セユンの指先が外縁通路に止まったまま、食堂区画の怒号はしばらく遅れて揺れた。
「そこは候補地じゃなかったはずだ」
外壁補修班の男が吐き捨てる。セユンは唇を結び、端末を拡大した。赤い濃淡の中心は洞窟の奥へ沈み、細い外縁通路はその縁をかすめていた。完全な白ではない。けれど、赤い脈が密集する中心とは違う。冷たい玄武岩層が、塩水層へ落ちる亀裂とのあいだに黒い帯のように挟まっていた。
イソは群衆の圧を背中に感じながら、折り畳み卓の前へ歩いた。
「セユンさん、その線だけ残してください。ラオン、アレス03の生体信号マップを透明度四十。居住膜の廃熱線も重ねて」
「了解。端末、隅へ移します。ここだと踏まれます」
ラオンが機材を抱え、食堂区画の角にある壁面端末へ移った。ミンジェが人波を押し返しながら通路を開ける。ハリンは血液検査の画面を閉じず、その横に汚染管理の空白フォームを出した。セユンは地図の縮尺を何度も変え、指が震えるのを隠すように袖口で端末の縁を拭いた。
四人が隅の端末前に集まると、騒ぎは背後でまだ続いていた。誰かが装置班を呼べと叫び、別の誰かが倉庫を開けろと返す。だが壁面に新しい重ね図が浮かぶと、近くにいた者たちだけは声を落とした。
外縁通路は、洞窟中心部へ直接つながっていなかった。地質班の古い断面図ではただの枝道に見えたが、三次元層に戻すと違った。中心部へ降りる亀裂の前に、低温の玄武岩層が斜めに割り込み、通路の奥は塩水層の赤い反応帯から数十メートル外れていた。
「死角です」
ラオンが言った。
「生体信号のセンサーから見ると、中心の影に隠れている。地質図だけなら袋小路に見える。両方を重ねないと、候補に出ません」
ミンジェが端末を覗き込み、包帯を巻いた右手ではなく左手で廃熱線をなぞった。
「でも寒い。ここに培養器を置いたら凍る」
「凍る場所なら、そもそも菌糸は育ちません」
セユンがすぐに答えた。声はまだ硬いが、技術者の調子に戻っていた。
「ただ、完全に凍っているわけじゃない。居住膜の廃熱排気が、いまは無駄に外へ逃げています。圧を落として細く回せば、通路内の膜を直接温めず、空気だけを十度台まで上げられるかもしれません。菌株によっては足ります」
イソは廃熱線の起点を追った。破れた居住膜の下、暖房主管の余剰熱を逃がしている排気管。今は外気へ捨てているだけの熱だった。そこに低圧の柔らかい流れを作り、二重膜の外側へ通す。培養区域の内側に直接熱線を入れなければ、結露も排水も制御しやすい。
「排水は?」
「床へ落としません」
ミンジェがすぐに言った。
「廃棄ローバーの冷却管を使えば、細い回収管を一本作れます。陰圧で引けば、漏れても外へ噴きません。ただ、固定具が足りない」
「固定具は穀物ラックを崩せば出せます」
セユンが続ける。
「食料棚を減らすことになる。でも、空になった棚から先に外せばいい」
その言葉に、周囲の数人が顔をしかめた。空になった棚。さっきまで怒りの中心だった場所が、今度は材料の候補として言葉にされたからだ。
「かもしれません、では総会は通らない」
イソは言った。セユンは一瞬だけ目を伏せ、すぐ別の表を開いた。
「保存菌株K-四とF-二なら、生育最適は二十一度。でも最低生育は八度からです。速度は落ちます。初回収量も洞窟中心部案の半分以下になる。でも、廃水残渣を熱源の近くで前処理すれば五日目から薄いシートが取れる可能性があります」
「中心部を焼くより遅い」
ドヒョンの声が背後から来た。彼は人垣の向こうに立ち、端末ではなくイソを見ていた。
「遅いですが、中心部へ地球菌糸を入れません」
ハリンが答えた。
「完全な安全は保証できません。外縁通路も火星の地下に近い。ただし、洞窟中心部を熱処理し、亀裂の上に培養区域を置くよりは、汚染リスクを大幅に下げられます。熱衝撃も、有機物の流入も、排水経路も分離できる」
「分離できる、ではなく、分離したい、だろう」
「医療と汚染管理で完全という言葉は使いません。比較するだけです。今ある二案のうち、より壊れにくい方を選ぶ」
