金属の爪が天井板の縁に掛かる音がした瞬間、ドギョムは右手を床へ置く。
踏み込まれるなら、先に落とすのは天井板だ。板を蹴り、埃で視界を奪い、銃へ伸びる手首を折る。そこまでを一拍で組む。肋骨の痛みは計算から外す。
爪がもう一度鳴る。
「やめて」
ヘナの声が真下で短く落ちる。
「そこを開けたら配線が切れます。冷蔵庫の電源まで落ちたら、誰が弁償するんですか」
「町が直す」
「町は夫の死亡通知も三日遅れで出しました。電気工事なら十年後ですね」
沈黙が挟まる。代理も、その言葉の刃を聞いた。
「口がよく回るようになったな」
「コーヒーのおかわりは」
ポットが鳴る。熱い液体が注がれる音が、天井板の金属音を押し返す。ドギョムはノートパソコンを胸と梁の間へ挟み、画面を伏せる。ファンの音はまだ低く回っている。
「ラウク保安官に言ってください。次は昼に。脚立と修理屋を連れて」
「保安官の名を出すな」
「あなたが出したんです」
床が軋む。爪が外れる。代理の靴が一歩下がる。入口側にいたもう一人が舌打ちした。
「また来る」
「昼なら開いてます」
ベルが鳴る。雨の外気が入り、すぐ閉じる。車のドアが二つ。エンジン音。赤い光がブラインドを一度舐め、遠ざかる。
それでもドギョムは動かない。三十秒。六十秒。無線受信機のノイズの奥で、パトカーの送信が別の通りへ流れるのを待つ。ようやくヘナが梯子を上げる。顔色は悪いが、手は震えていない。
「見られた?」
「光だけだ」
「十分悪いです」
「十分生きてる」
ヘナは短く息を吐き、天井板を戻す。客席の灯りが消え、厨房の冷蔵庫だけが低く唸る。ドギョムはノートパソコンを開き直す。眠るための夜ではない。読むための夜だ。
翌日の昼、ヘナズ・ダイナーはいつもどおり開いている。
欠けた赤いネオンの下でグリルは肉を焼き、コーヒーは煮詰まり、ヘナはカウンターの中で布巾を畳む。表の客には、屋根裏に男が一人いることも、梁の影に黒いノートパソコンがあることも見えない。
ドギョムは膝を立て、画面と紙を行き来する。昨夜の資料を町の骨格へ重ねる。保安官事務所。郡リハビリセンター。ブラスラインの道。町長公邸。カジノ。郡銀行。紙の上ではただの点だ。だが金と人と命令が流れる順に結ぶと、町は違う顔を見せる。
下では昼の客が入れ替わる。誰も長く喋らない。カップの音、フォークの音、ラジオの小さなニュース。その隙間に、低い女の声が混じる。
「ヘナ」
ドギョムは無線受信機のつまみを少し回す。ヘナがカウンター端の下に仕込んだ集音線が、割れた声を拾う。
「何にします」
「コーヒーだけ。あと、パンを一つ」
声の主は、雨の広場で面会申請書を落とした女だ。トミー・グレンジャーの妻。髪は乾いているはずなのに、声はまだ濡れている。
「ディナ、座って」
名前が呼ばれた瞬間、広場で踏まれた紙が、ただの紙ではなくなる。
しばらく、カップの縁を指でなぞる音だけが続く。
「今月、カードローンの利息がまた上がったの。町長が信用情報を整理してくれるって言ってたのに、結局そのカードもあの人の銀行だって」
ヘナはすぐには答えない。
「トミーは」
「一週間前から、リハビリセンター。面会はまた保留。書類は受け取ったって言うけど、受付印はない。却下印もない。紙だけが戻らない」
ディナの笑いは、笑いの形をした乾いた息だった。
「借り換えれば楽になるって、郡銀行の人が言った。町長財団が保証するって。サインしたら、次の月に利息が変わった。払えなければ判事に相談しろって。判事に相談した人は、みんなセンターへ行く」
屋根裏で、ドギョムの手が止まる。
ヘナは紙袋を開け、温かいパンを一つ取り出す。注文の分とは別に、もう一つ。何も言わず、ディナの手へ押し込む。
