ミゲルの声は、砕けた受信機のノイズを裂いて信号所の中へ届く。
「ドギョムさん。姉さんたち、D-3へ入ります」
ドギョムは返事をしない。返せば、ミゲルが次の言葉を待つ。待たせる時間はない。彼は受信機のつまみを親指で少し下げ、膝をついたまま左脇へ手を入れる。濡れたシャツの内側、肋骨の下を一度だけ押さえる。息が浅く切れ、視界の端が白くなる。
それでも立つ。
床板の下に水が溜まり、軍用ブーツの底が鈍く滑る。信号所の壊れた窓から、広場の方角の赤い空が雨ににじんでいる。薬品倉庫の火だ。プライスの演説も、住民の悲鳴も、ここまでは届かない。ただ無線の中で、町の仕組みが壊れる音だけが細く続いている。
「……おい」
坑木へ縛られたラウクが笑う。乾いた笑いだ。雨に濡れているのに、喉の奥だけが砂を噛んでいる。
「走るのか。今から」
ドギョムはラウクを見下ろす。右手の指四本は、手袋の中で不自然に折れたまま震えている。もう拳銃は握れない。書類を机に押さえつけることも、無線の送信ボタンを正確に押すことも、以前の速さではできない。
「残りの手で祈れ」
それだけ言って、ドギョムは信号所を出る。
背後でラウクが、また笑う。
「お前は間に合わない。マローンは入口を落とす。女記者も、あの娘も、番号の連中も、全部岩の下だ」
ドギョムは振り返らない。雨のホームを横切り、縛った確認役二人の息だけを一瞬見る。二人とも生きている。動けない。十分だ。貨車の陰を抜けると、古い鉄道駅の外にルーファスの廃トラックが黒く濡れて待っている。
その頃、南の食料品店の冷蔵倉庫では、グラディスが外来受付端末にしがみついている。白い息が小さく震え、古い端末の画面には送信履歴が並ぶ。STATE POLICE ANTI-CORRUPTION、MEMPHIS WIRE、DALLAS OBSERVER、COUNTY PROSECUTOR PUBLIC INTAKE。最初の群は完了。次の群が、雨で不安定な回線に食らいつくように進んでいる。
「切れないで……」
彼女は祈りの言葉ではなく、機械への命令として呟く。二つ目の送信先群に入っていた地方紙、医療監査窓口、州外の報道デスクへ、会計表の写し、死亡診断書の署名画像、午前二時四分の七行、フィントンの印影が順に流れる。
端末が一度、凍ったように止まる。
グラディスは息を止める。次の瞬間、画面の下に小さく「SENT」が三つ重なる。彼女は無線の送信ボタンを押す。
「二つ目まで流れたわ。会計の写し、署名欄、七行。全部、二つ目まで」
声は震えているが、言葉は数字のように正確だ。
教会地下の崩れた入口では、ディナが瓦礫の中へ手を伸ばしている。雨水が階段を滝のように落ち、黒い泥と割れた木片が足首へ絡む。ヘナは壇の角で背中を打っており、息を吸うたびに顔を歪めている。それでも胸元を押さえた手だけは離さない。そこには、ジョアンから受け取ったもう一枚の写しがある。
「立てる?」
ディナが肩の下へ腕を入れる。
「……聞く時間があるなら、引いて」
ヘナの声はかすれている。いつもの低い声に、痛みで削れた細い刃が混じる。ディナは頷き、彼女を瓦礫の外へ引きずる。背中を動かした瞬間、ヘナの喉から短い息が漏れるが、叫びにはならない。
ディナの外套の内側には、封筒ノートの写し二部が挟んである。片方は水を吸って角が丸まり、もう片方はビニールの内でまだ乾いている。トミーの分は私が持つ、と言った夜の重さが、今は紙の厚みになって脇腹へ当たる。
「倉庫へ行くわ。グラディスが一人じゃ持たない」
ヘナは頷こうとして、背中の痛みに止まる。
「走らないで。見つかる」
「走るしかない時は?」
