裏口の闇を抜けると、リハビリセンターの白い壁が夜の中で浮いている。ドギョムは外套を着ない。灰色の作業シャツ、安い黒帽、胸にはエリック・ホールのコピーと白い仮入館カード。十九時十分の表示は消えず、カードの小さな窓に「地下消毒応援」の文字だけが残っている。
搬入口は正面玄関より低い。廃棄物用シャッター、職員用の灰色のドア、監視カメラ二台。ドギョムは急ぐでもなく、遅れるでもない歩き方で入る。監視カメラに残るのは、どこにでもいる夜間作業員の姿だけだ。
清掃班更衣室は、漂白剤と古い汗と湿った制服の臭いで満ちている。中には五人いる。男が三人、女が二人。全員、同じ灰色の作業服を着ている。胸の名札は新しい。靴は古い。肩だけが、ここへ戻されるまでの時間を覚えている。
「新入りか」
ひげの薄い男が言う。声に興味はない。確認だけだ。
「エリック」
ドギョムはロッカーの扉を開けながら答える。中には紙マスク、薄い手袋、ひび割れた安全靴。彼は靴を替えるふりをして五人を見る。
諦めた者は目を長く合わせない。殴られたことのある者は、扉が開く前に肩をすくめる。借金で縛られた者は、財布ではなく手首を見る。五人全員が、そのどれかを持っている。
若い女の左耳の下に、黄色くなった痣がある。背の曲がった男は、ロッカーが閉まる音に毎回わずかに跳ねる。太った女は、膝の下へ茶色い封筒を押し込んでいる。給与明細ではない。郡銀行の残高通知だ。
「前はどこにいた」
別の男が聞く。四十代半ば。指先が洗剤で割れている。怒りはまだ死んでいないが、声は小さい。
「倉庫」
「ここは倉庫じゃない」
「見ればわかる」
男は笑いかけ、すぐにやめる。笑うことにも許可がいる場所だ。
壁には夜間班の注意事項が貼られている。私語禁止。単独移動禁止。地下二階立入禁止。紙の下に、カードローン相談窓口の古い案内が半分隠れている。郡銀行のロゴと、町長財団の小さな印。
「みんな、卒業生だ」
ひげの薄い男が、聞かれてもいないのに言う。卒業という言葉だけが乾いている。
「回復プログラムを出たあと、カードローンの残りを返せなくて戻ってる。夜勤単価が残高から引かれる、って紙には書いてある。給料はない」
「引かれてるのか」
ドギョムが聞く。
男は視線をそらす。それが答えだ。
「そこ、しゃべるな」
ドアが開き、班長が入ってくる。小柄な男だが、腰に無線機と鍵束を下げている。腹より目が硬い。現場で殴る男ではない。誰をどこで止めるかを任された男だ。
「今夜は前倒しだ。地下一階の消毒応援。本館の地下通路まで行く。地下二階には入るな。扉の前で止まれ。カードが鳴っても、俺の許可なしに動くな」
班長の目が一人ずつをなぞる。ドギョムのところで半拍止まる。
「エリック・ホール。膝を壊してたんじゃないのか」
「治った」
「早いな」
「請求書の方が早かった」
更衣室の空気が少し動く。誰かが笑いそうになり、飲み込む。班長は仮入館カードの白い面を確認し、顎でカートを指す。
「余計な場所を見るな」
地下へ降りる通路は、本館の明るさからすぐに外れる。清掃カートの車輪が、コンクリートの継ぎ目を拾って鳴る。五人は誰も横に並ばない。縦一列だ。囚人ではない形をした、囚人の列。
ドギョムはカートを押しながら、曲がり角、監視カメラ、非常灯、排水溝の格子を数える。左手の壁に医療廃棄物、右手に資料保管。奥へ行くほど漂白剤の臭いは薄れ、別の臭いが混じる。甘く、苦く、喉の奥へ粉を残す臭い。フェンタニル原料を扱う場所の匂いだ。
通路の先に強化扉がある。分厚い銀色の縁には、新しい擦り傷が残る。カードリーダーは外部業者の型で、センターの古い設備と合っていない。扉の向こうから低い機械音が漏れてくる。風ではない。ラインが動く音だ。
班長が振り返る。
「ここから先は地下二階だ。清掃班は入らない。床の線より前に出るな」
黄色いテープが通路を横切っている。五人はそこで止まる。止まり方が揃いすぎている。何度も止められ、何度も怒鳴られた体の記憶だ。
ドギョムはカートの取っ手に片手を置き、右足の先で前輪のロックピンに触れる。古いカートだ。ピンは半分抜けている。力はいらない。角度だけでいい。
班長が鍵束を鳴らし、扉脇の端末へ顔を向ける。その一拍で、ドギョムはカートをわずかに斜めへ押す。前輪が継ぎ目に乗り、ロックピンが落ちる。車輪が一つ外れ、乾いた音を立てて黄色い線の向こうへ転がる。
「おい」
班長の声が鋭くなる。
「すみません」
ドギョムはすぐ膝をつく。慌てた作業員の動きに見える速さで、車輪を追う。だが手を伸ばす先は車輪ではない。強化扉脇の床近く、細い換気口だ。
彼は車輪を拾うふりで体を低くし、紙マスクの内側で息を浅くする。ルーバーの隙間から白い光が漏れている。中の空気はさらに濃い。薬品、熱、ビニール、安い消毒液。
見える範囲は狭い。だが十分だ。
白い作業灯の下、作業服の人々が長い台に並んでいる。全員がビニール手袋をはめている。手元には小袋、精密秤、白い粉。男が秤の数字を読み、隣の女がスプーンで粉を足す。数字が止まると、袋は熱圧着機へ流れる。
別の列では、錠剤容器がベルトコンベアに乗っている。青白いラベルが自動で貼られ、透明な箱へ落ちる。ラベルには有名な鎮痛剤の名が印刷されている。正規品ではない。だが薬局の棚に置かれれば、痛みに追われた誰かは疑わない。
CR-7。ジョアンの動画に映っていたラインと同じだ。古い映像ではない。ここはいま動いている。
ドギョムの視線は、列の端で止まる。
錠剤容器の箱を運ぶ女がいる。髪は短く切られ、頬は痩せ、灰色の作業服の襟が首に合っていない。横顔だけで、ミゲルが路地で叫んだ名前と重なる。写真の母親と同じ目の形。少年が二か月追い続けた影。
アルマだ。
彼女の手首の内側には、灰色の保安ブレスレットがはめられている。薄い赤い点が三秒ごとに灯る。箱を持つたび、輪が骨に当たり、黒ずんだ皮膚をこする。アルマは顔を動かさない。痛みを動かさない訓練を、ここで覚えさせられている。
ドギョムの指が、外れた車輪のゴムを握る。力を入れれば音が出る。彼はゆっくり緩める。飛び込む距離、人数、扉、鍵、ラインの停止位置。いま動けば、アルマまで三秒。だが扉の向こうには最低八人。警報まで一秒。救出ではなく、処刑になる。
アルマが箱を置き、ふと顔を上げかける。
その直前、背後で班長の無線が鳴る。
「夜間清掃班、応答。新入りのカード番号を確認しろ。エリック・ホール、写真照合をもう一度だ」
班長の靴音が、ドギョムの背中のすぐ後ろで止まる。無線のノイズが、地下二階の扉より冷たく通路を満たした。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
26話 JRの爪痕と二時の隙
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