雑音はすぐに消えない。古いラジオの膜の向こうで、保安官事務所の呼び出し符号だけが二度、短く跳ねる。
ドギョムは壇の上の紙から目を離さない。ヘナが受信機の音量を落とし、グラディスが息を詰める。ラウクの声ではない。若い代理でもない。もっと粗い、非常無線に慣れていない男の声が、雨音の間へ割り込む。
「……北東側、古い教会跡も確認。灯りなし。外壁だけ見ろ。中へは入るな」
外壁だけ。
その言い方で、ドギョムは今すぐ突入する部隊ではないと読む。だが、見られた。地図の外側にあったはずの場所が、もう誰かの巡回表に載った。
「時間はない」
彼はコンクリートの壇の上に、坑道図面と会場平面図を押し広げる。黒い鉛筆を折れそうな力で握り、まず一本目の線を引く。教会地下から食料品店の倉庫、そこから古い外来受付端末を経由し、外部メディアと州警察汚職捜査課のサーバーへ抜ける線だ。
「資料は外へ出す。町の中の誰か一人に渡すな。報道、州警察、郡検察。三か所へ同時だ」
グラディスが古いノートパソコンを膝に載せる。画面は暗く、バッテリー表示は心細いが、彼女の指は止まらない。死亡診断書の写し、更生命令書、外来受付記録、医師署名欄の画像を一つのフォルダへまとめる。午前二時四分に並ぶ発行時刻だけは、赤い印を付けた別紙にして添える。
「州警察にも、ラウクの知り合いがいるかもしれないわ」
「だから一か所じゃない」
ドギョムは二本目の線を引く。教会から排水路の古い枝道、外郭の空き牧場、尾根の下を回って古い銅山の換気塔へ届く線。そこから図面の青黒い座標、閉鎖採掘場の末端へ向かう。
「こっちは俺が行く。二つ目の写しを取る」
ミゲルが弁当箱を抱え直す。右手の痣は薄くなっていない。姉の指を握っていた左手も、冷えて白い。
「俺も行きます」
「学校へ行け」
ドギョムは即座に返す。
「放送室に最後のカセットが二本あるんだろ」
ミゲルの喉が動く。彼は隠していたことを咎められた顔をするが、すぐにうなずく。
「保安官側の一本と、ブラスラインの古い周波数を入れた一本です。昨日、持ち出せなかった」
「回収しろ。走るな。尾灯は一回だけだ。二回点ければ、追う側に合図になる」
ミゲルは短く息を吸う。自転車の尾灯の赤を思い出したように、視線が一瞬だけ床へ落ちる。
「一回だけ」
アルマがその言葉に反応する。肩が小さく動き、ミゲルの手をさらに強く握る。彼女はこの地下室に来てから、必要なこと以外ほとんど話していない。作業場の名簿を見ても、足裏の布を巻き直されても、目を伏せている。
ディナは茶封筒を開き、ノートの写しを三束に分ける。ヘナが断熱材の隙間を押し広げ、そこへ一部を差し込む。湿った黄色い綿が紙を飲み込み、外からはただの壁のほつれにしか見えない。
二部目はアルマの外套の内ポケットへ入る。アルマは一瞬、身を引きかけたが、ディナがその手を止める。
「あなたが持って。見つける側は、弱ってる人間のポケットを最後に見る」
アルマは答えず、外套の胸元を押さえる。
三部目はミゲルの弁当箱の底板へ戻される。銀色のUSBの横に薄い紙束が入り、底板が小さく鳴って閉じる。ミゲルはそれを胸へ抱え、姉を見る。
「放送室へ行って、戻る。すぐ戻る」
ヘナが低く言う。
「戻る道を先に決めて」
「体育館の非常階段から出ます。正門は使わない。尾灯は、教会側の路地で一回だけ」
「誰かに名前を呼ばれても返事するな」
ドギョムの声に、ミゲルは顔を上げる。
「向こうは名前を呼ばないで来るかもしれない。名前を呼ぶなら、まだ手続きの形を残す気がある。呼ばずに扉を開けるなら、そのまま引きずる気だ」
ミゲルの唇が白くなる。だが首は縦に動く。
グラディスのパソコンが小さな音を立てる。彼女は画面をドギョムへ向ける。宛先欄に複数のアドレスが並び、添付ファイル名には番号と日付が付いている。送信ボタンはまだ押されていない。代わりに、自動送信の待機表示が点滅している。
「回線が生きていれば、指定時刻に送る。切られても、次につながった瞬間に吐き出すようにしたわ。古い仕組みだけど、これなら……たぶん」
「たぶんでいい」
ドギョムは言う。
「町の書類は、確実だと言いながら人を消す。こっちは、たぶんで外へ出せ」
