紙の中心に開いた黒い穴を、ドギョムは夜まで見ている。
古い銅山の記号だけが破れた縁に残っている。ジョアンの動画は閉じていない。白いバン、峡谷へ下る道、真新しい郡有財産の札、最後の声。「中へ入れろ」。そこで止めた暗い画面は、紙の穴と同じ色をしていた。
下の店から客の声が一人ずつ消える。最後の硬貨がカウンターに置かれ、ベルが鳴り、ヘナが鍵を掛ける。グリルの火が落ちると、油とコーヒーの匂いだけが屋根裏へ上がってくる。
「始まります」
梯子の下からヘナが言う。ドギョムは低い梁の間を移動し、小型テレビの前に膝をつく。古いアンテナが拾う市庁舎前の広場は、砂嵐を噛んだように揺れている。
投光器が二本立ち、町長のポスターの下に記者が並ばされている。肩を濡らした地元局の人間ばかりで、誰も前へ出ない。カメラの中心にラウクが立つ。皺のないカーキ色のシャツ。磨きすぎた星形バッジ。口元は乱れていないが、目の奥だけが乾いている。
「本日午前、保安官事務所の護送車両から、外部から流入した男一名が逃走しました」
声は低い。紙へ書ける速度だ。
「対象は暴力犯罪の前歴を持つ流れ者です。逮捕時、薬物所持の疑いがあり、護送中に保安官代理二名へ重傷を負わせました。現在、町内および外郭で捜索を継続しています。住民の皆さんは、見知らぬ人物を見かけた場合、接触せず、ただちに保安官事務所へ連絡してください」
ヘナが小さく息を呑む。ドギョムは画面を見たまま黙る。重傷。前科。薬物所持。ラウクは昨日から用意していた紙を、今日の顔で読み上げている。ミゲルへ押し込まれた薬袋も、峡谷で生かして残した代理二人の息も、同じ報告書の中で別の形に塗られていく。
画面の右端へエヴァン・プライス町長が入る。紺のスーツに星条旗のピン。笑顔は抑えている。彼はラウクの横に立ち、住民へ向ける声を作る。
「ブラスヒルは、リハビリ事業によって立ち直ろうとしている町です。その歩みを揺さぶろうとする外部勢力がいることを、私は重く受け止めています」
外部勢力。リハビリ事業。穏やかな言葉の足元に鎖がある。プライスは被害者を町そのものへすり替える。ラウクは犯罪者の形を作る。二人の間で、消えた名前は一つも出ない。
カメラがラウクの手元へ寄る。マイクを押さえる右手。書類を持つ左手。ドギョムの目がそこで止まる。
手の甲に小さな絆創膏が貼られている。白い。新しい。取調室でも、護送前の駐車場でも、あれはなかった。拳銃を抜いた傷ではない。紙で切った傷でもない。机の角を叩いたか、誰かの口を自分で殴ったか。怒りを一度だけ手で処理した痕だ。
ラウクは画面の中で冷静なまま、傷だけが遅れて本音を喋っている。
『泳がせるつもりだった。だが、失敗の形は気に入らなかった』
ドギョムはそう読む。ラウクは狩りを楽しむ男ではない。失敗した図面を許さない男だ。次は必ず書き直す。食堂、モーテル、峡谷、貨物路線。そのすべてに目を増やす。
プライスが最後に「通常どおりの生活を」と言い、会見は質問も拍手もないまま切れる。テレビは天気図へ戻る。ヘナはしばらく画面を見ている。左手首の古い火傷の上で、指だけがゆっくり曲がる。
ドギョムはノートパソコンを閉じる。
「今夜、出ていくこともできた」
ヘナが顔を上げる。
「外れの貨物路線が一つ、まだ生きている。検問は南とカジノ側に厚い。北の農道から整備場へ入れば、夜明け前のメンフィス行きに乗れる」
言いながら、彼はダッフルバッグを引き寄せる。替えのシャツ、包帯、水、古い工具。殺すための荷物ではない。
ヘナは梯子を上がりきり、梁の下に座る。屋根裏は二人が向かい合うには狭い。彼女は逃げ道を塞がない位置を選ぶ。
「でも、行かないんですね」
問いではない。確認だ。
ドギョムは床板の一枚を指で叩く。釘の頭が浮いている場所を見つけると、ヘナが薄いバールを渡す。彼は音を立てずに板を上げる。中には乾いた新聞紙と古い布袋が入っている。ここは前にも何かを隠した場所だ。
まずミゲルの紙片を出す。五桁の番号と日付だけのメモ。端は雨と汗で少し柔らかい。次にジョアンのノートパソコンをビニールで包み直す。
