班長の靴音が、ドギョムの背中で止まっている。無線の声はまだ冷たい。
「エリック・ホール、写真照合をもう一度だ」
班長は腰の無線機に手を置いたまま、ドギョムの後頭部を見下ろす。通路の黄色い線の向こうで、外れた車輪が横倒しになっている。強化扉の内側では機械音が止まらない。アルマの横顔は、もう換気口の隙間から消えている。
ドギョムは慌てない。慌てた作業員は長く見られる。怒った作業員はもっと見られる。彼は車輪の芯を拾い、ゴムの縁を片手で持つ。
「ピンが曲がってる」
短く言う。
班長の目が細くなる。
「聞いてない。カードを出せ」
ドギョムは膝をついたまま、胸ポケットから白い仮入館カードを抜く。指紋を残す場所を選ぶ。写真面ではなく、端だけ。班長がそれを奪い、胸の高さへ上げる。
カードにはエリック・ホールのぼやけた顔が印刷されている。四十七歳。膝を壊した男。ヘナの常連。ドギョムより頬が丸く、目が少し眠そうだ。コピーを重ねれば違いは出る。だが地下の蛍光灯は顔色を殺す。作業帽の影もある。
班長はカードとドギョムの顔を見比べる。
「帽子を取れ」
ドギョムは片手で黒帽を取る。短く刈った黒髪が蛍光灯に照らされる。表情は変えない。目だけが班長の手を見る。無線機。鍵束。カード。銃はない。殴る役ではない。呼ぶ役だ。
班長は二秒見る。三秒目で、無線機から別の声が割り込む。
「地下一階、資料室側の床がまだだ。消毒班、戻せ。地下二階前で止めるな」
班長の顎が少し動く。苛立ちを噛んだ音だ。彼はカードをドギョムの胸へ押し戻す。
「車輪をはめたら資料室側へ戻れ。ここで遊ぶな」
「了解」
ドギョムは車輪を軸へ戻す。わざと一度失敗する。金属が乾いた音を立てる。班長が舌打ちする。二度目で入る。ロックピンは完全には戻さない。次も同じ故障を作れる角度で止める。
清掃班は縦一列で引き返す。誰もアルマのいる扉を見ない。見た者は戻れなくなると知っている。ドギョムはカートを押し、地下一階の資料室側へ曲がる。背中で班長の視線がまだ刺さっている。
資料室側の通路は、地下二階前より古い。壁の塗装は湿気で浮き、コンクリートの継ぎ目には黒い水が溜まる。天井の配管には郡の古い番号札が下がり、ところどころ新しいケーブルだけが別の色で走っている。古い施設に、新しい監視だけを縫いつけた場所だ。
通路の端に、施錠キャビネットが並んでいる。灰色の鉄製。高さは胸まで。扉には白いラベルが貼られ、いくつかは剥がれている。いちばん端の列だけ、上に古びた看板が打ちつけられている。
郡有財産。
文字は乾いた公式の顔をしている。その下に並ぶ錠前は、郡人事課や資料室の標準キーではない。黒い番号錠。外部セキュリティ業者の製品だ。センターの古い扉と違う。強化扉のカードリーダーと同じ匂いがする。
「そっちを拭け」
班長が言う。
ドギョムはうなずき、モップを濡らす。漂白剤の水は薄い。床の血や薬品を消す濃度ではない。見た目だけの清掃だ。彼はモップを壁際へ滑らせ、キャビネットの列へ近づく。
コンクリート壁の腰の高さに、浅い傷がある。
最初は配管工の道具跡に見える。だが線は不揃いで、金属ではなく爪の跡だ。爪先が何度も折れ、滑り、それでも同じ場所を引っかいた線。二文字だけが残っている。
JR。
ドギョムの手が止まらない。止めれば見つかる。モップを動かしながら、目だけで傷を測る。高さ。姿勢。力の方向。立ったままではない。膝をつくか、壁に押しつけられた状態で刻んだ文字だ。最後の線は途中で乱れている。誰かに引き剥がされたか、手の爪がそこで負けた。
ジョアン・リバース。
掲示板の写真が、地下の湿った壁に重なる。笑っていない目。何かを聞き出す前の顔。その女がここまで来た。あるいはここへ連れてこられた。
