入口のベルが鳴った瞬間、ヘナの指はメニュー表紙の手前で止まる。
入ってきたのは若い保安官代理だった。雨粒のついた帽子を払わず、カウンターと客席をゆっくり見た。視線はディナのバッグで一度止まり、次にヘナの左手首へ落ちる。
「巡回だ。袋を持たせるなって命令が出た」
「食べ残しまで保安官事務所の許可が要りますか」
ヘナはカップを洗いながら答える。声は低く、平らだ。ディナは足元に落ちた面会申請書を拾わない。バッグの口は閉じている。中の焦げたパンは見えない。
代理はカウンターに肘を置き、店内をもう一度見回す。奥の厨房では、ドギョムが棚の陰から男のベルト、無線機、拳銃の留め具を見る。撃つつもりの手ではない。探す手だ。
「客に袋を渡したか」
「焦げたパンを売れないから捨てただけです」
「誰に」
ヘナはそこで初めて代理を見る。
「犬にでも聞いてください」
空気が硬くなる。代理の顔に怒りが出かけたが、無線が先に鳴った。
「三号車、サンセットへ回れ。受付の老人を事務所へ」
代理は舌打ちし、扉へ戻る。出ていく直前、ディナのバッグをもう一度見るが、手は伸ばさない。ベルが鳴り、雨の音が一瞬だけ強く入って、また閉じた。
ヘナは三拍待つ。それから床に落ちた面会申請書をつま先でカウンターの内側へ寄せた。
「裏から」
ディナは顔を上げる。
「今すぐ。パンは出さないで」
ディナは何も言わず、バッグを抱えて厨房脇の通路へ消える。ヘナは後を追い、彼女が雨の中へ出ていくのを見届けてから、裏口の扉を閉めて鎖をかけ直した。
その直後、別の音がした。
裏口を叩く、弱い二度の音だった。客が使う叩き方ではない。助けを求める人間の、迷いのある指先だ。
ヘナは布巾を置き、ドギョムを見る。ドギョムは棚の陰から出て、裏口横の壁に体を寄せる。右手は空のまま、左足だけを半歩引く。
ヘナが鎖をかけたまま扉を細く開けると、雨合羽の下から小柄な老女の顔がのぞいた。白髪をピンで留め、頬は紙のように薄い。濡れた手に古い書類鞄を抱えている。
「ヘナ……私よ。グラディス」
ヘナの目が少し動く。
「受付にいた?」
「いた、が正しいわ。もう辞めたの。辞めさせられた、でもいい」
グラディスの声は震えていた。だが扉の隙間から中をのぞく目は、まだ数字を読む人間の目をしている。
ヘナは外を確かめ、鎖を外した。グラディスは厨房へ入るなり、膝から崩れそうになった。ドギョムが腕を取る。老女は彼の顔を見て息を呑むが、悲鳴は上げない。
「あなたが、あの人ね」
「何を持ってきた」
ドギョムは名乗らない。
グラディスは鞄を作業台に置き、留め具を外す。中から透明ファイルが何冊も出てきた。コピー用紙の端は湿り、ところどころ波打っている。だが印字は読める。更生命令書。死亡診断書。外来受付記録。医師署名欄の写し。
「一年分よ。全部じゃない。私が持ち出せた分だけ」
ヘナがカウンター側の灯りを落とし、厨房の小さな蛍光灯だけにする。ドギョムは濡れた作業台の水を布巾で一度拭き、書類を広げた。
最初の束には、判事マートンの更生命令書が並ぶ。日付、対象者名、五桁の識別番号、リハビリセンターへの移送命令。理由欄には処方違反、治療不履行、財務再建プログラム違反といった言葉がきれいに並んでいる。きれいすぎる言葉ほど、人を箱へ入れる。
次の束は死亡診断書だった。
グラディスは震える指で署名欄をたどる。
「見て。同じ医師の署名。ここも、ここも、ここも。ひと月に三十回。同じ人間が、夜中にこれだけ確認できるわけがない」
ヘナが顔を近づける。確かに署名は同じ名前だった。だが線の太さが違う。右上がりの癖は同じなのに、最後の跳ねが弱いものがある。インクの色も黒と濃紺に分かれていた。一本のペンではない。ひとりの手でもない。
「真似たのか」
ドギョムが言う。
