斜面の下で、無線機からはまだ声が漏れている。
ドギョムは泥に沈む軍用ブーツを一歩ずつ引き抜きながら、ラウクの最後の言葉を耳の奥へ押し込んだ。
「まずヘナズ・ダイナーを見ろ」
声は冷えていた。先ほど罵声を吐いた男の声ではなく、報告書に残すための声だ。ヘナという名前は出していない。だが十分だった。食堂。女。よそ者に水を出す顔。その三つで、ブラスヒルでは家一軒が燃やせる。
ドギョムは上へは戻らない。今戻れば、道路からの視界に入る。ラウクの部下はまだバンの周りを探しているが、五分もすれば斜面の下に目を向けるだろう。ヘナズ・ダイナーへ走るには、町の正面を横切る必要がある。
足元の赤土が崩れる。彼は低木の枝をつかみ、肩で息を止めた。肋骨の痛みが脇腹で細く光る。深く吸うと、ひびの入った場所が刃のように返ってくる。それでも肺は動く。脚も動く。まだ終わっていない。
斜面の底には、雨で細く濁った排水溝が走っていた。その向こうに、郡外れの廃材置き場が見える。錆びたフェンス、積み上げられた鉄骨、腹を割られたコンテナ、窓のないトレーラー。人が隠れるには悪くない。だが長くはいられない場所だ。
ドギョムは排水溝を越え、腰の高さの草を割って進む。無線機から、途切れた命令が続いていた。
「州警察には?」
若い代理の声だ。恐怖を隠しきれていない。
ラウクが即答する。
「呼ばない」
短い沈黙。
「よそ者一人だ。州の連中を入れれば、質問が増える。町の中で閉じる。道路を閉じろ。店に顔を見せろ。名前のない宿泊客を拾え」
ドギョムはフェンスの破れ目から廃材置き場へ入る。雨で柔らかくなった地面に、自分の靴跡が深く残る。彼は錆びた鉄板の上を選んで歩き、古いコンテナの裏へ回った。
そこで泥まみれの外套を脱ぐ。
布は重い。峡谷の赤土と排水溝の水を吸い、肩に濡れた死体のように張りついていた。彼は袖口と裾をねじって泥水を落とし、裏返してコンテナの下へ押し込む。外套は目立つ。人相書きの中にある。背が高い、黒髪、アジア系、軍用外套、古いダッフルバッグ、軍用ブーツ。ひとつ減らせば、探す目の速度が一拍遅れる。
ダッフルバッグはもうない。留置場に入る前、保安官事務所の証拠棚に置かれたままだ。残っているのは、奪った無線機と、手首に赤く食い込んだ手錠の跡、そして靴の中敷きの下の紙片だけだ。
ヘリの音はしない。
空は低く、雲は鉛色だ。もし州警察を呼ぶなら、道路より先に空から来る。ラウクはそれをしない。外の目を入れない。代わりに、町の内側を静かに締める。叫ばず、鐘も鳴らさず、住民の手を使って道をふさぐ。
そのほうが速い。
ドギョムはコンテナの隙間から外を見た。廃材置き場の向こうには郡道へ続く低い土手がある。そこを越えれば、外郭道路を一望できる。彼は濡れたシャツの裾をしぼり、姿勢を低くして土手へ移った。
一時間もしないうちに、町は形を変えた。
最初に閉じたのは、郡道81号線の南側分岐点だった。黄色いバリケードが二つ並び、カーキ色のシャツを着た保安官代理がトラックを止めている。住民の車には短く話しかけ、荷台をのぞく。州外ナンバーのピックアップは脇へ寄せられ、運転手の財布まで開けさせられていた。
次に、カジノシャトルの進入路。派手な紫の看板の下に、パトカーが横向きに止まる。カジノへ向かう老夫婦のセダンは通される。だが後部座席をライトで照らされ、トランクを開けられる。運転手は笑っている。笑いながら、首の後ろに汗をかいている。
三つ目は、貨物整備場へ向かう一方通行の道だ。昨日、ドギョムが貨物トラックを探した場所。錆びたフェンスの先に、ブラスラインの塗りつぶされた配送表があった場所。今は一台の白いバンと保安官車両が並び、作業員たちが身分証を胸の高さへ持ち上げている。
三つとも、彼が町を出る通路として目をつけていた道だった。
偶然ではない。
ラウクは護送中の脱走だけを読んでいたわけではない。ドギョムが町を読む目も、ある程度読んでいた。貨物、シャトル、郡道。よそ者が現金で消えられる線を、最初から地図に赤く引いていた。
