「明日の朝もあります」
ミゲルの声は、無線の向こうで砂を噛んだようにかすれている。ドギョムはすぐには送信しない。ヘナも息を止める。屋根裏の紙の上では、換気塔を中心にした星形がまだ濡れた傷のように黒い。
「どこで見た」
「学校の横の掲示板じゃありません。センターの裏の、業者用の搬入口です。清掃会社の紙が風で少しめくれてて……明日の欄に、朝六時四十分、清掃車一台って」
「今どこだ」
「給水塔の近くです。排水管から出ました」
「戻れ。今夜は終わりだ」
「でも、出庫表が」
「明け方に会う。廃材置き場の裏。学校へ行く前だ。紙は持ってくるな。見たものだけ持ってこい」
ミゲルは何か言いかけ、飲み込む。通信は短いノイズを残して切れる。ヘナが小さく首を振る。少年を使うことへの拒みではない。もう使わずに済む段階ではないという、重い確認だ。
夜明け前、ドギョムは食堂裏を出る。古い外套は着ない。灰色の作業シャツに帽子を深くかぶり、ダッフルバッグも持たない。町の通りはまだ濡れ、ネオンの切れかけた赤だけが水たまりに残っている。パトカーは広場側をゆっくり回っている。ラウクの目は、逃げるよそ者より、戻ってくる足を探している。
郡外れの廃材置き場は、朝の光より先に錆びの匂いを出す。コンテナの間には古いタイヤ、折れた冷蔵庫、窓のない車体が積まれている。ドギョムは裏手の排水溝に沿って入り、周囲の足跡を読む。新しい小さな靴跡が一つ。深さは浅い。走ってはいない。
ミゲルは廃バスの陰にいる。濡れた髪を帽子で押さえ、右手の指にはまだ雑な固定が残る。だが目だけは折れていない。彼は通学かばんを抱えている。ドギョムが視線だけでそれを止めると、少年は首を横に振る。
「紙は入ってません。ノートだけです。俺の授業用です」
「見せろ」
ミゲルは座席の破れた廃バスの床にノートを広げる。最初のページは数学の問題で埋まっている。二枚目から字が変わる。保安官代理の巡回時刻。朝と夕方で違う車番。学校前を通るパトカーの末尾二桁。リハビリセンターの白いバンが薬局裏に止まる曜日。清掃車の出庫時間。カジノシャトルが峡谷方面の道を空ける時間。紙の端には、消しゴムで何度もこすった跡がある。
「二か月か」
ドギョムが言う。
ミゲルはうなずく。
「姉さんが消えた夜明けからです。最初は、どの車に乗せられたかだけ探してました。でも同じ時間に同じ車が出る。清掃車、シャトル、白いバン。保安官代理の車も、全部、道を開けるみたいに動くんです」
声は低い。怖がっていないわけではない。怖さが、もう習慣になっているだけだ。
ドギョムはノートの空欄を指でたどる。水曜の六時四十分。清掃車出庫。横に小さな疑問符がある。さらに金曜の夜、リハビリセンター裏口とだけ書かれた欄が空いている。
「ここは」
「見に行けませんでした。保安官代理が学校の前にいて。姉さんの名前を出したら、また捕まると思って」
ミゲルの右手が少し震える。折られかけた指が動かない。ドギョムはそこを見ず、ページをめくる。リハビリセンターのシャトル運行表が、学校の配布プリントの裏にびっしり写されている。午前の面会便はある。だがミゲルの赤い丸は、面会便ではなく夜間の職員送迎に付いている。
「夜のシャトルだけ、いつも一人多く戻るんです。乗った人数より、降りる人数が多い日がある」
「誰が数えた」
「俺です。給水塔から見えます」
子供が二か月、町の心臓の脈を数えている。誰にも教わらず、誰にも頼れず、見れば殺される紙を、授業ノートの裏に押し込んでいる。
ドギョムは一枚ずつ紙を戻す。感情は顔に出さない。出せば少年は、怒りを許可されたと勘違いする。いま必要なのは怒りではない。空欄を埋める手順だ。
「今日、学校へ行く途中で搬入口を見ろ。清掃車の出庫表をもう一行だけ確認しろ」
「一行だけ?」
「明日の欄の下だ。夜間の追加がないか。時間と会社名。見たら書かずに覚えろ」
