床板の軋みで、地下室の全員が息を止める。
ドギョムは壇の上の図面を押さえたまま、左手だけを上げる。誰も動くな、という合図だ。ヘナは無線受信機のつまみに指を置き、ミゲルは弁当箱を胸へ抱く。アルマの足首に巻いた布が、床の水を吸って黒くなる。
もう一度、上で鳴る。
ぎしり。
人の重みなら、次に鳴る位置が変わる。雨で膨らんだ板なら、同じ場所で鳴る。ドギョムは階段の三段目まで音もなく上がり、割れた祭壇の隙間から暗い礼拝堂を見る。壊れた窓から雨が吹き込み、外れかけた板が風で持ち上がっては落ちている。
足音はない。懐中電灯の光もない。
だが安全ではない。ラウクの無線が走った以上、ここはもう時間の問題だ。
ドギョムは地下へ戻り、短く言う。
「風だ。続けろ」
グラディスの指が震えたままキーを叩き始める。ディナは封筒の位置を一つ変え、ヘナは古い毛布で換気口の下の水を受ける。ミゲルは姉の手を放さず、もう片方の手でカセットのラベルを書いている。
ドギョムはコンクリートの壇の端へ腰を下ろす。手首のガーゼはすぐ赤く染まる。肋骨の奥も、雨の冷えで鈍く鳴っている。眠るつもりはない。だが目を閉じなければ、次の動きの線が乱れる。
「五分だけ」
ヘナが顔を上げる。
「起こせ」
それだけ言って、ドギョムは背中を壁へ預ける。コンクリートは骨まで冷たい。換気口からしみ込んだ雨水が、一定の間隔で床へ落ちる。
一滴。
二滴。
三滴目が落ちる前に、音は別の場所へ変わる。
十二年前、キャンプ・ソラウドの夜だ。
基地の外周フェンスの向こうは砂と低い山だけで、昼の熱が夜になってもコンクリートに残っている。発電機のうなり、遠くの犬の声、ディーゼルエンジンの低い振動。憲兵隊捜査事務所の蛍光灯は白く、机の上のコーヒーは三時間前から冷めている。
ドギョムはその机で、民間業者トラウコの捕虜移送記録を見ている。列はきれいだ。人数、日付、移送先、受領署名。きれいすぎる記録は、だいたい何かを隠している。
「ここだ」
向かいの机からキース・メイソンが顔を上げる。赤毛を短く刈った、笑うと少年のように見える男だ。だがその三日間、笑っていない。目の下には青い線が浮いている。
「また一日ずれてる」
ドギョムは紙を指で押さえる。
「人数もだ。一人少ない列が、次の便で一人多くなる。死亡報告じゃない。釈放でもない。列が隣へ逃げてる」
メイソンは電卓を横へ滑らせ、同じ数字をもう一度打つ。三晩徹夜して、二人は同じ結論へ来ていた。トラウコは捕虜移送記録の人数と日付を、一マスずつずらして書いている。誰かの移送日を翌日にし、誰かの人数を前便へ混ぜる。そうすれば、点検する者は合計だけを見て通す。
だが一人ずつ追えば、人間が消える。
「七件」
メイソンが言う。
「確認できるだけで七件。もっとあるな」
「最初の報告書に入れる」
「最初の、か」
メイソンは乾いた笑いを出そうとして、途中でやめる。
「二通作る。正規の提出分と、監察へ回す写し」
「手続きどおりだ」
「手続きどおりに消えることもある」
ドギョムは返事をしない。メイソンも、それ以上言わない。
夜明け前、二人は最初の報告書を提出する。添付したのは、移送記録のコピー、燃料伝票、ゲート通過ログ、病棟の受領署名、そして日付が一マスずれた七件の一覧だ。報告書の末尾に、ドギョムの署名とメイソンの署名が並ぶ。
軍監察へも、手続きどおり回した。
その翌日、トラウコの現地運営管理者が憲兵隊事務所の前を通る。白いシャツ、薄いサングラス、砂を踏んでも汚れない靴。彼は事務所へ入らない。ただ、窓の外をゆっくり通り過ぎる。
一度目は昼。
二度目は夕方。
どちらも、歩幅は同じだった。
メイソンは窓のブラインドの隙間からそれを見て、いつもの軽口を言わない。机の引き出しを開け、報告書の写しを茶封筒に入れる。それから自分のロッカーへ行き、底板を外し、封筒を制服の畳み皺の下へ押し込む。
「大げさだと思うか」
「思わない」
ドギョムは即答する。
メイソンはそこで、ようやく口の端だけを動かす。
「なら、俺たちはだいぶ終わってる」
「まだ始まったばかりだ」
「それがいちばん悪い」
その夜、基地の空気は妙に静かだ。発電機だけが低く唸り、遠くでトラックが一台、荷台の鎖を鳴らして走っていく。ドギョムは机で二通目の補足報告を書いている。トラウコの数字のずれは偶然ではない。捕虜の所在を消す目的で行われた可能性が高い。関与者の聴取と、移送ログ原本の保全が必要。
そこまで書いたところで、電話が鳴る。
明け方四時十七分。
当直の声は短い。事故報告の読み上げに、感情は入らない。
「キャンプ裏門、車両衝突。被害者、憲兵隊捜査官キース・メイソン。新しい配属命令書を受領後、夜間運転中に民間業者のトラックと接触。現場で死亡確認」
一行だけの通知だった。
ドギョムは受話器を置く。置いた音が、自分の手ではないように遅れて聞こえる。
「配属命令?」
誰かが背後で言う。誰だったか、今でも思い出せない。
メイソンに配属替えの話などなかった。少なくとも、前夜のロッカー室で彼は何も言っていない。茶封筒を底へ隠し、明日の朝もう一度監察に電話すると言っていた。
ドギョムは走る。
憲兵隊事務所の廊下を抜け、ロッカー室の鉄扉を開ける。床は清掃直後のように乾いている。メイソンのロッカーの鍵は、なぜかかかっていない。
底板を外す。
制服は畳まれている。靴下も、ベルトも、予備のシャツもある。茶封筒だけがない。
ドギョムは底の鉄板へ手を置く。まだわずかに温かい気がする。誰かが先に来て、触れ、抜き取った。報告書の写し。七件の一覧。人数と日付のずれ。メイソンの署名。
全部、消えている。
背後で、同僚の誰かが言う。
「事故だ。裏門の監視カメラは、ちょうど点検で止まっていたらしい」
ドギョムは振り返らない。
ロッカーの奥に、メイソンがよく使っていた黒いボールペンだけが落ちている。キャップに歯形がついている。三晩徹夜したとき、眠気覚ましに噛んでいたものだ。
ドギョムはそれを拾わない。
拾えば、証拠品ではなく遺品になる。遺品にされたものは、報告書の外へ出される。
その日から、紙の匂いが変わった。
報告書は事実を書くものではない。誰が事実を止めたかを残すものでもない。止める側の手が十分に早ければ、紙は人間より先に殺される。
キャンプ・ソラウドの朝焼けは、砂色ではなく灰色だった。裏門の外でディーゼルエンジンが唸り、誰かが水で血を流している。水はすぐ砂に吸われ、跡は薄くなる。
教会の地下室で、ドギョムの手の甲がぴくりと動く。
雨水が換気口から落ちる。ぽつり、ぽつり、と床を叩く音が、いつの間にか低いディーゼルエンジンの響きに重なっている。
彼は目を開けない。
その暗がりの奥で、メイソンが最後に隠した茶封筒の空白だけが、今のブラスヒルの坑道図面とぴたりと重なっていた。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
62話 書類の上で消された名
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