「移送の始まりだ」
折れた鉛筆の芯が、D-3の文字の上で止まる。誰もすぐには動かない。雨音だけが床板を叩き、ミゲルが上がっていった階段の闇が細く残る。
ドギョムはその闇を見ない。坑道図面を畳まず、外郭の線へ指を置く。
「追うな。あいつは戻る道を知ってる」
アルマの唇が白くなる。ヘナは言葉の代わりに、燃えた食堂から持ち出した目覚まし時計を壇の端へ置く。針は六時に届く少し前だ。
グラディスは緊急放送の内容を書き写している。保健局、道路管理、保安官事務所、リハビリセンター西棟。紙に並ぶ部署名は、ただの会議の名簿ではなく、人を消すための持ち場表に見える。
「午前六時半なら、もう集まってるわ」
「集まってから決めるんじゃない」
ドギョムは低く言う。
「決めたことを、会議にする」
午前九時、郡庁舎前の階段に青い天幕が張られる。雨は横から吹き込み、マイクには透明なビニールが巻かれている。町長エヴァン・プライスは紺のスーツに星条旗のピンを付け、濡れた階段の中央へ立つ。
横にはカーキ色のシャツを皺ひとつなく着たカール・ラウクがいる。磨きすぎた星形バッジだけが、暗い空を薄く拾う。
プライスは紙を開く。
「昨夜から続く豪雨により、峡谷本線および郡道八十一号線の一部に、路肩崩落と冠水の危険が確認されました。住民の安全を最優先するため、外郭への出入りを暫定的に制限します」
記者席に残った二人が顔を上げる。会場というには少ない。昨日の後援行事で画面を見た者のうち、ここへ来た者は半分もいない。
「封鎖ですか」
地方紙の記者が問う。
プライスは一瞬だけ歯を見せる。
「封鎖ではありません。住民の安全のための一時的措置です」
ラウクがその言葉を引き取る。
「住民の安全のための一時的措置だ。救急車両と道路管理車両の通行を確保する。検問で止められた場合は、身分証と目的地を示せ」
二度目の「一時的措置」が、雨の中で硬く落ちる。
ほどなく、カジノシャトル停留所に黄色いバリケードが立つ。小型バスはエンジンを切られ、運転手はハンドルの前で固まっている。
貨物整備場の進入路には、道路管理のロゴを貼ったピックアップが斜めに止まる。事務所の窓には、内側から手書きの紙が貼られる。
『新規貨物路線受付、当面中止』
無期限とは書かれていない。だが再開日もない。
郡道八十一号線の南側分岐点では、保安官代理が鉄の脚を広げ、黄色い板を路肩から路肩へ渡す。板の中央には黒い文字で『ROAD CLOSED』とある。分岐の奥は、古い銅山へ続く。
教会地下では、ヘナが小型ラジオを低く鳴らしている。会見の声は地元局を通じて届くが、途中で何度も砂嵐のような音が混じる。アルマは壇の端に座り、外套の内ポケットを押さえている。そこにはディナの封筒ノートの写しが入っている。
「町から出られない」
ディナがつぶやく。
「町に入らせたくないんじゃないわ」
グラディスが画面を閉じずに言う。古いノートパソコンのバッテリー表示は赤い。
「出されたくないの。紙も、人も」
ドギョムは答えない。カジノシャトル、貨物整備場、八十一号線南側分岐。三つとも、町の外へ出る道であると同時に、鉱山から物を逃がす道でもある。
「ミゲルは」
アルマの声がかすれる。
「学校にいるなら、昼まで動けない」
「見つかったら」
「返事をしない」
短い答えに、アルマの指が外套の布をつかむ。納得ではない。だが今は、それ以上の答えはない。
正午、町の主要通信会社から一斉メッセージが届く。地下室に残るプリペイド携帯三台が、ほぼ同時に震える。
『基地局整備作業のお知らせ。悪天候に伴う回線安定化のため、午後より一部地域で通信が不安定になる場合があります』
ヘナは画面を見て、低く息を吐く。
「整備」
その言葉には、ガス漏れ点検と同じ臭いがある。
午後一時を回ると、最初の一本が消える。携帯電話の電波表示が、三本から二本へ落ちる。グラディスが送信待機画面を開き、予備ルートを確認する。しかし右下の通信マークは灰色へ変わり、復帰しても数秒でまた途切れる。
一時十五分、教会近くの食料品店でカード端末が沈黙する。客が差し込んだカードを機械は読み取らず、『OFFLINE』の文字だけを青白く点滅させる。店主は現金だけだと告げる。客の誰も怒鳴らない。怒鳴れば、閉じ込められていることを認めることになる。
一時四十分、ヘナのプリペイド携帯から最後のアンテナが消える。ミゲルへかけることはできない。学校へ行く道も、今は雨と検問と沈黙で塞がっている。
地下室の誰かが祈るように息を吐く。
ドギョムは無線受信機を引き寄せる。携帯が死ぬなら、向こうも無線へ戻る。手続きは紙で、人の移動は無線で、死は短い報告で処理される町だ。
彼は保安官事務所の周波数に合わせる。指先がつまみをわずかに回すたび、荒いノイズが壁をこする。雨、遠いエンジン音、途切れた符号。ヘナが灯りをさらに落とし、ディナが救急キットを胸に抱える。
「……三号車、八十一号線南、配置完了」
声が一瞬だけ浮かぶ。
「……カジノ側、異常なし。シャトル停止確認」
また砂嵐。
ドギョムは耳を近づける。ラウクの声はまだない。別の男たちが、台本を渡されたように短い報告だけを続けている。やがて、低い声が割り込む。ラウクではない。だがラウクの命令を読む口調だった。
「外郭牧場を一斉捜索。今夜零時」
地下室の全員が止まる。
ノイズの奥で、続きが落ちる。
「廃畜舎、旧給水小屋、北側フェンス、全部だ。教会側は巡回維持。対象は外郭へ出る」
ドギョムは紙へ視線を落とす。外郭牧場は、銅山換気塔へ回り込む迂回線の途中にある。向こうは道を塞いだのではない。彼にそこを通らせるつもりで、夜まで待っている。
アルマがかすれた声で言う。
「罠ですか」
「罠にしては広い」
ドギョムは鉛筆の折れた残りを拾う。
「広い罠は、どこかに穴がある」
彼は坑道図面の換気塔座標の横に、小さな丸をもう一つ描く。外郭牧場、廃畜舎、その先の尾根。線は細い。だが零時までに、その細い線だけがD-3へ届く。
受信機がもう一度鳴る。
「対象が少年と接触する可能性あり。学校側も確認継続」
今度は、ドギョムの手が止まる。
ミゲルはまだ戻っていない。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
65話 マローンの名と放送室
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