ラウクの親指が沈むのを見た瞬間、ドギョムは塀を越える。
無線の中身までは聞こえない。だが、送信したという事実だけで十分だった。ラウクは窓の外に誰かがいたと知った。もしくは、誰かが来ることを最初から待っていた。
ヘナもそれを理解している。彼女は声を出さず、路地の奥へ先に動く。濡れた外套の裾が、焼けた食堂の煤を引きずる。ドギョムは彼女の後ろにつき、二つの民家の裏庭を抜ける。足跡は水たまりと砂利の上だけに残し、柔らかい土は踏まない。
「送ったな」
「ええ」
ヘナは振り返らない。
「教会へ急ぎます。あそこなら、今はまだ見つかっていない」
「今は、だ」
ドギョムは短く返す。ラウクの一拍遅い追跡が、今夜だけは一拍早く変わった。窓枠に残った血も、開いていた台所の窓も、全部が次の線になる。
町外れの教会は、かつて炭鉱夫の家族が日曜だけ集まった小さな建物だ。屋根の十字架は曲がり、正面扉の片側は雨で膨らんで閉まらない。ステンドグラスは半分割れ、板で打ちつけられた隙間から、夜明け前の灰色の光が細く落ちている。
ヘナは壊れた信徒席の間を抜け、祭壇脇の床板を二度踏む。重い音が返り、床下の掛け金が外れる。地下へ続く狭い階段が口を開く。
先に下で待っていたのはグラディスだった。白髪をピンで留めたまま、濡れた合羽の上から古いカーディガンを着ている。足元には水タンク、缶詰、乾電池、毛布、古い無線受信機が並ぶ。数日前から少しずつ運び込んだものだ。
「来たのね」
グラディスの声は震えている。だが目だけは、階段の上ではなく、ドギョムの手首の血を見ている。
「切っただけだ」
ドギョムは言い、コンクリートの祭壇へ向かう。地下室の中央には、かつて洗礼用に使われたらしい低い壇が残っている。そこが今夜の机だった。
ヘナは焼け跡から運び出したジョアンのノートパソコンを布ごと置く。ビニールは熱で歪み、角は煤で黒い。それでも中のドライブは死んでいない。ドギョムはそれを一度だけ見てから、シャツの内側から一九五〇年代の坑道図面を抜く。続けてジョアンの識別番号名簿の写し、コンベンションホールの平面図、ミゲルの母の番号を書いた紙片を広げる。
「アルマは」
「上です」
ヘナが答えるより早く、階段から裸足を布で巻いたアルマが降りてくる。肩には大きすぎる男物の外套。顔色は白いが、目は落ちていない。彼女の後ろから、ミゲルが弁当箱を両手で抱えて入ってくる。濡れた髪が額に貼りつき、右手の痣はさらに黒くなっていた。
「テープ、持ってきました」
ミゲルは壇の端へ弁当箱を置く。底板を外すと、カセットテープが三本と、銀色のUSBメモリが薄い布に包まれて出てくる。
「学校の放送室の分と、会場裏の分です。ルーファスさんに渡したのは……」
そこで言葉が切れる。地下室の空気が、一瞬だけ重くなる。誰も慰めを言わない。今の慰めは、紙の上で死因を作る連中と同じくらい薄い。
アルマが黙ってミゲルの横へ座る。少年はしばらく弁当箱を握ったままだったが、やがて左手を伸ばし、姉の手を握る。指は不器用に震えている。アルマも何も言わず、握り返す。その一回だけで、二人の間に残っていた長い空白が少しだけ狭まる。
階段の上で板がきしむ。ディナが入ってくる。髪は雨で濡れ、胸には防水袋を抱えている。彼女はあいさつをしない。地下室の壁際へ歩き、剥がれかけた断熱材をめくる。中に茶封筒を一つ、さらに奥へ押し込む。続けて別の薄いノートの写しを、救急キットの底板の下へ隠す。
「残りは私が持つ」
「見つかったら」
ヘナが問う。
ディナは救急キットを開きながら、初めて顔を上げる。
「見つかる前に、誰かの手へ渡す」
その声は弱い。だが、トミーの面会申請書を踏みにじられた時の声とは違う。もう頼む声ではない。
ドギョムは全員が地下室に揃ったのを確認して、初めてまとまった言葉を出す。
「道は二つだ」
彼は坑道図面の分岐末端を指す。
