ローバー二号の前輪が格納庫の白線を越えようとした瞬間、ハリンが走った。
白い医療ベストが警告灯の赤を受け、血を浴びたように見えた。彼女は医療ケースを床へ叩きつけるように置き、中から黄色い汚染遮断テープと折り畳み式の遮断ポールを引き抜いた。二本、三本と磁気脚を床に固定し、ローバーの進路へ斜めに線を張る。
「停止。医療・汚染管理ラインを設定します」
ローバーの運転席で整備班の男がブレーキを踏んだ。重い車体が低く沈み、荷台の黒い熱封印ユニットが鈍い音を立てる。予熱ランプは赤いまま、遮断テープの向こうで呼吸する炉のように光っていた。
「ソ・ハリン」
ドヒョンの声は低かった。格納庫の空気が一段固くなる。
「その線をどけろ」
「どけません」
「これは指揮官承認済みの生存措置だ。医療陣が作戦行動を妨害する権限はない」
ハリンは端末を腕に固定し、ローバーの前に立った。細い遮断テープ一本で止められる車体ではない。だが、汚染管理の黄色い線は、これまで誰も軽く踏み越えられなかった。未知のリスクを見ないふりで越えた瞬間、その責任は記録に残る。
「アレス03サンプルの温度リズムと洞窟座標の一致を、公開検証するまで進められません。熱処理対象が地下反応域へ連続している可能性があります」
「可能性で人を止めるな」
「可能性で焼くなと言っています」
整備班の一人が舌打ちした。格納庫三の入口には、すでに人が集まり始めていた。熱封印装置の搬出を聞いた整備班、農業班、配給列から抜けてきた患者家族。誰も十分に食べていない顔をしていた。頬はこけ、目だけが鋭かった。
セユンが図面を抱えたまま立ち尽くしている。自分の案が、いま別の形で人々の前に現れていることを、彼は受け止めきれていないようだった。
イソはローバーの側面に映る赤い予熱表示を見た。到達予測、四十分ではなく四十一分。数値は静かに減っている。遮断線の前で時間だけが燃えていた。
「指揮官、ここで強行すれば汚染管理違反の記録が残ります」
イソは前に出た。
ドヒョンは彼女を見た。短く刈った髪の下で、顎だけが硬く動く。
「君も同じか。飢えた者の前で、まだ検証を言うのか」
「少なくとも総会の決定を先に経るべきです。これは洞窟の使い方だけではありません。火星地下へ、地球由来の熱と有機物を入れる最初の判断です」
「総会で熱循環ダクトの走査角を決めるのか」
「いいえ。何を危険として受け入れるかを決めます」
「危険はすでにある。食料棚にある」
その一言で、周囲のざわめきが濃くなった。
「そうだろう!」
整備班の男が叫んだ。ミンジェより年上の、外作業で左肩を痛めている男だった。彼の手袋の指先は摩耗し、補修テープで巻かれている。
「俺たちは朝から外壁を縫ってる。十四グラムでどうやって動けっていうんだ。菌糸でも何でも、増えるならやれよ!」
「患者用ジェルも減ってるんです」
別の声が続いた。医療室の前で見たことのある女性だった。低体温から戻った父親の娘だ。目の下に黒い影ができている。
「父は昨日から半量です。専門家の議論が終わるまで、どれだけ待てばいいんですか。火星の何かより、目の前の人を先に見てください」
「見ています」
ハリンが短く返した。
「患者を見ているから、汚染と感染と栄養低下を同時に見ています。洞窟を焼いて地球菌糸を入れれば終わり、ではありません。失敗したら次の患者はもっと増えます」
「失敗しなくても飢えるんだ!」
声が重なり、格納庫の壁に跳ね返った。黄色い遮断線の向こうでローバーのモーターが低く鳴っている。運転席の男はドヒョンとハリンを交互に見て、アクセルに足を置いたまま動けない。
ドヒョンが一歩前へ出た。
「ソ・ハリン。医療遮断ラインの設定理由を正式に申告しろ。申告理由が未確認データの政治的利用なら、職務妨害として扱う」
「理由は医療・汚染管理です。サンプル容器内の反応点増加、外部熱源なしの温度周期、洞窟候補地と地下反応亀裂の座標一致」
「生物ではないと、君自身が言った」
「断定できないと言いました。だから熱封印を止めています」
「最後通告だ。線をどけろ」
ハリンは動かなかった。医療ケースの横で、遮断ポールの小さな灯が点滅している。黄色、黄色、黄色。イソにはそれが、配給端末の警告灯と同じ速度に見えた。
「どけない場合、拘束する」
ドヒョンの言葉に、格納庫が一瞬静まり返った。
ミンジェが工具を握り直した。
「指揮官、医師を逮捕して出発する気ですか」
「必要ならそうする。命令系統を現場で崩す者を放置すれば、次は酸素でも発電でも同じことが起こる」
