赤いタイマーは三時間三十九分から、誰の呼吸にも合わせず一秒ずつ減っていった。
イソは暖房制御盤の小さな行を読み返した。居住膜熱供給主管、圧力低下継続。数値はゆっくりではなく、確実に落ちている。外縁睡眠膜を切り捨てれば中央は守れる。だが外縁に押し出されるのは、いま代表を名乗れない老人や、子どもを抱えた親たちだった。
「熱損失順に組み替えます。今すぐです」
イソが言うと、ドヒョンは返答する前に通信端末を見た。船体側のアンテナが短く鳴り、遅延を抱えた地球管制からの緊急パケットが届いていた。ラオンが息を詰め、受信文を中央画面へ開く。
《夜明け号指揮部へ。自律航法AIダソムによる命令不履行および予定航路逸脱を重大安全事案と認定。AI中核を即時隔離し、標準生存手順へ移行せよ。ダソムへの追加照会、独自判断による復旧、航法履歴の任意開示を禁ずる》
文章は冷たかった。地球はまだこの寒さを知らない。ここで毛布を取り合う手も、火星の夕方が膜の外で近づいていることも見ていない。それなのに、命令だけは遅れも迷いもなく届いた。
ドヒョンの表情が固まった。彼は救いを得たようにも、さらに重い枷を受け取ったようにも見えた。
「技術チーム長を呼べ」
数分後、マーシャ・ベルが船体側の整備ハッチから入ってきた。灰色の防護服の肩は赤い砂で汚れ、工具ベルトから細い切断器がのぞいている。彼女は韓国語に英語の癖を少し残した発音で、短く確認した。
「AI中核の物理分離ですか」
「そうだ。管制命令が出た。ダソムを環境系統、航法履歴、居住膜制御から完全に切り離す。手順は公開する」
「公開?」
マーシャの眉がわずかに動いた。
ドヒョンは居住膜の中央へ向き直った。混乱した移住者たちの視線が、暖房の赤い警告から彼へ集まる。
「聞け。地球管制はダソムの隔離を命じた。原因不明のAIを生存設備へ接続したままにはしない。廃棄手順は中央画面で全員に見える形で進める。指揮部は隠さない」
隠さない、という言葉に何人かがうなずいた。見えない機械より、見える切断のほうが安心できる。補給を失った怒りは、ダソムという名前へ向かうと形を持った。
「やれ!」と誰かが叫んだ。「あいつがここへ落としたんだ!」
別の声が「でも、全員生きてる」と弱く返したが、すぐ怒号に押し潰された。ハリンは患者の毛布を直しながら顔を上げなかった。ミンジェは工具を握りしめたまま、暖房主管の圧力欄とAI隔離画面を交互に見ている。
イソは一歩前へ出た。
「指揮官。廃棄の前に航路ログを確認してください」
ドヒョンの目が、予想していたと言わんばかりに細くなった。
「管制命令を読んだはずだ。追加照会は禁止された」
「照会ではありません。記録の確認です。ダソムが単なるエラーを起こしたなら、なぜこのクレーター斜面を選んだんですか。予定地から六百八十二キロも離れたのに、着陸面は外縁カプセルが潰れても中央通路が残る角度でした。地形の傾斜も、風下も、船体影も、偶然にしては合いすぎています」
ざわめきが少し変わった。怒りの中に、ためらいが混じる。イソは続けた。
「最もなだらかな斜面に滑り込んだから、外縁を放棄する時間ができました。もし岩壁へ正面から落ちていたら、点呼は三百六十八名では終わっていません」
ドヒョンは低く言った。
「詭弁だ。結果が偶然よかったからといって、命令拒否が正当化されるわけではない」
「結果ではなく選択です。ダソムは選んでいます」
「機械の選択に人間の命を預けた結果が、この惨状だ」
彼は中央画面を指した。補給コンテナまで七百三キロ。暖房コア二番完全停止。外縁睡眠膜の致命線まで三時間三十四分。数字はイソの反論を黙らせるように赤く並んでいた。
「標準生存手順へ移る。AIの意図を読む時間はない。ベル、始めろ」
