金属音は一度だけで終わる。
誰も息を吐かない。換気口の格子は、内側へ押されてはいない。ただ外から指を掛けられ、位置と遊びだけを確かめられた音だった。ドギョムは壇の上の鉛筆を置き、手のひらを低く下げる。動くな、という合図だ。
雨は夜明け前の闇をさらに厚くする。教会の外壁を伝う水が、換気口の向こうで細く落ちている。ヘナは階段の影に立ち、銃ではなく救急キットの金具を握る。アルマはミゲルの肩から手を離し、断熱材の山を見た。
「今、ここを見た」
声は小さい。だが地下室の全員に届く。
ドギョムは換気口の内側へ寄り、格子の隙間から外を見る。外壁脇には補修用の断熱材が積まれている。焼けたヘナズ・ダイナーから運び直したものや、食料品店の裏から譲られたものなどがあり、いくつかは湿気を吸って形を崩している。そこには、薄いビニールで包まれた封筒ノートの写しが二枚だけ挟んであった。
「戻すな」
ドギョムが言う。
アルマはうなずき、膝をついて格子の内側へ腕を差し入れる。指先はまだ保安ブレスレットの跡で赤い。彼女は断熱材の裂け目に触れ、硬い封筒の角を探る。外の雨で指が滑る。ミゲルが息を詰めるが、ドギョムは止めない。
ヘッドライトが路地の端で白く揺れた。
黒いピックアップが、教会近くの食料品店裏手へゆっくり下りてくる。ライトは高く、雨粒を粉のように照らし、外壁脇の断熱材の山を一度舐めて通る。運転席には影が一つ。助手席にも一つ。保安官代理の制服ではない。道路管理の反射ベストでもない。濡れた黒い上着と、動かない首。マローンの部下だ。
アルマの指先が封筒を押す。薄いビニールが断熱材の繊維に引っかかり、かすかな音を立てる。彼女は歯を食いしばり、さらに奥へ押し込む。封筒の角が見えなくなるまで、もう一関節ぶん。
ライトが二度目に戻ってくる。
今度は速くない。探す光だ。外壁、雨どい、割れた窓枠、断熱材の山、換気口の格子。光は順に触れ、格子の前で一拍止まる。地下の誰も動かない。ジョアンは毛布の下で口を押さえ、咳を飲み込む。ディナは震える手で信徒席の下へ滑り込み、非常用発電機の上に、軍用毛布をさらにもう一枚重ねる。古い発電機は止まっているのに、金属の輪郭だけで見つかるものに見える。毛布の端を折り込み、排気管の影まで隠す。
ヘナが低く言う。
「音は出さないで」
ディナは返事をしない。毛布の上へさらに古い聖歌集の箱を載せる。救護所の心臓は、いまは瓦礫の一部に見えなければならない。
ピックアップは通り過ぎる。だがエンジン音は遠ざからず、食料品店裏の路地で止まる。
「二人」
ドギョムは格子の影から唇だけで言う。
外でドアが開く。水たまりを踏む音が二つ。片方は軽い。もう片方は踵から落ちる。建物に慣れていない歩き方だが、探す場所は知っている。二人は食料品店の裏口を見て、それから教会の外壁へ回る。懐中電灯は使わない。車のライトだけで、見つけるべきものの輪郭を探している。
グラディスが端末のケーブルを外す。郡病院ロゴの古い外来受付端末は、いま地下室の壇に置いておくには重すぎる証拠だった。彼女は小さな老いた体で抱え、ヘナに目で合図する。
「倉庫へ移すわ」
声がかすれる。だが迷いはない。
「別の店だ。教会側じゃない」
ドギョムが短く言う。
「わかってる。南の食料品店の冷蔵倉庫。あそこなら、まだ売上を読まれてない」
グラディスは端末と小型バッテリーを布で包む。外来記録、死亡診断書発行履歴、署名欄画像。七分しか入れない扉でも、外へ出す火種になる。彼女はさらに無線受信機の小さなチャンネル切り替えスイッチを指で示す。
「送信スクリプトの開始信号だけ、ここに結びつける。端末が倉庫でも、合図は受けられる」
「誤作動は」
「一つのチャンネルだけ。三秒の無音、二回。ほかでは動かない」
ドギョムはうなずく。それ以上は聞かない。グラディスは数字で嘘をつかない。怖がっても、欄だけは間違えない。
ジョアンの呼吸が浅くなる。右手首のガーゼに血がにじんでいる。ドギョムは彼女のそばへ膝をつき、古い包帯をほどく。剥がされた爪の跡ではなく、手首の鎖痕がまた開いていた。湿気と移動で傷口がこすれている。
