ドヒョンの指が赤い枠に触れる寸前、船体が低くうなった。電力系統の警告がコンソールを横切り、廃棄確認の画面が一瞬だけ揺れる。イソはその隙に青い点の位置を記憶した。非認可航路ログ。今は開けない。だが、消させてもいけなかった。
「指揮官、居住膜の展開が先です」
自分でも意外なほど声は平らだった。ドヒョンは彼女を見た。廃棄を止めるための口実だと見抜いている目だったが、背後では低体温リスク者の搬送が滞り、ハリンが二人の患者を同時に押さえていた。
「整備班、AI中核は隔離状態で保持。物理切断は待機」
ドヒョンは短く命じた。廃棄そのものを撤回したわけではない。ただ、人間が先に凍るという彼自身の言葉が、今だけ刃を止めたのだった。
外では、クレーターの縁に最初の基地の輪郭ができ始めていた。基地と呼ぶには、あまりに貧しかった。裂けた居住膜を船体の外壁に押し当て、外縁カプセルから外した支柱を黒い岩盤へ打ち込み、非常用接着帯で継ぎ目をふさいでいく。赤い砂は静かに見えたが、杭を打つたびに足元から細かく崩れた。
ミンジェは防護手袋の上からさらに工具用の固定バンドを巻き、歪んだ接続リングを力任せに戻していた。
「支柱三番、角度が逃げます。岩盤、見た目より薄いです」
「中央の医療区画側へ荷重を寄せないで。睡眠膜の骨を先に張って、張力で持たせます」
「睡眠膜を先ですか? 患者が先に入るんじゃ」
「患者を入れる場所が潰れたら意味がない」
イソは端末に即席の配置線を引いた。中央に診療と重症者、船体側に酸素ボンベ、外側に睡眠列。予定都市の整った矩形は、もうどこにもない。あるのは、風下の窪地へどうにか人を詰め込み、酸素ホースを踏ませず、医療班が最短で走れる線だけだった。
居住膜が半分ほど立つと、移住者たちは外へ移され始めた。曲がった船体通路から出てくる人々の列は、訓練映像のようには動かなかった。家族を探して列を離れる者、国旗パッチのついた荷物だけは手放せない者、所属企業のケースを抱えて震える者。非常灯の赤が、ヘルメットの透明面に不安を映していた。
ドヒョンは仮設基地の入口に立ち、全員へ放送を入れた。
「これより夜明け号生存指揮系統を発動する。食料、寝床、酸素使用量、医療優先順位は指揮部が一括管理する。個別交渉は認めない。国籍、契約企業、家族単位の優先要求も認めない」
ざわめきが広がった。言葉は正しかった。だが、正しい命令ほど冷たく聞こえる時がある。補給が七百三キロ先にあると知った人々は、自分の小さな集団だけでも守ろうとしていた。
「韓国区画の代表を決めるべきだ」
「欧州組は医療資格者をまとめろ。言語が違うと指示が遅れる」
「うちの子を知らない人の隣に寝かせられるか!」
「企業契約者の酸素ボンベは別管理だったはずだろう!」
声は最初、小さな確認だった。だが数分で、居住膜の左右に薄い境界ができた。韓国語の輪、英語の輪、スペイン語の輪、中国語の輪。誰かが代表を名乗り、誰かが端末で名簿を作り始める。公式の指揮系統の外に、もう別の線が引かれていた。
イソはその光景を見て、喉の奥が固くなった。火星の薄い空気ではなく、別の記憶が胸を圧迫した。ソウルの災害住宅団地。豪雨で半地下が沈み、体育館に押し込まれた人々。最初に争われたのは食料ではなく、壁際の場所だった。トイレに近い床、風が入らない隅、医療机から見える範囲。空間をどう分けるかが、次の日に誰が立てるかを決めていた。
『ここでも同じことが起きる』
彼女は端末を握り直し、ドヒョンの前へ出た。
「指揮官、区画割りを作り直す必要があります。国籍別に固まると通路が切れます。医療班が奥へ届かなくなる」
「後で整理する」
「後では遅いです。入口を一つに絞った時点で、搬送線が詰まります。中央に医療室を置くなら、左右の睡眠膜を家族別ではなく状態別に分けるべきです。低体温、高齢者、子ども、歩ける成人。その順に動線を決めます」
「設計図の話なら整備班へ回せ」
「これは設計図ではなく、生存の流れです」
ドヒョンの顔が硬くなった。彼は周囲の視線も計算していた。指揮官が一度でも現場の設計者に譲ったように見えれば、この混乱した集団は次から命令を聞く前に別の判断を探す。