「それを置いていくんですか」
「持って動けば、捕まった時に終わる」
「ここも安全じゃありません」
「だから床の下だ。見つかるなら、俺より先に食堂を壊す時だ」
ヘナの目が細くなる。ひどい言い方だが、嘘ではない。彼女もそれを知っている。
ドギョムはメモとノートパソコンを同じ場所には入れない。メモは油紙で包み、梁の根元へ差す。ノートパソコンは新聞紙の下へ沈める。証拠は一か所に置かない。片方を取られても、もう片方が残るようにする。
最後に、星形の紙を小さく折って入れる。中心に空いた黒い穴が、折り目の中で潰れる。
「アルマを出す」
ヘナの呼吸が止まる。
「その次に、ジョアンがどこにいるかを見る。最後に、この星形の真ん中を壊す」
声は大きくない。ただ順番を置く声だ。ヘナは反論しない。夫の死亡通知が三日遅れで来た町で、順番を決める人間は少ない。ほとんどの者は、呼ばれた順に奪われるだけだった。
「一人では無理です」
「一人で始める」
「それは違います」
ヘナは左手首の火傷を隠さない。
「もう私は見ました。ディナも話した。ミゲルも数字を持っていた。ジョアンはパソコンを残した。あなた一人が始めたことじゃない」
ドギョムは彼女を見る。眠っていない顔の中で、目だけが静かに動く。
「なら、倒れない場所にいろ」
「命令しないで」
「頼んでない」
「同じです」
二人の間に、下の卓上ラジオの音が上がる。閉店後もヘナが消さない古いラジオだ。雑音の奥で、運送屋の連絡が流れている。
「……メンフィス行き、夜明け四時四十分、北側整備場から出る。貨物一台、空席あり……」
行ける道が、声になって屋根裏まで上がってくる。名前を書かず、ブラスヒルを出て、またどこかへ流れる道だ。
ドギョムは顔を上げない。床板の釘を一本ずつ戻し、手のひらで木目をならす。逃げ道はまだある。だから選ぶ意味がある。
そのとき、屋根裏の無線受信機が短く震える。
最初はノイズだけだ。雨粒が金属板を打つような音。ヘナがアンテナへ手を伸ばしかける。ドギョムが指で止め、つまみを少しだけ回す。
「……さん……聞こえ……」
若い声。息が乱れている。遠くで車のエンジンが唸る。
「ドギョムさん。ミゲルです」
ヘナの顔から血が引く。
「姉さんを見ました」
無線の向こうで少年は震えている。泣いてはいない。泣く暇がない声だ。
「リハビリセンターの清掃車の中にいました。後ろの小窓から、一瞬だけ。髪を切られて、作業服で、手首に灰色の輪があった。でも姉さんでした。間違えません」
ドギョムは返事をしない。受けるだけだ。返せば位置を読まれる。
「清掃車は今夜、また峡谷へ入ります。いつもの本館じゃない。南の分岐から、古い鉱山の方へ。俺、見張ります。今度は見失わない」
「だめ」
ヘナが小さく言う。無線には届かない。
「ミゲル、だめ」
少年には聞こえない。最後に、息だけが二度入る。
「姉さん、生きてます。だから……俺も行きます」
通信が切れる。ノイズが戻る。卓上ラジオだけが、まだメンフィス行きの時刻を繰り返している。
ドギョムはゆっくりダッフルバッグの口を閉じる。金具が短く鳴る。ヘナは何かを言いかけて、やめる。止める言葉はもう足りない。必要なのは、間に合う道だ。
梯子へ足をかける直前、無線受信機がもう一度鳴る。今度はミゲルではない。低い男の声が、別の周波数から混線して落ちてくる。
「清掃車、予定どおり二十三時十分。積み荷は一名追加。鉱山口で受け渡す」
ドギョムの手が梯子の縁で止まる。
アルマだけではない。今夜、もう一人、誰かが鉱山へ運ばれる。名前を消される前の、最後の十数分が始まっている。
ドギョムは振り返らずに言う。
「ヘナ。明かりを消せ」
赤いネオンが下でふっと落ちる。屋根裏は黒く沈み、町の外れへ向かうサイレンだけが細く伸びる。
彼の二つ目の任務が、静かに始まる。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
21話 峡谷の鉱山へ向かう清掃車
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