「ジョアンが書いた二つ目の写し。鉱山の埋もれた場所にある。ここを取る。取れれば、町長、判事、銀行、ラウク、マローンまで一本で結べる可能性がある」
次に、ノートパソコンとカセット、USBを指す。
「もう一つは、今ここにある写しを外へ出す。報道機関と州警察のサーバーへ同時に送る。一つずつ送れば止められる。同時なら、全部は消せない」
グラディスが唇を湿らせる。
「州警察にも、ラウクの知り合いがいるかもしれないわ」
「だから報道機関も入れる」
「報道機関も買われていたら」
「全部は買えない」
ドギョムは平面図の中央を押さえる。
「会場で一度、客席は止まった。番号を見た。家族が自分の紙を出した。記者も見た。次は写しを外へ出す。町の中で叫ぶだけじゃ足りない」
ミゲルが喉を鳴らす。
「その間、保安官は」
「俺を見る」
ドギョムは即答する。
地下室の水音だけが続く。換気口から雨がしみ込み、コンクリートの床に小さな丸を作っている。
「ラウクは俺だけを見る。その間に資料を外へ出せ」
「それは、囮になるってことですか」
アルマの声が細く入る。
ドギョムは彼女を見る。短く切られた髪。痩せた頬。手首の赤い跡。作業場の列から出ても、まだ体が列を覚えている女だ。
「囮じゃない。正面だ」
ヘナが軍用寝袋を壇の上に広げる。焼け跡から持ち出したものではない。以前からここに置かれていた、古いオリーブ色の寝袋だ。彼女は端を伸ばし、血のついたドギョムの手首をつかむ。
「手」
ドギョムは逆らわない。ディナが消毒液を出し、裂けたたこの上にガーゼを当てる。痛みは小さい。キャンプ・ソラウドの報告書を机に置いた夜、署名欄の下で手が震えなかったことを思い出す。七件の紙はすべて止められた。名前も、証言も、死体も、きれいな手続きで消えた。
ここでも同じ匂いがする。
だから今度は、紙だけを出して終わらせない。
ドギョムは治療が終わると、シャツの内側へ手を入れる。冷えた認識票を引き出し、手のひらに載せる。薄い金属二枚に、自分の名前と軍番号が刻まれている。ヘナも、ミゲルも、アルマもそれを見る。誰も尋ねない。
彼はしばらく認識票を見つめ、また胸元の奥深くへ押し込む。留まるためではない。逃げるためでもない。自分の名前がまた報告書の中で潰される前に、潰す側の机をひっくり返すためだ。
「俺が時間を稼ぐ」
ドギョムは言う。
「その間に、送信の準備をしろ。鉱山へ行く道も残せ。どちらか一つじゃ足りない。写しを出して、二つ目も取る」
グラディスが古いノートパソコンを開き、震える指で起動ボタンを押す。ディナは救急キットの横に封筒ノートの写しをさらに二つ並べる。ミゲルはカセットのラベルに時刻を書き、アルマはその横で黙って数字名簿の空欄を指でたどる。
換気口の向こうで、ラジオが雑音を吐く。
やがて、聞き慣れた穏やかな声が流れ込んでくる。町長エヴァン・プライスの声だ。昨夜の会場での混乱と、町民の不安に対する謝罪。彼は落ち着いている。落ち着きすぎている。
『皆さまにご心配をおかけしたことを、心よりお詫び申し上げます』
グラディスの指が止まる。ヘナが顔を上げる。
謝罪は短かった。
すぐ次の文で、プライスは豪雨による道路危険を理由に、郡道八十一号線、カジノシャトル進入路、峡谷本線、町外れの貨物整備場周辺を夜明けから暫定封鎖すると告げる。
地下室の全員が、同時に黙る。
ドギョムは坑道図面の上に手を置く。外へ出す道も、鉱山へ入る道も、いま同じ手で閉じられようとしている。ラジオの声は最後まで穏やかだった。
『住民の安全のため、不要不急の外出はお控えください。保安官事務所が各地区を順次確認いたします』
その瞬間、教会の上で古い床板が、ぎしりと鳴った。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
61話 メイソンの消えた報告書
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