ドギョムは咳の返った方角へ、ライトを点けずに進む。
本坑道一つ目の坑木を過ぎると、レールはわずかに右へ曲がる。古い水の溜まりが枕木の間に黒く残り、天井から落ちる雫が一定の間隔で跳ねている。ジョアンの咳はもう聞こえない。だが、さっきの短い音は、坑道の反響ではなく人の喉から来た。距離は近い。壁一枚ではない。分岐を一つ挟んだ先だ。
無線は腰で低く震える。
「二番、状態を言え」
別の男の声が続く。
「本坑道、確認に回しますか」
マローンはすぐ答えない。沈黙が坑道の空気を押し下げる。ドギョムは濡れた壁へ肩を寄せ、息を浅く保つ。二番の男を倒した場所からここまでは、足跡を残す水たまりを避けてきた。だが向こうがライトを向ければ、切られた線より先に濡れた枕木が話す。
「三番を起こせと言った」
マローンの声が落ちる。
「それと、本坑道二つ目を急がせろ。点火前に戻すな。結線だけ終えさせろ」
本坑道二つ目。
ドギョムは配置表の折り目をシャツの内側越しに感じる。第一、二番、三番、分岐、最奥。赤線の三番。今はその意味を追わない。先に二つ目の坑木を止める。ジョアンの咳は、その先から来た。
狭い通路へ入ると、空気が変わる。火薬の臭いに、錆びた水と古い油の臭いが混じる。壁の一部は崩れ、木枠で無理に支えられている。大人ひとりが肩を斜めにしなければ通れない幅だ。足元には使われなくなった工具箱、折れたレール釘、破れた麻袋が沈んでいる。
奥で小さな金属音がする。
ドギョムは止まる。安全帽のライトを点けないまま、闇の濃さだけで距離を測る。曲がり角の先に光がある。白くなく、黄ばんだ円。揺れている。手持ちではない。腰に下げた灯りが動く揺れ方だ。
男は大柄だった。
二番の痩せた男より肩が広く、首も太い。濡れた作業服の上からでも背中の厚さがわかる。腰には鎖でつながれた懐中電灯が下がり、動くたびに金属輪が革ベルトへ当たる。右膝をつき、二つ目の坑木の根元に爆薬の包みを二つ固定している。片手で赤いケーブルを引き、もう片方で黒い戻り線を探っている。
男の脇には拳銃がない。だが工具袋の上に短い散弾銃が置かれている。銃口は坑道奥ではなく、戻り道の方へ向いている。作業を守るためではなく、戻ってくる者を撃つための位置だ。
「二つ目、結線中」
男が無線へ言う。
声は低く太い。喉に砂を入れたような響きがある。
「二番は見えねえ。線が濡れたって話なら、こっちも同じだ。急がせるなら、人を寄こせ」
マローンの返事は短い。
「結べ」
男は舌打ちをし、無線機を肩の近くへ戻す。その手が散弾銃から離れる。だが距離がある。飛び込めば一歩足りない。坑道は狭く、男の体を盾にしても、無線へ声を入れられる。
ドギョムは壁際の影を探る。
指先が冷たい鉄に触れる。はじめは古いレール釘かと思う。違う。柄がある。木の柄。長く、ひび割れ、手の脂が抜けた乾いた感触。坑木脇の壁へ斜めに立てかけられた古い鉱山用シャベルだった。刃は鈍り、先は少し曲がっている。だが重さがある。狭い坑道では、銃より速く届く重さだ。
ドギョムは柄を握る。
木が湿気で膨らみ、手のひらにささくれを立てる。左脇の痛みが、持ち上げる前から肋骨の内側を叩く。彼は長く吸わない。息を短く吐き、右足を前へ置く。靴底は水を踏まない。枕木の古い油染みだけを踏む。
男が赤い線の端を歯でくわえ、手袋を外そうとする。
その瞬間、ドギョムは影から一歩踏み出す。
シャベルの先が斜め上へ跳ね上がる。
鈍った刃は切らない。切る必要はない。鉄の重さが、男の鎖骨と肩の間へ容赦なく食い込む。骨が内側へ潰れる鈍い音が、火薬の袋と坑木に吸われる。男の体が横へ弾かれ、腰の懐中電灯が鎖を鳴らして跳ねる。
悲鳴が上がる前に、ドギョムは柄を捨てる。男の顎を左手で押し上げ、裂いた布を口へ押し込む。大柄な体が反射で暴れ、肘がドギョムの肋骨へかする。白い痛みが視界を裂くが、彼は膝で男の太腿を押さえ、右腕を背中側へ引く。
