折った紙の角は、午後の乾いた風に一度だけ揺れる。
ドギョムは掲示板から離れる。ガラス戸の内側では、受付の女が電話を肩で挟んだまま、誰かの名前を短い欄に書き込んでいる。彼はその手を見ないふりで歩道へ戻り、道の向こうの自販機に硬貨を入れる。硬貨は落ち、缶は出ない。故障中の貼り紙の端に、保安官事務所の古い指紋が黒く残っている。
夜間清掃班に入るには、名前が要る。名前のない男は町から出られない。だが、この町で名前を出す男は、もっと早く消える。
食堂へ戻ると、昼の客は少ない。ヘナはカウンターの内側でコーヒーを注ぎ、ラジオの音量を一つ下げる。常連の老人二人が奥の席で新聞を広げているが、紙面は読まれていない。道路をパトカーが通るたび、二人の目だけが窓へ動く。
ドギョムは裏口から入り、厨房奥の梯子を上がる。屋根裏は熱い。低い梁の下に、ミゲルの母の写真、ジョアンのノートパソコン、星形の紙が分けて置かれている。ヘナはしばらくして、薄い封筒を持って上がってくる。
「使えます」
封筒の中には、運転免許証と社会保障カードのコピーが入っている。名はエリック・ホール。生年月日、住所、郡外れのトレーラーパークの区画番号。コピーの角には、古い煙草の匂いが染みついている。
「本人は」
ドギョムが短く聞く。
「同意しています。食堂の常連です。郡外れのトレーラーに住んでいて、膝を壊してから仕事に出ていません。センターの世話にはなりたくない人です」
ヘナは封筒を床板の上へ置く。指先は左手首の火傷を無意識に避けている。
「一か月は絶対に名前が漏れないようにする、と約束しました。漏れたら彼も終わります」
「金は」
「受け取りませんでした。昔、うちの夫が彼の車をただで直したことがあります。その返しだそうです」
ドギョムは身分証とコピーを一枚ずつ見る。目で読むのではなく、写真の端、数字の並び、住所の区切りを順に頭へ置く。エリック・ホール。四十七歳。州境の北側、ミルロード十二番、区画七。社会保障番号の末尾四桁。生年月日。署名の癖。全部を一度で入れる。
ヘナが低く言う。
「覚えましたか」
「覚えた」
ドギョムは身分証とコピーを返さない。シャツの内側に手を入れ、認識票に触れる。薄い金属二枚が、胸骨の上で冷たく鳴る。米陸軍憲兵隊時代の名前と番号。ここでは、それがいちばん危ない紙片より重い。
彼は床板の釘の浮いた場所を外し、認識票をビニールで包む。ミゲルの母の写真やジョアンのノートとは別の、さらに奥の隙間へ差し込む。木の粉が手の甲につく。床板を戻し、釘を指で押し込むと、金属の音は屋根裏の下へ消える。
ヘナは何も言わない。空になった封筒を拾い上げ、小さな缶にしまう。
「面接は午後三時です。人事事務所は本館の東側。正面玄関じゃなくて、外来受付の横」
「警備は」
「昼は緩いです。人が足りない時だけ、あそこは急に親切になります」
その言葉は冗談ではない。ブラスヒルでは、足りないものは人間で埋める。
午後のリハビリセンターは、朝より白く見える。乾いた日差しが壁に反射し、駐車場の水たまりを薄く光らせている。正面の旗は半分だけ風を受け、青い看板には「回復」「地域」「再出発」の文字が並ぶ。
町の空気はよそ者を追っている。ガソリンスタンドも、モーテルも、食堂も、見ない顔をすぐに数える。だが人事事務所の窓口だけは違う顔をしている。そこでは人が足りないという理由が、疑いより先に出てくる。
窓口の女は、ドギョムが差し出した身分証とコピーを手に取る。目の下に疲れがあり、机の横には未処理の書類が積まれている。
「夜間短期。清掃と消毒。経験は」
「倉庫と施設管理」
「薬品は使えますか」
「使える」
女は細かく聞かない。後ろの部屋から、男の声が怒鳴る。今夜の班が二人足りない、搬入口の消毒が遅れれば監査に響く、誰でもいいから入れろ。女の肩がわずかに沈む。
「身分証は確認しました。それぞれのコピー、一部ずつ預かります」
ドギョムは表情を変えない。後日。ここでは、後日が来ない人間も多い。
女は端末へ名を打ち込む。エリック・ホール。カーソルが点滅し、画面の下に一瞬だけ赤い注意欄が出る。だが女はそれを読み飛ばす。人手不足の方が、システムより大きい。