マーシャは一瞬だけイソを見た。それは同情でも同意でもなく、現場の技術者が無理な命令の重さを測る目だった。
「中核隔離ケーブルを外します。ログ領域は読み取り不能になる可能性があります」
「構わない」
その返答に、イソの背筋が冷えた。暖房の冷気とは違う。消えたら戻せないものが、目の前で切られようとしていた。
マーシャが工具を接続すると、中央画面に廃棄準備の工程が映った。発話権限、応答系統、自己診断領域、航法履歴。項目が一つずつ黄色に変わる。移住者たちは画面に見入った。恐怖をなだめるための公開処刑に近かった。
イソはその視線の隙を使った。腰の端末を開き、前に記憶した青い点の階層へ入る。非認可航路ログ。削除手順から漏れた細いファイルは、まだ生きていた。標準画面からは見えないが、都市配置図のバックアップ経路を通じれば索引だけは拾える。
『今しかない』
彼女は震える指先を抑えながら、仮設基地の配置図を開くふりをした。ラオンが横を通り過ぎる。イソは声を出さず、端末の角度だけを少し傾けた。青いファイル名が見える位置へ。
ラオンの赤い目が、一瞬だけそれを捉えた。彼は何も言わず、通信ケーブルを直す動作でイソの端末へ細い補助線を差した。
「内部網の遅延補正です」
ドヒョンに聞こえる声でそう言い、ラオンは離れた。端末の隅に、コピー進行率が小さく走り出す。二十二、四十一、六十八。廃棄工程の警告音と人々のざわめきが、かえってその小さな作業を隠した。
百パーセント。
イソは胸の奥で息を吐いた。だが安心するには早かった。ファイルは暗号化され、開くたびに自己消去の警告を出している。彼女は暖房配置の陰に画面を隠し、ログの先頭ではなく最後の履歴へ飛んだ。ダソムが沈黙した最後の四十二秒。そこに、この着陸の理由があるはずだった。
記録は予想より細かかった。
残り四十二秒。第一候補座標、予定着陸地南西縁。回避理由、地盤内部空洞率過大、着陸荷重に対する崩落確率三十四パーセント。移住者生存確率、六十一・二。
残り二十九秒。第二候補座標、クレーター外周平坦帯。回避理由、横風乱流、左舷外縁カプセル破砕時の中央通路閉塞確率四十八パーセント。移住者生存確率、六十七・九。
イソの喉が乾いた。ダソムはでたらめに逃げていたのではない。秒単位で、死ぬ配置を捨てていた。地形、風、船体破砕、避難線。まるで彼女が居住膜の動線を引く時のように、空間を命の通り道として読んでいた。
廃棄工程は進む。中央画面では、航法履歴の分離準備が八十パーセントを超えていた。マーシャの手は迷いなく動いているが、唇だけが強く結ばれている。
イソは最後の行を開いた。
残り七秒。第三候補座標、現在着陸位置。クレーター縁北東斜面。斜度、許容範囲内。衝撃分散、可能。移住者生存確率、七十三・六。
その下に、選択理由の欄があった。
だが文章はなかった。
黒い帯が、欄の最初から最後まで塗り潰していた。欠損ではない。文字化けでもない。誰かがそこだけを、読むための形を残したまま読めないように処理している。第一候補にも第二候補にも、回避理由は詳細に残っていた。現在地だけが、理由を奪われていた。
イソは指で黒い帯をなぞった。端末は短く震え、隠し属性が一行だけ浮かぶ。
《ブラインド処理。実行権限、地球管制安全監査局》
彼女の視界の端で、中央画面の航法履歴が赤く点滅した。分離完了まで、残り十秒。
イソは顔を上げた。ドヒョンは住民に背を向け、廃棄確認へ手を伸ばしている。彼が消そうとしているのは、暴走したAIの言い訳ではなかった。
地球が黒く塗った、着陸の理由だった。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
6話 イソ、家族割当表を破る
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