。だが答えは飯だ。飯がなければ全員死ぬ。それを十二歳の子に背負わせるな!」
「背負わせているのは誰ですか」
患者家族の女性が叫び返した。
「秘密にして、命令して、倒れてから数字を見せるから、子どもまで聞くんでしょう!」
一つの怒鳴り声が、別の怒鳴り声を呼んだ。食堂区画の白線は意味を失い、発言席の前へ人が押し出される。ラオンが音量を上げて発言順を読み上げたが、壁面の文字は靴音と罵声の下でただ光っているだけだった。
ドヒョンの声が通路を切った。
「静粛にしろ。総会を中止する」
「中止しません」
イソは即座に返した。
「発言権を戻してください。今、質問を遮ったら、もう誰もこの場を信じません。ミンソルの問いに答える必要があります」
「答えは専門家が出す」
「いいえ。専門家は条件を出します。答えはここにいる全員で引き受けるものです!」
自分の声が割れるのを、イソは聞いた。総会場はすでに会議ではなく、飢えと恐怖が同じ酸素を取り合う場所になっていた。誰かが椅子を蹴り、床を滑った椅子脚が金属音を立てる。ミンジェが前へ出て人を押し戻し、ベルが端末を抱えて壁際へ避難した。セユンは図面を胸に抱き、顔を白くしている。
その時だった。
ピ、という小さな音が鳴った。
最初、イソは誰かの端末通知だと思った。だが二度目の音は、食堂区画の後方、食料保管庫へ続く短い通路から聞こえた。三度目はさらに細く、それなのに騒ぎの裂け目を正確に突き抜けた。
《保管庫二、開閉異常》
壁面の古い表示灯が黄色く点滅した。
怒号が一つ、半端な形で止まった。次の怒声も出なかった。食料保管庫。タンパク質補助剤の残数三。即時配布待機二十七。人々の頭の中で、その数字が同じ場所へつながっていくのが、イソには見えた気がした。
ラオンが端末を見た。
「ロック信号、落ちています。誰かが……」
言い終える前に、保管庫側の警報がもう一度鳴った。
ミンソルはその音のした方を見つめていた。さっき挙げた小さな手を、まだ下ろしていなかった。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
26話 空包装が暴いた配給不信
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