「転ばない速さで」
短いやり取りのあと、二人は教会脇の雨へ出る。黒いピックアップが去った轍が泥に残っている。轍は廃鉱の方角へ伸び、赤い空の下で消えている。
学校屋上では、ミゲルが黒いドローンの画面に目を貼りつけている。バッテリー残量は十二パーセント。風速警告が赤く点滅し、雨粒がレンズに線を引く。二機目は低く、尾根の木々をかすめる高さで廃鉱進入路を追っている。
ピックアップ二台はD-3分岐の手前で一度速度を落とした。先頭の車が新しいコンクリートの通路へ入り、二台目の荷台の白い布がまた跳ねる。ミゲルの喉がひくつく。姉の足かどうかは見えない。見えないから、声を震わせてはいけない。
彼は座標表示を読み上げる前に、左手でメモを押さえる。指は痛む。だが送信ボタンは押せる。
「ジョアンと姉さん、被害者二人、黒いピックアップ二台。廃鉱分岐D-3の方です。爆薬設置もそっちです」
言い切ってから、ミゲルはもう一度画面を見る。小窓の端で、男が何かを荷台から下ろしている。棒ではない。細いケーブル束だ。
「ドギョムさん、赤い箱が見えます。坑口の横、二つ。ワイヤーも」
返事はない。
それでもミゲルは続ける。
「座標を送ります。今、送ります」
学校屋上の古い無線機が、雨を吸ったアンテナで短い信号を吐く。
鉄道駅の廃トラックで、その信号が乾いた電子音になって鳴る。ドギョムは運転席へ上がり、座席の上のフィントンの黒い革鞄を引き寄せる。番号錠はもう開いている。中から防水袋入りの爆薬設置図を抜き、ハンドルに押しつけて広げる。
紙は薄い。だが赤い印は濃い。D-3本坑道の坑木三か所。換気塔二か所。鉱車レールの分岐点一か所。入口を落とすだけではない。中で逃げる方向を一つずつ潰す配置だ。
ドギョムはミゲルの座標を、図の赤印へ重ねる。黒いピックアップの位置は、分岐D-3の入口と第一換気塔の間。ジョアンたちを奥へ押し込めば、最初に換気塔を落とし、次に本坑道を潰す。外から見れば廃鉱の崩落。中にいた名前のない人間は、最初から存在しなかったことにされる。
「……そうはならない」
声は小さい。自分に聞こえるだけで足りる。
エンジンは一度むせ、二度目でかかる。古いフォードの車体が震え、割れたダッシュボードの奥で赤い警告灯が点く。ドギョムは設置図を折らず、助手席へ広げたままにする。視線はこれから進む道と図を行き来する。肋骨の痛みは、左脇で熱い石になっている。
受信機から、グラディスの声が遅れて届く。
「二つ目まで流れた。聞こえる? ドギョム、会計は外へ出た」
別のノイズの奥で、ディナの声も重なる。
「ヘナを連れて倉庫へ向かう。写し二部、持ってる。ジョアンを――」
そこで通信は雨に削られる。
ドギョムは短く送信ボタンを押す。
「生きて倉庫へ行け」
返事を待たず、廃トラックを動かす。タイヤが水たまりを割り、鉄道駅の砂利を後ろへ蹴る。縛られたラウクの笑いはもう聞こえない。代わりに、D-3側の予備チャンネルが細く開く。
知らない男の声が入る。
「第一換気塔、準備に入る。入口を落とせば、奥は自分で潰れる」
ドギョムはアクセルを踏み込む。廃鉱へ向かう道は、赤い空の下で泥の川になっている。その先にジョアンとアルマがいる。まだ名前で呼ばれていない人々もいる。
設置図の赤印が、助手席で跳ねる。
次の無線は、もっと近かった。
「第一換気塔、起爆回路をつなげ」
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
101話 第一換気塔、起爆三分前
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