班長の無線機が小さく息を吸う。
送信ボタンが押し込まれる寸前、別の声が割り込んだ。
「班長、三号カートの廃棄袋が一つ破れました。搬入口側、確認を」
班長の親指が止まる。更衣室の誰も動かない。ドギョムはロッカーの扉から手を離し、肩の力を変えない。
班長は無線機を口元へ上げた。
「その場で待て。誰も触るな」
短く返し、ドギョムをもう一度見る。
「明日も来るのか」
「呼ばれれば」
「呼ばれたら、遅れるな」
それだけ言い残し、班長は鍵束を鳴らして出ていく。扉が閉まったあとも、五人は数秒立ったままだ。ドギョムは何も言わず、仮入館カードの位置だけを覚える。白い札の列。エリック・ホールの名札。そこに戻る道は、もう一度だけ使える。
翌日の夜、雨は細い。リハビリセンターの外壁は濡れた骨のように白い。ドギョムは搬入口の前で清掃カートを押し、漂白剤の容器を一本、余分に載せる。中身は薄めていない。匂いで人を動かすための濃さだ。
班長は入口で名簿を読む。昨夜より目が鋭い。
「エリック」
「いる」
ドギョムは返す。声の高さは変えない。
「今夜も資料室側だ。地下二階には入らない。カートは俺の前を通す。勝手に曲がるな」
「了解」
カートの下段には、折り畳んだ補助の作業服が一組、空の廃棄物箱の内側へ貼りつけてある。アルマが歩けるなら着られる。歩けなくても、隠す形にはできる。
午前一時五十二分、地下通路の空気が変わる。夜勤の交代前で、足音が増え、強化扉の向こうのライン音が少し荒くなる。班長は無線で点呼を受けながら、地下一階の通路を行き来している。疑いは残っている。だからこそ、目の前の失敗にはすぐ食いつく。
ドギョムは資料室の隅でカートを止める。JRの傷がある壁の少し手前。番号錠の黒い面は、蛍光灯を鈍く返している。
一時五十九分。
強化扉の向こうで、短い電子音が三度鳴る。作業交代の合図だ。続いて、保安ブレスレットの充電台が起動する低い唸りが通路の配管を伝ってくる。三秒ごとだった赤い点は、この時間だけ別の機械へ渡される。
二時ちょうど。
ドギョムは漂白剤の容器を持ち上げる。手袋の指先でキャップを半回転だけ緩め、カートの縁へわざとぶつける。
白い液体が床へ落ちた。鋭い臭いが一瞬で立つ。薄い清掃用の臭いではない。喉を焼く、病院の奥のような臭いだ。
「おい、何をした!」
班長が振り向く。ドギョムは容器を押さえようとする作業員を演じて、さらに少し傾ける。漂白剤は資料室の隅、換気口の下へ広がる。
天井の奥でダンパーが落ちた。金属が閉じる音。化学臭を検知した自動換気が、汚染区画を切り離す。次に壁際の非常灯が黄色く点く。換気点検用の通路が開く合図だ。
「離れろ、吸うな!」
班長が無線機を握る。現場管理の声になっている。疑う声ではない。
ドギョムはカートを押し、こぼれた液の外側へ回る。作業員たちは一歩退く。班長も資料室側の空気を避けるように半歩下がる。その半歩の隙に、壁の点検扉がドギョムの右側に開いた。
「吸引材を取ってくる」
「待て。俺が——」
班長の言葉が終わる前に、無線が警告を吐く。
「地下一階、化学臭検知。換気区画閉鎖。確認者、応答」
班長は舌打ちし、無線へ返す。その一拍で十分だった。
ドギョムはカートを引き込み、点検扉の内側へ入る。狭い。配管が肩を削る。頭上を古いダクトが走り、足元の金網は油で滑る。清掃員なら入ってもおかしくない。保安員なら入るのが遅れる。
通路は強化扉の横を回り込み、作業場の奥の壁へ出る。昨日、換気口から見た列の端だ。薄いパネルの向こうに、白い作業灯が漏れている。充電台の起動音はまだ続いている。
ドギョムは点検口のロックを押す。扉が小さく開く。音はラインの機械音に消える。
作業場の中は熱い。粉とビニールと消毒液の臭いが皮膚に貼りつく。作業員たちは壁際の充電台に手首を寄せている。灰色の輪の端子が、台の金属へ噛んでいる。監視端末から見れば、全員がそこにいることになる。
アルマは列の端にいる。箱を抱えたまま、顔を上げない。短い髪が頬へ貼りつき、痩せた首に作業服の襟が余っている。
ドギョムは彼女の机の角へ近づく。声は出さない。手の甲で、机の角を二度叩く。
こつ、こつ。
アルマの肩が、ほんのわずかに止まる。顔は上げない。だが右手の指が箱の端をつかみ直す。聞こえている。
ミゲルが幼いころ、鍵をかけられた扉の外から姉を呼ぶときに使っていた合図。アルマだけが開ける音。ドギョムはそれを、少年の二か月分の話の中から拾っていた。
「歩けるか」
息だけで聞く。
アルマは唇を動かす。
「少し」
「なら十分だ」
ドギョムは清掃服の内側から補助の作業服を出す。薄い灰色の上着。名札はない。アルマの腕を取ると、骨が軽い。彼は壁と人の背中の間で、彼女に上着を着せる。保安ブレスレットを手首にはめたまま、充電台の端子からそっと外す。赤い点は消えている。まだ端末は台側の信号を信じている。
アルマの呼吸が浅くなる。
「ミゲルは」
「生きてる」
それ以上は言わない。今、希望は重い。持たせすぎると足を止める。
ドギョムはカートの廃棄物箱を開ける。空箱の間に、人一人分のくぼみがある。アルマを横たえ、箱を左右から立てる。口元にだけ細い空気の道を残す。彼女は痛みに顔を歪めない。母親と同じ目の形が、暗い箱の隙間から一度だけドギョムを見る。
「音を出すな」
アルマはうなずく。
ドギョムは廃棄物箱を閉じ、壊れた前輪をわざと鳴らしながら作業場の端を抜ける。貨物エレベーターへ向かう直前、強化扉の向こうで班長の声が近づく。
「エリックはどこだ」
無線が割れる。
「清掃班ひとり、位置確認できず。繰り返す。清掃班ひとり、位置確認できず」
班長の怒鳴り声が続く前に、ドギョムは貨物エレベーターの中へカートを押し込む。扉の縁に漂白剤の臭いがまだついている。彼は地下一階のボタンを押す。古いモーターが唸り、扉が閉まり始める。
アルマの保安ブレスレットが充電台を離れたことを、システムが本当に拾うまでの猶予。ドギョムは頭の中で数える。一秒。二秒。三秒。
扉の隙間の向こうで、班長が角を曲がってくる。小柄な影が無線機を口元へ上げ、目だけでカートを見つける。
四十秒。まだ早い。
エレベーターが沈む。天井の蛍光灯が一度切れかけ、アルマのいる箱の中から、かすかな呼吸が漏れる。ドギョムはカートの取っ手を握ったまま、数字を削るように数え続ける。
三分五十秒。
無線機が天井のスピーカー越しに叫んだ。
「ブレスレット一基、充電台離脱。地下二階、端末応答なし!」
四分余り。
その最後の秒で、エレベーターの表示が地下一階で止まった。扉の向こうから、非常灯の赤い光が細い線になって差し込んでくる。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
28話 血のカメラストラップ
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