「もう起きています」
イソの声は自分でも驚くほど大きかった。
彼女はローバーの前へ進み、ハリンの斜め後ろに立った。ドヒョンから見れば、二人は同じ線の内側にいる。
「生命反応データを封印した時から、配給表を黙って減らした時から、同じことは起きています。人が知らされないまま命令だけ受け取るなら、どの棚から命が削られたのか誰にもわかりません」
「なら、いま削られている棚を見ろ」
ドヒョンが格納庫の外を指した。
扉の向こう、配給所前の通路には長い列があった。タンパク質補助剤の配布を待つ者たちだ。重労働者優先、患者家族確認、子どもの補助食。表示は分かれているが、箱は同じ保管庫から出る。列の最後尾は中央居住膜の曲がり角まで伸び、誰も無駄口を言わなかった。
「彼らに説明してこい。洞窟座標とサンプルの霜について、非専門家の討論を待てと」
「討論ではありません。決定です」
「言葉を替えるな、ハン・イソ。待たせるという結果は同じだ」
イソは返そうとした。だが、その瞬間、配給所の前で短い悲鳴が上がった。
列が崩れた。
最初は誰かが押したのだと思った。だが人々の足元に、作業服の男が膝から落ちていた。手にしていた整理券が床を滑り、彼の額が配給所の金属枠に軽く当たる。大きな音ではなかった。それでも格納庫のすべての視線が、熱封印装置からその一点へ移った。
「下がって。押さえないで」
ハリンが遮断線をまたいだ。さっきまで守っていた線を、自分で越えた。
彼女は倒れた男の横に膝をつき、首筋へ指を当てる。もう片方の手で携帯測定器を開き、耳たぶから微量採血した。イソも駆け寄り、人の輪を押し広げた。男の顔は灰色で、唇が乾いている。作業服の胸には外壁補修班のタグがあった。
「意識、ありますか。名前を言えますか」
男は唇だけを動かした。声は出なかった。
「血糖低すぎる。脈、速いけど弱い。発汗なし、脱水もある。補助剤は」
配給担当の若い女性が震えた手で箱を見た。
「重労働者分、次の箱がまだ……指揮部承認待ちで」
その言葉の途中で、周囲の空気が変わった。
汚染、生命反応、洞窟座標。さっきまで人々の口の中で硬く転がっていた言葉が、急に遠くなった。床に倒れた男の浅い呼吸だけが近い。誰も火星の地下を見ていなかった。全員が、人間の喉が動くかどうかだけを見ていた。
ハリンは医療ケースからブドウ糖ジェルを取り出した。封を切る手に迷いはない。
「口腔内へ少量。飲み込ませないで、頬の内側。医療室へ運びます。担架、二人」
ミンジェがすぐに動き、整備班の男たちがローバーの固定具から手を離して走った。さっきまで出発を急かしていた者たちが、倒れた男の体を持ち上げる。怒りの向きは、一瞬で失われていた。
ドヒョンは動かなかった。彼の視線は倒れた男と、赤く灯った熱封印装置の間を往復した。どちらも現実だった。だが一方は床で息をしており、もう一方はまだ可能性を焼くための装置だった。
「総会を招集します」
イソは配給所前に立ち、通路全体へ声を通した。
「医療、農業、整備、配給、患者家族、重労働者。全員の代表を中央食堂区画へ。熱封印装置の搬出は、総会の決定まで停止します」
「停止命令を出す権限は君にない」
ドヒョンが言った。
「なら、記録に残してください。私は総会を招集します。ここから先は、指揮官命令だけで進めません」
ラオンの端末が震え、近距離同期領域へ招集通知が流れていく。格納庫の壁面にも、配給端末にも、医療室前の小さな画面にも同じ文字が浮かんだ。臨時総会。議題、洞窟熱封印装置搬出の可否。
だがイソは、その文字を見ても胸が軽くならなかった。
倒れた男は担架で運ばれていく。彼の整理券は床に残り、赤い砂と靴跡で半分汚れていた。列にいた人々は通知を読んでいる。読んではいるが、目の奥にはさっきまでの迷いがない。彼らは説得を待つ顔ではなかった。待たされた結果を、床に倒れた体で見てしまった顔だった。
その時、配給端末が短く鳴った。
《タンパク質補助剤、即時配布待機数:二十七》
《承認済み残数:三》
数字は静かに更新され、列の中で二人目の労働者が壁に手をついた。
イソは総会通知の送信完了表示を見つめた。始める前から、時間はすでに彼女たちの側になかった。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
25話 ミンソルの問いと警報
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