ドギョムは舌打ちしない。音は要らない。ただ視線だけで距離を測る。
郡道81号線。無理だ。徒歩で抜けるには開けすぎている。
カジノ進入路。客の数が多い。だがカメラも多い。
貨物整備場。一方通行で逃げ場が少ない。入れば袋になる。
『外へ出る道をふさいだんじゃない』
彼は土手の陰で目を細める。
『内側にいる全員を、見張りに変えたんだ』
それはすぐに証明された。
町外れのガソリンスタンドに、古い緑のセダンが入る。見ない顔の男が降り、店へ入った。若い店員は笑顔を作ったまま、カウンターの下へ右手を滑らせる。押す動作は小さい。だが肘の角度でわかる。短縮番号だ。二秒後、店の裏の受信機が小さく鳴った。
男はただコーヒーを買っただけだった。だが彼が出る前に、道路の向こうをパトカーが一台ゆっくり流れた。
土手の上から見下ろす視線の先、少し離れたサンセット・モーター・インでも同じことが起きていた。皺だらけの老人が事務所のドアを半分開け、雨避けの庇の下で保安官代理へ紙束を渡している。客室名簿だ。昨日、身分証も名前も求めなかった老人が、自分から差し出している。
脅されたのか。取引したのか。昔からそういう役なのか。
答えは重要ではない。名簿は渡った。部屋の数、支払い、現金の有無、誰が名前を書かなかったか。ラウクの机へ行く。
ドギョムは土手を離れ、廃材置き場の奥へ戻った。コンテナの裏に座ると、濡れた靴を片方脱ぐ。中敷きをゆっくりはがす。革と汗と泥の臭いが上がる。
紙片はそこにあった。
ミゲルが渡した五桁の識別番号と日付だけのメモ。角は少し湿っているが、数字は読める。名前はない。数字だけが残り、母と姉と見知らぬ人間たちの居場所を指している。
ドギョムは指先で紙を伸ばす。
町長の再開発。保安官事務所の検問。郡リハビリセンターの白いバン。ブラスラインの塗りつぶされた路線。カジノシャトル。モーテルの名簿。ガソリンスタンドの短縮番号。
腐っているだけの町なら、どこかに穴がある。怖がる者、欲をかく者、見落とす者。そこから抜けられる。
だがブラスヒルは違う。
腐敗ではなく、設計だ。外部と内部を分け、内部にいる者を借金と恐怖と書類でつなぎ、外部から来た者は道路と名簿と通報で絞る。星形のバッジをつけた男たちは、その仕組みの表面にいるだけだ。中心はもっと奥にある。
峡谷。リハビリセンター。ブラスライン。矢印が同じ方向を向いていた場所。
ドギョムは紙片を折らない。濡れた指で数字をなぞり、もう一度読む。ミゲルはこの紙を持って逃げた。姉を返せと叫び、母もそうだったと叫んだ。あの少年は恐怖に負けていなかった。ただ、出口を知らなかった。
出口はない。
ドギョムはその結論を、静かに受け入れた。
町の外へ出る道は、すべて塞がれた。無理に抜ければ、ラウクの報告書に「逃走中に射殺」と書かれる。ヘナの食堂へ真っ直ぐ戻れば、彼女を盾にされる。ミゲルを探せば、少年の隠れ場所ごと焼かれる。
ならば残る答えは一つしかない。
外へ出るのではない。内側へ入る。
この監獄のど真ん中へ、もう一度。
ドギョムは識別番号のメモを中敷きの下へ戻さなかった。濡れたシャツの内側、肋骨の痛む場所の上へ直接挟む。紙の冷たさが皮膚に触れる。
無線機が低く鳴った。
「リハビリセンターの車両、午後便を一台増やす。貨物整備場から峡谷側へ回せ」
ラウクの声ではない。だが命令の形は同じだった。
ドギョムは顔を上げる。廃材置き場のフェンスの向こうで、白いバンが一台、町の中心へ向かってゆっくり走り出していた。
彼は泥の中へ片足を置く。
追われる男の足取りではない。獲物を選び直した男の足取りだった。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
17話 ヘナの屋根裏に残る紙
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