「紙に書いたほうが」
「書くな。捕まったら紙はお前より先にしゃべる」
ミゲルは唇を噛み、うなずく。それからかばんの内側に手を入れる。今度はドギョムが止めない。少年が取り出したのは、一枚の写真だ。角が丸くなり、何度も握られて白く割れている。
写真の中の女は、乾いた駐車場の前で笑っている。ミゲルとアルマに似た目をしている。腰に片手を当て、もう片方の手で買い物袋を持っている。普通の母親の、普通の日の顔だ。
「母さんです。一年前です。腰の薬をもらってました。医者が出した鎮痛剤です。でも保安官代理が来て、処方が多いから検査だけだって。リハビリセンターへ連れていかれて、それから一度も面会できてません」
ミゲルは写真を裏返す。そこには五桁の数字が書かれている。日付欄のような横線があり、その先は空白のままだ。ドギョムが預かっているレシート裏のようなメモは、この数字を写したものだ。
「あのメモの番号です。俺、あの時、嘘はついてません。ただ、入手先を言えなかったのは……母さんの洗濯物を返すって言われてセンターの受付に行った時、袋の中にこの写真が入ってて。裏にこの数字が書かれていたからです。そのあと、人が名前じゃなく五桁の数字で呼ばれてるのを見て、母さんの番号だって気づきました」
ドギョムは写真の裏を見つめる。五桁の識別番号。空白の日付欄。物流番号ではない。人間から名前を剥がしたあとの標識だ。日付が空いているのは、死んでいないからではない。処理が終わっていないからだ。
彼は写真を返さない。ミゲルの目が揺れる。
「預かる」
「なくさないで」
「なくさない」
ドギョムは写真を折らず、シャツの内ポケットへ入れる。そこに紙の重みが増える。ミゲルの母。アルマ。ジョアン。番号が名前に戻るまで、軽くならない重みだ。
廃材置き場の表で、遠くの学校チャイムが一度鳴る。ミゲルはノートを閉じ、かばんに戻す。立ち上がる時、右手をかばって肩が少し落ちる。
「ドギョムさん」
「何だ」
「姉さん、生きていますか」
廃材置き場の錆びたフェンスが、朝の風でかすかに鳴る。ドギョムは答えを選ばない。簡単な希望は、少年を走らせる。簡単な絶望は、少年の足を止める。
彼はミゲルの肩を一度だけつかむ。強くも弱くもない。そこにいると確認するだけの力だ。
「学校へ行け」
ミゲルは目を伏せない。何も答えず、通学かばんを背負ってフェンスの隙間から出ていく。細い背中が廃材の陰を抜け、乾いた通りへ消えるまで、ドギョムは動かない。
午後、リハビリセンターの前は白く明るすぎる。雨雲が切れ、駐車場の水たまりに看板の青い文字が映っている。ドギョムは道路の向こう、故障した自販機の横から施設掲示板を見る。面会案内。依存症回復プログラム。町長財団の支援告知。その端に、新しい紙が一枚貼られている。
普段なら空いたままの夜間交代班の欄だ。
紙はまだ新しく、画鋲の周りが湿っていない。黒い太字で短く書かれている。
清掃・消毒、夜間短期、身分証コピー一部。
ドギョムは通りを渡る。受付のガラス戸には近づかない。掲示板の前で、求人を見る男の顔を作る。紙の下端には、集合時刻と裏口の番号がある。午後七時三十分。人事事務所ではなく、搬入口側。
ミゲルが探す『もう一行』は、これと繋がっている。清掃車の出庫表の下に増えるはずの、夜間の穴。町が人を飲み込むための口が、こちらへ向けて少し開いている。
ドギョムは公告の紙の端を指先で折る。誰かが見た時、ただ風でめくれたように見える小さな折り目だ。だが彼には目印になる。
折った角の下に、地下へ続く最初の扉がある。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
24話 借りた名と夜間招集
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