男は声を出せない。かわりに鼻から荒い息を吐き、片手で散弾銃を探る。
ドギョムはその指を工具袋の上で踏む。骨までは折らない。握れなくする角度で押し込む。男の肩がまた震え、鎖付きの懐中電灯が壁へ当たり、黄ばんだ光が一瞬だけ天井を走る。
「二つ目」
無線が鳴る。
「返せ」
ドギョムは男の手首を坑木の背へ回し、黄色い結束線と古い鎖を使って固定する。足首は爆薬の麻布を避け、坑木の根元へ巻く。布を口へ深く噛ませ、さらに裂いたシャツで顎ごと縛る。呼吸は通る。叫びは通らない。
男の目だけが、ライトの端でぎらつく。
ドギョムはその視線を無視し、爆薬へ向く。
二つ目の結線は半分進んでいる。赤い起爆線は圧着前。黒い戻り線はむき出しのまま。だがここも一つ目と同じではない。赤い被覆の内側に、さらに細い白い芯が隠されている。第一換気塔から本坑道へ渡す線とは別に、最奥へ直接信号を送る予備だ。
マローンは本坑道を順に落とすだけではない。誰かが一つを止めても、奥だけは落とせるようにしている。
ドギョムは工具を拾う。圧着工具、細いナイフ、絶縁チューブ。男の作業が雑なせいで、芯線はまだ噛んでいない。彼は赤い線を切らず、被覆だけを剥く。白い芯を抜き、黒い戻り線の端へ濡れた布を巻く。爆薬側の端子を外し、空いた穴へ錆びたレール釘の欠片を差し込む。外から見れば接触している。だが電気は走らない。
次に二股を裂く。
一つは坑木の爆薬へ。もう一つはさらに奥へ。根元にロックピンを入れてひねると、湿った皮膜が裂け、二本が別の蛇のように分かれる。ドギョムは片方を爆薬から離し、もう片方を坑木の裏へ垂らす。切断面を残さず、抜けたように見せる。
本坑道二つ目、無力化。
無線は短く鳴り続ける。
「二つ目、応答しろ」
男が縛られたまま鼻で音を出す。ドギョムはその口元を見て、布がずれていないことを確かめる。大柄な体はまだ動こうとしているが、肩はもう上がらない。鎖骨の下に熱い腫れが広がり、指は散弾銃を握る形を作れない。
ドギョムは無線機を拾う。男の声を真似る気はない。声は太すぎる。代わりに、濡れた線と岩壁の間で起きる短い反射音を作る。
送信ボタンを押す。
ザ。
少し置く。
ザザ、という濁った擦過音。
そして切る。
向こうで誰かが「二つ目もノイズです」と言う。別の者が「第一、二番、二つ目まで同じはおかしい」と返す。正しい。もうおかしい。おかしいことを、マローンがどこまで許すかだ。
答えはすぐ来る。
「点呼だ」
マローンの声が無線を潰す。
「五人全員、応答しろ。第一。二番。三番。分岐。最奥。順に返せ。よそ者が中にいる」
坑道の空気が一段冷える。
ドギョムは無線機を見下ろす。ここで切れば、点呼に出ない者の数が増える。出せば声でばれる。どちらも時間は削る。だがマローンの命令は、ジョアンの口を外すことから点呼へ変わった。今だけ、女記者への手は止まる。
それで足りる。
ドギョムは無線の電源を切る。小さな緑のランプが消える。完全には捨てない。腰ではなく、シャツの内側へ入れる。メモリーカードの反対側、人員配置表のそばへ押し込む。
遠くで別の無線が返る。
「……三番」
声は歪んでいる。男か女かも判別しにくい。だが返った。第一でも二番でもない。分岐でも最奥でもない。三番だけが、マローンの点呼に遅れず応じた。
ドギョムは足を止める。
シャツの内側で、濡れた配置表が皮膚に貼りついている。三人目の部下の名前の上には、赤い線が引かれていた。その線が、単なる印ではないとわかるより早く、闇のさらに奥でジョアンが息を詰まらせる音がした。
そしてマローンが低く言う。
「よし。三番、残りの声をお前が取れ」
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
105話 鎖で断つ偽りの無線点呼
次の話