マローンは補助端末を、発電機脇の坑木の上へゆっくり置く。
置いたと言っても、親指は赤いボタンから離れていない。端末の角だけを濡れた木に預け、指の腹で保護カバーの内側を押さえたまま、もう片方の手を外套の内側へ入れる。
ドギョムは動かない。八歩。床には粉塵と油と血の薄い筋。マローンの右足は半歩だけ後ろ、拳銃を抜くには外套の合わせを開く必要がある。補助端末のケーブルは発電機の裏へ落ち、そこからさらに黒い束が坑木の影へ潜っている。
「お前は読みがいい」
マローンは厚い封筒を取り出す。革ではなく防水加工された紙封筒だ。さらに新しい身分証の束、社会保障カード、運転免許証、銀行の仮カードらしい薄いプラスチックを抜き、指先でまとめて持つ。
「だから、これも読めるはずだ」
封筒がドギョムの足元へ落ちる。湿った床で鈍く跳ね、中の紙幣が厚みだけを見せる。続いて身分証の束が散る。白いカードの表には、ドギョムではない男の顔写真と、どこかの州の住所が印刷されている。
「よそ者。メンフィスでもエルパソでも行け。新しい名前、新しい口座、新しい信用だ。明日の朝には別の田舎町にいられる」
マローンの声は乾いている。命乞いではない。値段をつける声だ。
「どうせそこでも同じことが回っている。お前が壊した場所は、二か月もすれば新しいラベルが貼り直される。リハビリ、雇用回復、地域再生。呼び名はいくらでもある」
アルマが布を噛んだまま首を振る。ジョアンは膝の上の紙片を握り込もうとして、剥がされた爪の痛みに指を止める。若い男の喉が鳴り、作業服の女は目を閉じたまま肩だけを震わせる。
ドギョムは足元の封筒を見ない。濡れた紙幣も、新しいカードも、別人の名前も視界の端へ捨てる。
彼はシャツの内側へ手を入れる。
マローンの目がわずかに狭くなる。親指は赤いボタンに乗ったまま、人差し指が端末横の細いレバーへ近づく。銃ではない。まだ撃つ必要がないと見ている。爆破のほうが強いと信じている。
ドギョムが取り出したのは、折り畳まれた紙束だった。
ジョアンのノートパソコンから写した識別番号名簿。その一部。雨と汗で端は波打ち、何度も開かれた折り目が白く割れている。そこには五桁の番号、日付、空白欄、発行時刻、備考が並ぶ。
ドギョムはジョアンの震える手から紙片を受け取った。七行。名前。番号ではないもの。
そして、初めて口を開く。
「アルマ・ゴンザレス」
坑道の音が一拍だけ薄くなる。
アルマの目が見開かれる。自分の名を、ここで、自分の前で呼ばれると思っていなかった顔だ。布の奥で息が震え、鎖が短く鳴る。
ドギョムは名簿の一行へ目を落とす。
「五一七〇二。死亡欄、空白。死因欄、空白。医師署名、なし」
マローンが鼻で笑う。
「それで?」
ドギョムは続ける。
「ジョアン・リバース」
ジョアンの肩が止まる。黒い髪が頬に貼りつき、痩せた顔の中で目だけが強くなる。
「仮登録。右欄、空白。死亡診断書、なし。資料室壁面にJR。廃棄物荷台にJR。D-3奥の扉にJR」
マローンの笑みはまだ残っている。だが、その笑みの端がほんの少しだけ遅れる。
「記者の名を呼べば、報道になると思ってるのか」
ドギョムは返事をしない。紙束を片手でめくる。発電機の風で端が震えるが、指は迷わない。
「トミー・グレンジャー」
ディナの夫の名が坑道へ落ちる。ここにいない女の、濡れた面会申請書の紙音まで戻ってくるような名だった。
「更生命令日、郡病院入院日と同日。本人出廷なし。死亡処理欄、後日開封。午前二時四分の群に接続」
若い男が布越しに低く呻く。作業服の女は閉じていた目を開けた。
マローンは肩をすくめる。
「その女房に教えてやれ。夫の名前で町は二度儲けた。治療費と労働分だ」
ドギョムの目は動かない。
「サイラス・ベル」
マローンの眉が一瞬だけ寄る。ルーファスが弟の名を何度も言えず、箱と書類だけが戻った十年前の穴。その穴へ、今は名前が落とされる。
「ルーファスの弟。更生完了の赤印。遺体確認なし。箱だけ返却。労働割当、三週間」
ドギョムは紙束を一枚めくる。
「エレン・パーカー」
グラディスの昔の同僚で、掲示板の古いビラにもあった女の名だ。写真では笑っていた。現実の町では、誰もその笑顔を見ないふりをしていた。
「五三九八一。死亡診断書あり。死因、薬物事故。署名テンプレート貼付。発行端末、保健局文書処理室」
マローンの目が、端末ではなくドギョムの口へ移る。
「ヘンリー・コール」
もう一枚の古いビラ。破れた角、雨で薄くなった文字。ヘナズ・ダイナーの掲示板で、誰も顔を上げなかった男の名。
「外来受付記録なし。更生命令だけ存在。ブラスライン回収伝票に同日同額。右欄、死亡開封」
ドギョムは七つ目の名へ進む。
「ロサ・モラレス」
ミゲルの母の名だ。
アルマが息を吸い損ねる。布の奥で短く泣くような音が漏れ、裸足のつま先が粉塵を掻く。ジョアンも目を閉じかけるが、閉じない。見るために、最後まで開けている。
マローンの嘲笑が固まった。
ほんの一拍。だが確かに固まる。頬の肉のない顔から、薄い笑みだけが置き去りになる。
「その名前はもう会社の帳簿から消した」
声はさっきより低い。
「母親の名前を呼んでも、子供は戻らない。葬儀屋の紙を増やすだけだ」
ドギョムは紙束を下ろさない。
「死亡欄、空白。死因欄、空白。医師署名、なし。午前二時四分に欄だけ開いて、閉じていない。グラディスが赤ではない丸を残した行だ」
マローンの親指が、赤いボタンの上でわずかに沈む。端末のランプが一度だけ揺れる。ジョアンの目がそこへ走る。アルマの鎖が小さく鳴る。
ドギョムは一歩近づく。
八歩が七歩になる。
「近づくな」
マローンの声に、初めて命令以外のものが混じる。苛立ちではない。数字で消したはずのものが、口から戻ってくることへの拒絶だ。
ドギョムは止まらない。受け取った小さな紙片を、名簿の写しに重ねる。血で固まった七行の下には、インクのにじみだけがあった。
ジョアンは震える左手でその空白を示し、隣でうずくまる作業服の女へ視線を向けた。
ドギョムは掲示板で見たもう一枚のビラを思い出し、名簿の空白行と結びつけて、八つ目の名を呼ぶ。
「メアリー・ルイス」
作業服の女が顔を上げる。
自分の名を呼ばれたのだと理解するまで、半秒かかる。目の焦点が戻り、布の奥で短い息が弾ける。彼女は作業服の女ではなく、メアリー・ルイスになる。
ドギョムはさらに一歩近づく。
七歩が六歩になる。
マローンの指が震え始める。赤いボタンの上で、ほんのかすかに。爆薬を握る男の手ではなく、紙の上で消した名前に追いつかれた男の手だ。
「次を呼ぶな」
マローンが言う。
ドギョムは名簿の次の行へ指を置く。
発電機の唸りの向こうで、補助端末の赤いランプが一秒だけ点滅を速めた。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
108話 第二換気塔の異常起爆
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