ドギョムは番号錠へ視線を落とす。手袋越しでも、正面に触れば跡は残る。彼は屈み、バケツを動かすふりをする。手のひらではなく、手の甲の骨で錠前の下側を軽く探る。冷たい。新しい。こすれた数字は三と七と二が多い。毎晩ではないが、定期的に開けている。
標準キーではない。班長の鍵束に付いた真鍮の鍵では開かない。外部業者の番号錠。番号を知っている者か、業者に触れる者だけが開ける。
「遅い」
班長が通路の中ほどで言う。
「ピンが緩い。カートが傾く」
ドギョムはそう返す。声は低い。言い訳にしては短い。班長が近づいてくる。ドギョムはバケツをわずかに倒し、薄い水を床へ広げる。反射した蛍光灯が揺れ、班長は靴を止める。
「十五分で終わらせろ」
「わかった」
十五分。十分あれば十分だ。十五分なら、余りを作れる。
ドギョムは床を拭く動きを続けながら、頭の中に地下の地図を描き直す。更衣室から搬入口まで二分。地下一階資料室側から強化扉まで四十秒。強化扉の向こう、CR-7ラインの端からアルマの列まで三秒。警報まで一秒。正面はだめだ。
だが保安ブレスレットがある。アルマの手首の赤い点は三秒ごとに灯っていた。常時発信ではない。節電式。夜間点呼と作業場内の位置確認に使う型だ。充電が要る。充電台に載せている間だけ、腕からの信号が途切れる。
作業場の隅に、保安ブレスレットの充電台があった。換気口から見えたのは一瞬だけだ。壁際の棚。灰色の輪が三つ載っていた。作業交代のタイミングで、輪を外させる。いや、外すのではない。手首にはめたまま充電端子を噛ませる型なら、信号が台側へ移る。個体位置が曖昧になる。
交代時間は午前二時。
地下通路の時計、班長の招集、作業場のライン速度。全部がその一点へ寄っている。二時に人が動き、ブレスレットが台へ載る。信号が途切れる短い空白。その空白だけが、アルマを外へ出せる隙になる。
ドギョムは十五分をきっちり遅らせる。モップを絞る回数を増やし、カートの車輪を二度鳴らし、資料室前の床に残った水をもう一度拭く。班長は苛立つが、清掃を急がせるだけで近づきすぎない。床が濡れている間、男は自分の靴を汚したくない。
やがて作業終了の合図が出る。清掃班は更衣室へ戻される。地下通路の空気が背後へ流れ、強化扉の機械音が遠ざかる。ドギョムはカートを押しながら、最後に一度だけ資料室の端を見る。
JRの傷は、水気を吸って黒く浮いていた。
更衣室では、五人が黙って手袋を捨てる。ひげの薄い男は何か聞きたそうにドギョムを見るが、班長が近くにいるため口を開かない。太った女は膝の下の封筒をまた確かめる。背の曲がった男は扉の音で肩を跳ねさせる。
班長は入口横のカードホルダーの前に立ち、仮入館カードを一枚ずつ確認している。
「エリック」
ドギョムはカードを差し出す。班長は受け取り、また写真を見る。さっきより長い。ドギョムの顔へ目を移し、カードへ戻す。二度目だ。
「顔」
班長が低く言う。
更衣室の空気が止まる。
「どこかで見たことがある」
ドギョムは帽子をロッカーへ入れる手を止めない。カードの端を班長の指から静かに抜き取り、ホルダーの元の位置へ差す。エリック・ホールの名が、白い札の列に戻る。
「よくある顔だ」
「そうか」
班長は笑わない。腰の無線機へ、ゆっくり手を上げる。親指が送信ボタンの近くで止まる。
ドギョムは更衣室の鏡を見ない。鏡の中で目が合えば、次の動きが先に読まれる。彼はロッカーの扉を閉め、金属の薄い音を一つだけ鳴らす。
背後で、班長の無線機が小さく息を吸った。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
27話 四分余りの地下救出作戦
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