「集合は午後七時三十分。搬入口側。更衣室でカードを受け取ってください。仕事は午前三時まで。地下区域へは入らないこと。班長の指示に従うこと」
「地下区域」
「医療廃棄物と記録保管の区域です。清掃班は許可なしで入りません」
女は言い慣れた声で続ける。そこだけが、少し速い。言葉の形は規則だが、目は規則を信じていない。
ドギョムは受け取った仮入館カードを胸の高さで見る。白いプラスチック。名前はまだ印字されていない。裏面には黒い磁気帯と小さな管理番号。手首の輪で管理される者と、カードで通る者。その差は薄い。
「今夜からでいいですか」
女が聞く。
「いい」
「助かります。最近、本当に人が抜けていて」
その「抜けていて」は退職を意味しない響きを持つ。ドギョムはうなずくだけで部屋を出る。
同じ時刻、保安官事務所の会議室では、ラウクが郡地図の上に赤いペンを走らせている。壁の蛍光灯は一本だけ点滅し、机の上には車両リスト、検問報告、食堂周辺の巡回メモが重なっている。
若い代理が立ったまま、ペンの先を追う。
「外部車両は全台ですか」
「外部車両だけ見るな」
ラウクは赤い線を郡道八十一号線から町の内側へ折り込む。カジノシャトル停留所、食料品店裏、貨物整備場、ヘナズ・ダイナーの裏路地。最後に、リハビリセンターの搬入口へ細い丸をつける。
「町の車を見る。急いでいる車より、不自然に静かな車だ。夜にライトを落とす。荷台が空なのに重い。止められても文句を言わない。そういう車を記録しろ」
若い代理がメモを取る。
「よそ者は」
「追われる者は騒ぐ。匿う者は静かになる」
ラウクはペンを置き、地図の端を指で押さえる。そこには青い配送トラック末尾二七の報告が挟まっている。
「町の中で急に静かになった場所を探せ」
夕方、食堂のラジオはまた町長の声を流す。エヴァン・プライスは、ブラスヒルがリハビリ事業の模範都市として州から注目されていると穏やかに語る。客は誰も文句を言わない。スプーンだけが皿に当たり、窓の外ではパトカーのタイヤが濡れた縁石をなぞる。
ヘナはカウンターの下で布巾を畳む。
「名前は」
「エリック・ホール」
「住所は」
ドギョムは淀みなく答える。生年月日、区画番号、社会保障番号の末尾まで。ヘナは控えのコピーで確認を終えると、それを小さく折って缶の底へ戻す。
「今夜、中で何を見るかわかりません」
「だから入る」
彼は借りた身分証をシャツの胸ポケットへ差す。認識票のない胸元は、いつもより軽い。軽すぎて、逆に位置がわかる。そこに本名はない。代わりに他人の名と、まだ戻せない人々の番号が入っている。
その瞬間、仮入館カードが短く震える。
ドギョムは手を止める。白いプラスチックの端に小さな赤い点が一度だけ灯り、すぐ消える。ヘナも音に気づき、ラジオのつまみへ伸ばしかけた手を止める。
カードはもう一度震える。今度は長い。続いて、裏面の管理番号の下に埋め込まれた細い表示窓へ、黒い文字が浮かぶ。
夜間班、前倒し招集。
搬入口、十九時十分。
地下消毒応援、一名。
ドギョムは時計を見る。午後六時五十二分。集合まで三十八分あるはずの時間が、町の内側から削られている。ラウクが動いたのか、センターが急いだのかはわからない。
ヘナが低く言う。
「行けば、予定より早く中へ入ります」
ドギョムはカードを胸ポケットの身分証の上へ重ねる。白い板の震えは止まった。だが表示窓の「地下」という二文字だけが、消えずに残っている。
彼は梯子へ向かう前に、床板の下を一度だけ見る。そこには自分の名前が眠っている。今夜持っていくのは借りた名前だけだ。
「明かりを残せ」
短く言って、ドギョムは裏口の闇へ降りる。搬入口へ続く道の向こうで、リハビリセンターの白い壁が、夜より先に口を開けて待っている。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
25話 地下二階の工場とアルマ
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