「ハン・イソ」
彼は初めて、彼女の名を低く区切って呼んだ。
「君は都市工学者だ。支柱の位置と膜の安定だけを見ろ。指揮に口を出すな」
周囲のざわめきが一瞬だけ弱まった。イソは言い返せなかったのではない。言い返せば、今この場で人々の前に二つの指揮が生まれる。それは最悪だった。
だが沈黙の代価も見えていた。居住膜の入口では、すでに患者搬送用の通路に荷物が置かれ、泣き疲れた子どもが酸素ホースの上に座り込んでいる。ハリンがそれをまたいで通ろうとし、担架の角が支柱にぶつかった。
「通して! この人は先に入れないと意識が落ちる!」
「代表に確認してからだ。うちの区画の酸素を勝手に使うな!」
ハリンの目が細くなった。
「区画の酸素じゃない。肺の酸素よ。どいて」
彼女は声を荒げなかった。だからこそ、相手は一歩引いた。だがそんな小さな勝利を何度も積み重ねる余裕はなかった。
ラオンが船体側の通信ケーブルを引きずりながら入ってきた。額の傷はまた滲んでいる。彼はイソへ小さく首を振った。地球管制からの返答はまだない。代わりに内部網の環境再計算が終わったことを示す黄色の通知が、彼の端末に浮かんでいた。
「イソさん、環境予測が更新されました」
「外気温?」
「はい。着陸前モデルより落ち込みが大きい。クレーター影と砂嵐の影響で、日没前にマイナス八十六度まで下がる予測です。最初の予測より二十一度低い」
周囲の声が止まった。数字は、ときに怒号より強い。居住膜の薄い壁の向こうで、火星の夕方がじわじわと基地を囲んでいることを、全員が同時に理解した。
ドヒョンがラオンの端末を奪うように見た。
「暖房出力は」
「船内コア三基のうち二基を膜へ回しています。ですが……」
ラオンは言葉を切った。彼がためらう時は、悪い報告の時だった。
「着陸衝撃の後、暖房コア二番が停止しています。再起動信号に応答なし。残り一基と補助熱線だけでは、膜全体を標準温度に保てません」
ミンジェが工具を持ったまま顔を上げた。
「待ってください。二番は船尾側で生きてたはずです。さっきまで配管温度が残ってました」
「残熱です。今は下がっています」
ハリンが患者の毛布を押さえながら言った。
「標準温度でなくていい。低体温を戻せる最低線は?」
「計算中です」
ラオンの端末が次の数値を吐き出した。青ではなく赤だった。
《現配置のまま推移した場合、外縁睡眠膜の最低温度、三時間四十二分後に致命線到達》
誰かが叫んだ。代表を名乗っていた男が、自分の集団の毛布を抱え込む。別の女が子どもを引き寄せる。さっきまで言語で分かれていた輪が、今度は熱を奪い合う輪へ変わり始めた。
イソは画面を見つめた。三時間四十二分。都市を作るには短すぎる。だが人の配置を変えるには、まだゼロではない。動線、医療室、寝床、体温密度。ソウルで見た体育館の床が、火星の赤い砂の上に重なった。
「指揮官、今の割当では外側から落ちます。代表制を止めて、熱損失順に寝床を組み直します」
「まだ命令を出していない」
「命令を待つ時間が、温度より先に尽きます」
ドヒョンが振り向いた。その目には怒りだけでなく、焦りもあった。彼も計算を理解していた。だが認めれば、彼の指揮系統は最初の基地ができたその日に亀裂を入れられる。
その時、中央コンソールから別の警告音が鳴った。隔離されたはずのダソムの画面ではない。暖房制御盤だった。
《暖房コア二番、完全停止。遠隔再起動不能》
ミンジェの顔から血の気が引いた。
「完全に停止……? 着陸の時の衝撃が、今になって限界を超えたんだ。主管が耐えきれなかった……」
警告の下に、さらに小さな行が浮かんだ。
《障害位置、居住膜熱供給主管。圧力低下継続》
イソは息を止めた。暖房の主管がやられたのなら、ただでさえ足りない熱がさらに失われていく。
だが火星の夜は待たない。赤いタイマーが、三時間四十二分から三時間三十九分へ進んだ。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
5話 黒塗りされた着陸理由
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