グラディスは泣きそうな顔をして、それでも笑わない。キーを一つ押し、画面の隅に小さな砂時計が出る。
ヘナは焼けた左手首を布で巻き直している。古い火傷と新しい火傷が重なり、赤い線がひとつ増えている。その手で、彼女はジョアンの歪んだノートパソコンから抜き出した画像をもう一度確認する。
「この町は、紙を一枚ずつ隠してきた」
「なら、一度に出す」
ドギョムの鉛筆が、二本の線の交差点で止まる。会場ではない。保安官事務所でもない。古い銅山の換気塔、その下に眠るはずの二つ目の写しだ。
そのとき、アルマが初めて顔を上げる。
「……作業場の奥」
全員の動きが止まる。ミゲルが姉の名を呼びかけるが、アルマは彼を見ない。視線は壇の上の坑道図面へ落ちている。
「地下二階じゃない。もっと奥だったと思う。移されたあと、一度だけ。キャビネットが並んでる場所の端で、女の人を見た」
ドギョムの指が、坑道図面の閉鎖採掘場末端から少し外れた場所へ動く。
「誰だ」
「顔は、よく見えなかった。髪が短くて、頬がこけてて……写真の人に似てた」
ヘナの呼吸が止まる。
「ジョアン?」
アルマは小さくうなずく。確信ではない。だが嘘でもない声だった。
「話してない。話せなかった。男が二人いて、私たちは箱を運ばされてた。あの人、キャビネットの列の端の扉の中に戻された。扉の横に、何か引っかいた跡があった。文字みたいな」
ドギョムの鉛筆の先が、青黒い座標の少し手前で止まる。資料室の壁に刻まれたJR。廃棄物トラックの黒い紐片。ジョアンの二つ目の写し。点だったものが、坑道の中で一本につながる。
「そこがD-3か」
グラディスが図面の記号を読み、震える指で補助線を引く。
「閉鎖採掘場から三つ折れた奥。分岐表示は古いけど、ここ……D-3の枝道に見える」
ミゲルが立ち上がる。
「じゃあ、生きてるんですか」
誰もすぐには答えない。生きているかもしれないという言葉は、死んだという言葉より軽くない。アルマはミゲルの手を握ったまま、唇を噛む。
ドギョムは鉛筆を置く。
「生きている前提で動く」
それだけで、地下室の空気が変わる。恐怖は消えない。だが進む向きが決まる。
ヘナが断熱材を戻し、ディナが封筒の残りを火のそばへ寄せる。グラディスは自動送信の待機画面を閉じず、パソコンの蓋を半分だけ倒す。ミゲルは弁当箱を持ち直し、階段へ一歩出る。
その瞬間、換気口の向こうのラジオが短く鳴った。今度は保安官事務所の符号ではない。郡の緊急放送だ。
「……ハンクス郡緊急会議を、午前六時三十分に招集。出席対象は郡行政、保安官事務所、道路管理、保健局……」
ヘナが時計を見る。
夜明けまで、まだ一時間もない。
放送は淡々と続く。豪雨、道路安全、外郭規制、住民保護。どの言葉も表面だけは正しい。だがドギョムには、その下で扉が閉まる音が聞こえる。
郡保健局。
その名が流れた瞬間、グラディスの顔から血の気が引く。死亡診断書の偽造端末、午前二時四分の発行欄、更生命令の写し。その全部に触れた部署だ。
ドギョムは二本の線をもう一度見下ろす。外へ送る道。換気塔からD-3へ入る道。どちらも一時間後には、別の紙で封じられる。
ミゲルが階段の前で振り返る。
「行ってきます」
ドギョムは短くうなずく。
「戻れ」
少年が床板の影へ消える。上で雨音が強くなり、古い教会の壁が低く鳴る。
ラジオの声は最後に、会議の場所を告げる。郡庁舎ではなかった。
「……臨時会議場は、郡リハビリセンター西棟会議室」
地下室の誰もが、その一文の意味をすぐには飲み込めない。
ドギョムだけが、坑道図面のD-3からリハビリセンター西棟へ、頭の中で線を引く。そこは地上の会議室ではない。地下二階作業場へ降りる管理通路の真上だ。
彼は鉛筆を折る。
「会議じゃない」
折れた芯が、ジョアンの座標の上に黒く落ちる。
「移送の始まりだ」
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
64話 ブラスヒル封鎖の始まり
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