「ええ。少なくとも一部は。医師本人が押した電子署名を紙に印刷して、その上から誰かがなぞっている。雑な日があるの。急いだ日が」
グラディスは別の紙を抜いた。ヘナが一瞬でトミーの名を見つける。
トミー・グレンジャー。
ディナの夫の名が、そこにある。更生命令書の発行日は、郡病院の入院記録と重なっていた。診療科、病室番号、入院受付時刻。トミーはその日、病院のベッドにいた。判事の前には立っていない。署名欄には、本人同意の小さなチェックが入っている。
ヘナの唇が白くなる。
「ディナに、まだ見せないで」
「見せる。けど今じゃない」
ドギョムは書類を横へ滑らせる。怒りを顔には出さない。ただ、紙の角を押さえる指だけが一瞬強くなる。
グラディスはさらに奥のファイルを開く。今度は行ごとの一覧だった。五桁の識別番号、名前、入所日、処理状況。死亡処理、釈放、移送完了。そのいずれかに赤い印がある行と、何もない行が混じっている。
「これを見つけたから、辞めたの」
彼女の指が一行で止まった。
ミゲルの母の名前だった。
ヘナが息を止める。ドギョムはミゲルから預かった写真の裏の番号を思い出す。そこにあった五桁の数字と、目の前の数字は一致している。
識別番号の横で、死亡処理の欄だけが開かれていた。チェックを入れる枠が作られ、処理番号の空欄もある。だが死因欄は空白だった。急性中毒、心不全、事故、どれも書かれていない。空白のまま、次の行へ進んでいる。
「死亡に入れる準備だけして、死因を書いていない」
ドギョムは低く言う。
グラディスはうなずく。目の下が震えていた。
「発行時刻を見て」
欄の端に小さな数字がある。
午前二時四分。
ヘナの手が作業台の縁をつかむ。ドギョムの視線がそこへ落ちたまま動かない。アルマを出した夜。保安ブレスレットの離脱警報が施設全体へ上がった時刻。赤い非常灯が地下一階の扉の隙間から差した、あの時刻。
「同じだ」
ヘナの声はかすれている。
ドギョムは死因欄の空白を指で押さえた。その指はしばらく動かなかった。紙の上で、人は二度殺される。一度目は体から。二度目は名前から。ブラスヒルでは、その順番さえ入れ替わる。まだ息をしている人間が、先に書類の上で死ぬ。
「トラックを襲っても、箱を奪っても、足りない」
グラディスが顔を上げる。
ドギョムは空白欄から指を離さない。
「書いた手をつかむ。署名を写した手だ。死亡欄を開いて、死因を空にした手」
ヘナは作業台の上の書類を一枚ずつ重ね始める。顔、時刻、封筒、輸送表。そこへ更生命令書と死亡診断書が加わる。金の線だけではない。人を生かし、殺し、まだ決めないまま売る線が、紙の上でつながっていく。
グラディスは鞄の底から、小さな付箋のついた最後のコピーを出した。
「外来受付の端末に、署名テンプレートを呼び出した履歴が残っている。私の権限では名前までは見えなかった。でも端末番号は見えた」
ドギョムはその紙を受け取る。
端末番号。使用時刻。二時四分の前後に並ぶ呼び出し履歴。そして場所。
郡リハビリセンター本館ではない。
郡保健局、文書処理室。
厨房の奥で、冷凍機が低く唸った。外ではまたパトカーが水たまりを踏む音が近づいている。ヘナが灯りをひとつ消す。グラディスは震える両手を握り合わせる。
ドギョムは端末番号の行を折らずにポケットへ入れた。
その夜、次の標的は輸送路ではなくなった。箱でも、トラックでも、下っ端の無線でもない。
午前二時四分に、死亡欄を開き、死因を空欄にしたその手だった。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
39話 黒いピンが閉じる星形
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