「痛む」
問いではない。
ジョアンはかすかに笑うように息を漏らす。
「痛まない日が、もう思い出せない」
ドギョムは返さず、新しいガーゼを当てる。布を締める力は強すぎず、弱すぎない。彼の指は、壊す時と同じくらい正確に、壊れたものを押さえる。包帯を留めたあと、シャツの内側から小さなケースを取り出す。中にはメモリーカードの写しが一枚ある。会計の原本ではない。だが五人の列を開くには足りる。
彼はそれをジョアンの左手に握らせる。
「二つに分ける。一方が塞がれても、もう一方は行く」
ジョアンはカードを見ずに握る。爪のない指が、白くなるほど閉じる。
「私が捕まったら」
「捕まる前提で持つな」
「でも、捕まる」
ドギョムは彼女の目を見る。頬は骨に貼りつき、黒い髪は汗で乱れている。それでも目だけは、D-3のコンクリート部屋にいた時より戻っている。
「その時は、握った手を開かせるのに時間がかかる」
ジョアンは小さく息を吸う。言葉の意味を理解し、笑わない。
地下室の奥で、ミゲルはドローン二機のバッテリーに最後の充電器を差す。赤い機体用、黒い機体用。コードは古い木箱の中を通し、光るランプには黒いテープを半分貼ってある。痛む指でコネクタを押し込むたび、顔がわずかに歪む。
アルマがその横へ戻る。
「できる?」
「飛ばすだけなら」
「戻すのは」
ミゲルは少しだけ黙る。
「戻らなくてもいい。映ればいい」
アルマは何も言わない。弟の指を見る。折られた二本はまだまっすぐではない。彼女は包帯の端を直すふりをして、彼の手を一瞬だけ包む。
外で足音が近づく。
マローンの部下二人は、換気口の前には立たない。立てば中に気づかれると知っているのか、雨どいの脇から斜めに見る。ライトがまた断熱材を白く照らす。さっきアルマが押し込んだ場所は暗い。だが、表面の一枚だけがわずかにずれている。
ドギョムの目が細くなる。
「今すぐ触るな」
アルマの肩が止まる。
外にいる男の一人がしゃがむ気配を見せる。だがもう一人が短く何か言い、二人はそれ以上近づかない。車のドアが閉まる。エンジンが一度ふかされる。ピックアップは路地の奥まで下がり、そこで長く止まった。
雨脚が強まる。
換気口の向こうは、白い線で埋まる。ライトは消えない。車はまだいる。地下室では、グラディスが端末を抱えたまま動けず、ディナは発電機の毛布に手を置き、ヘナは階段から外の気配を測る。ミゲルの充電器の小さなランプだけが、黒いテープの隙間で鈍く脈打つ。
ドギョムは動かない。ラウクなら、ここで踏み込ませない。マローンなら、触らせる。二つの指揮が同じ車に乗ると、止まる時間だけが長くなる。
やがてピックアップは雨の中を離れる。タイヤが水たまりを切り、食料品店の角を曲がる。エンジン音が二つの壁に反響し、遠ざかっていく。
誰もすぐには息を吐かない。
ドギョムは格子の隙間から外を見続ける。断熱材の山は濡れたまま、元の影に戻っている。だがその一角だけが、雨を吸った重さに逆らうように、ほんの少し浮いている。
アルマが小さく言う。
「私が押した時?」
「違う」
ドギョムは即答する。押し込んだものは奥へ沈む。外から持ち上げたものだけが、あの角度で浮く。
彼は格子から目を離さず、声をさらに低く落とす。
「誰かがもう、手をかけた」
その一言で、地下室の全員が同じ場所を見る。封筒ノートの写しは奥へ押し込んだ。だが断熱材に触れた手は、何を探したのか、何を残したのか。
ドギョムは初めて、格子ではなく床を見る。そこから外へ出る道と、外から入ってくる道を同時に測る目だった。
「朝まで待たない」
彼は言う。
「今から、隠したものを全部動かす」
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
90話 五時間前の同時包囲令
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