ハリンの声は低かった。背後の住民たちは、完全ではない、という言葉に不安そうにざわめいた。イソはそのざわめきを無視しなかった。ここで都合よく「安全です」と言えば、また配給表と同じところで壊れる。
「リスク表を作ります」
イソは端末に手を置いた。
「中心部熱封印案、外縁通路隔離案、食品工程復旧待機案。収量、日数、汚染リスク、必要電力、必要人員、公開記録の項目を並べる。正式会議に議案として上げます。今すぐ」
「却下する」
ドヒョンの返答は、速すぎた。
イソは振り返った。
「まだ表も出していません」
「出す必要はない。未検証の通路に、入植者の生存を懸けることはできない」
「洞窟中心部も未検証です」
「熱封印装置は検証済みの装備だ。表面汚染処理のための標準機材で、運用班もいる」
「標準機材を、標準ではない洞窟中心部に入れようとしているんです」
ドヒョンは一歩近づいた。周囲の警備要員が反射的に動き、ミンジェが身構えた。
「技術チーム会議は指揮部で行う。参加者は技術チーム長、農業チーム長、整備主任、指揮部要員に限定する。ハン・イソ、ソ・ハリン、ユン・ラオン、ク・ミンジェ。君たちの参加を認めない」
「私が外縁通路の配置を作ります」
「正式候補ではない」
「ハリンは汚染管理の責任者です」
「医療室に戻れ。倒れた者がいる」
「ラオンはデータ照合をしています」
「通信担当の権限外だ」
「ミンジェは排熱と遮断膜の実装を見られます」
「整備班は指揮部の作業命令で動く」
一つずつ切られていく。怒鳴られたわけではなかった。だからこそ、刃物のように静かだった。イソは反論のために息を吸ったが、背後で咳き込む声がした。ハリンが振り返り、栄養失調の男の肩を支える。現実は、議論の形を待ってくれなかった。
ドヒョンは端末を指さした。
「地図データは指揮部へ提出しろ。資料は検証する」
「公開記録に残します」
イソが言うと、彼の目がさらに冷えた。
「残せ。ただし、会議には入れない」
それで終わりだった。
正式な権限を持たない四人は、地図のコピーと未完成のリスク表だけを手に散った。セユンはドヒョンに呼ばれ、技術チーム会議へ向かわされた。ミンジェは倉庫前の圧を逃がすため整備班へ戻り、ラオンは端末のログを自分の袖端末に退避させた。ハリンは倒れた男の再検査へ走る。イソは壁面に残った外縁通路の細い線を最後まで見ていたが、数秒後、指揮部の認証画面がそれを覆い隠した。
その夜、居住膜の照明が低出力へ落ちたあと、ハリンは仮設診療室の片隅に一人でいた。
診療台の上には、アレス03の密封サンプル容器が置かれていた。その横に、昼の端末から印刷した外縁通路の地質データ出力物が広げられている。赤い反応帯、玄武岩層、廃熱線、細い通路。紙は火星の乾いた空気で端が少し反っていた。
ハリンは容器の外壁温度、診療室の照明熱、周囲の振動を順に確認した。異常はない。なのに容器内側の霜だけが、ゆっくりとほどけ始めた。
白い霜は水滴にならず、薄い線のまま動いた。最初はただの偶然に見えた。だが線は曲がり、枝分かれし、またつながる。ハリンは息を止め、出力物の等高線へ視線を落とした。
形が、ほぼ同じだった。
洞窟中心部ではない。赤い脈でもない。冷たい玄武岩層の縁をなぞり、外縁通路の曲がり角で一度細くなり、居住膜の廃熱線が触れる位置で霜は淡く消えた。
彼女は記録端末に手を伸ばした。触れる直前、容器底の温度表示が一拍だけ跳ねる。警告には足りない、小さな上昇だった。
ハリンは長くそれを見つめた。
そして初めて、誰にも聞こえないほど低く言った。
「ここは、空いているんじゃない」
その瞬間、サンプル容器の内側で霜がもう一度ほどけ、今度は外縁通路のさらに奥、地図に番号のない空白の領域へ向かって、暗いガラスの中に新しい線を一本描き始めた。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
29話 閉ざされた緩衝層の設計
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