「これは払えない」
「落とした。拾わないで」
ディナは礼を言わない。言えば証拠になる町だ。パンをコートの内側へ隠し、カップの底に硬貨を二枚置いて出ていく。
ベルが閉じたあと、ヘナは布巾を一度だけ強く絞る。
ドギョムはノートパソコンの別フォルダを開く。昨夜は後回しにした「数字」の横に、短いサブフォルダがある。BANK-LINK。
中には図があった。郡銀行の小口融資。カードローン。延滞通知。判事マートンの更生命令。リハビリセンターの労働割当。ブラスラインの回収伝票。
矢印のつながりは、きれいすぎるほどきれいだ。
借りる。利息が上がる。返せない。判事が更生命令を出す。センターへ入る。働く。賃金は借金の返済に充てたことになる。だが実際には、労働の成果物はブラスラインのトラックへ積まれ、夜の峡谷へ消える。
借金は鎖だ。鎖を握る手が、銀行の窓口から裁判所の机、保安官の無線、センターの鍵、トラックの荷台へ変わっていく。
資料の端には、プライスの持ち分を示す注記がある。郡銀行の関連会社。その理事に、町長財団の名が入っている。町長は町を救う顔で金を貸し、返せない住民を判事へ送り、センターで働かせ、その荷を自分の道で運ばせている。
ドギョムは紙を置く。鉛筆の芯を短く折り、太い線で町を描く。広場を中心にはしない。人の恐怖が流れる向きを中心にする。
東に保安官事務所。西にリハビリセンター。北に郡銀行。南に町長公邸。南西にカジノ。五つの点を置く。プライスのポスターが貼られた町の中心ではなく、峡谷を囲むように配置される点だ。
線を結ぶ。
歪んだ星形が現れる。
ドギョムはその中心に、古い銅山の記号を描く。昼に道路標識が指していた峡谷の奥。町の古い看板に残っていた、錆びた採掘場の名。
廃鉱は町の過去ではない。現在の心臓だ。
彼はBRASSLINEの地図を重ね、CR-7の作成日時を横に書く。さらにジョアンの画像フォルダから最後の日付の動画を探す。ファイル名はただの連番だ。CAM_0032。作成時刻は、ジョアンが消える前日の夜。
再生する。
画面は揺れる。車の床か、荷台の隙間から撮った映像だ。暗い道路。白いバンの後部。遠くにカジノのネオン。次に、峡谷へ下る未舗装路。ライトが岩壁を削るように進む。
やがて古い銅山の入口が映る。
錆びた門。新しい南京錠。古い立入禁止看板の上から、真新しい郡有財産の札が打ちつけられている。画面の端に、ジョアンの荒い息が映像の揺れとして残る。
その奥で、誰かの声がする。
音量はほとんどない。ドギョムは波形を上げる。ノイズの底から、男の声がかすかに浮かび上がる。
「中へ入れろ」
次の瞬間、画面が激しく横へ振れる。石を蹴る音。短い呻き。暗転。
ファイルはそこで途切れていた。
ドギョムは黒い画面を止めたまま、紙の星形を見る。保安官事務所、リハビリセンター、郡銀行、町長公邸、カジノ。その五つを結ぶ線の中心に、古い銅山の入口がある。
そしてジョアン・リバースは、その中心で消えた。
下の客席で、昼のラジオが急に音量を上げる。町長プライスの滑らかな声が流れ込んでくる。
「今夜、市庁舎前で安全に関する発表を行います。住民の皆さんには、噂に惑わされず、通常どおりの生活を続けていただきたい」
ドギョムは黒い画面に映る自分の目を見る。通常どおり。そう言う町の中心で、記者は途切れた。
彼は鉛筆の先を星の中心へ押しつける。紙が破れ、古い銅山の位置に黒い穴が開いた。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
20話 二つ目の任務
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