ラウクの笑いが、線路に溜まった雨水の上を薄く滑る。
ドギョムは廃鉱の方角に白く走った光を見たまま、半拍だけ動かない。肋骨の奥で痛みが遅れて膨らむ。肩の裂けた皮膚から血が落ち、雨の中へ薄くほどける。
選ぶ時間は終わった、とラウクは言った。
違う。
終わらせたのはラウクではない。あの声を聞かせた時点で、ラウク自身もここから動けない場所へ降りてきた。
ラウクが無線機を外套の内へしまった瞬間、ドギョムは線路の上を踏み込む。枕木が濡れた靴底の下で低く鳴る。ラウクは拳銃を失っても下がらない。右肩を少し落とし、左足を半歩引く。射撃の構えではない。素手で入ってくる男の構えだ。
距離が潰れる。
最初に当たったのはラウクの拳だった。大きく振らない。ドギョムの左肋骨の下、七号室の血が示した場所へ、湿った革手袋の拳が正確に刺さる。
息が切れる。
ラウクはその隙を逃さない。二発目も同じ場所へ来る。今度は折り畳んだ肘の先だ。骨の隙間へねじ込むような打ち方で、痛みが背中まで抜ける。
膝が折れかける。線路の水面が近づく。ラウクの声が、上から落ちる。
「弱い所を知れば、そこを押す」
ドギョムは倒れない。倒れかけた姿勢のまま、右足を横へ滑らせる。沈む動きだ。ラウクが次の一撃を打つため前足へ体重を乗せた瞬間、ドギョムの軍用ブーツがその脛の外側を横から払う。
鈍い音がする。
ラウクの均衡が崩れる。膝が内側へ折れ、上体だけが踏みとどまろうとして遅れる。ドギョムは左脇を抱えない。伸ばした左手でラウクの外套の裾をつかみ、逃げる方向を消す。
ラウクの背中が枕木の上へ落ちる。
雨水が跳ね、星形バッジが泥に半分沈む。ラウクはすぐ起き上がろうとする。右手が線路脇の砂利を探る。拳銃はもうない。だがその手はまだ、人を捕まえ、報告書に変える手だ。
ドギョムはその右手を踏まない。
つかむ。
親指の付け根を押さえ、手の甲を枕木へ固定する。ラウクが左拳で脇腹を打とうとする。ドギョムは肩で受ける。痛みより先に、人差し指を横へねじる。
骨が折れる音は、小さく鈍い。
雨の中へ落ちた枝のような音だった。
ラウクの口が開く。声はまだ出ない。ドギョムは中指を取る。ラウクが体を起こそうと腹筋に力を入れた瞬間、第二関節の上を逆へ押す。
今度は声が漏れる。
「ぐっ――」
それは悲鳴の手前だった。ラウクは歯を噛み、喉で押し殺そうとする。ドギョムは構わず薬指へ移る。濡れた革手袋ごと指をつかみ、手首を反らせて逃げ場をなくす。
三本目が折れる。
ラウクが初めて、はっきり悲鳴を漏らす。
鉄道駅の雨がその声を薄める。だが消えない。信号所の壊れた窓、錆びた貨車、縛られた部下二人の布の奥にまで届く。
ドギョムは小指に手をかける。
ラウクの左手が外套の内へ伸びる。予備の刃か、もう一つの無線か。ドギョムは小指を折るのと同時に、左足を振り下ろす。
外套の内から滑り出した無線機が、枕木の上で砕ける。プラスチックが割れ、スピーカーの網が潰れ、濡れた基板から火花がひとつだけ散る。
ラウクの次の悲鳴は、口から出る前に歯の間で潰れる。
ドギョムはラウクの右手首を持ち上げ、貨車脇に転がっていた古い坑木へ引きずる。ラウクは膝で蹴り返すが、右手の指はもう握れない。体を支える点が足りない。
ドギョムは確認役の男から奪った結束帯を二本つなぎ、信号所の中に残していた古い電線を巻く。ラウクの右手首を坑木へ固定し、左手も背中側へ回して別の坑木へ縛る。血の混じった雨が手袋の縁から流れ、折れた指は不自然な角度で震えている。
ラウクは泥水に頬をつけたまま、息を荒く吐く。それでも目だけはドギョムを追う。
「殺せば……簡単だ」
「生かしておく」
ドギョムは膝をつき、結束帯の余りを歯で引き絞る。
「二度と引き金を引けないようにな」
ラウクの顔から、雨ではない色が抜ける。痛みではない。自分の手が、もう紙も銃も同じ速さで扱えないと理解した顔だ。
ドギョムは立ち上がる。立った瞬間、左脇の痛みが腹の中で破裂するように広がり、膝が一度沈む。線路へ手をつきかける。だが倒れない。水の中へ沈んだ拳銃を見ず、砕いた無線機の破片を靴先でさらに押し潰す。
まだ終わっていない。
マローンの声は、ラウクの無線機からだけではない。鉄道駅用の予備線。確認役の男が持っていた短距離機。ラウクがここへ来たなら、通常網のほかにD-3へつながるもう一本を持っている。
ドギョムはラウクの外套を探る。ラウクが肩を揺らし、笑おうとする。
「遅い」
ドギョムは答えない。内ポケットの縫い目の奥、防水袋へ入った薄い受信機を見つける。折れた指では届かない場所だ。ラウクは最後の保険まで、自分の手が使える前提で置いていた。
ドギョムはそれを引き抜き、自分の受信機の側面端子へ短いコードでつなぐ。指先が震える。痛みだけではない。時間が足りない。ジョアンとアルマを乗せた車は、もうD-3へ入った。倉庫は予定を待たない。広場では証拠が流れている。学校屋上ではミゲルがまだ飛ばしているはずだ。
チャンネルを合わせる。
ノイズが割れる。雨、砂嵐、短い呼吸。何度か数字だけが跳ねる。三一、D-3、南、搬入。別の声が重なる。爆薬、倉庫、発電機。
ドギョムはつまみを少し戻す。
その瞬間、ヴィンス・マローンの声がまっすぐ落ちてくる。
「廃鉱へ移す。薬品倉庫は今すぐ爆破しろ」
ラウクの濡れた笑いが、枕木の上でかすれた。
「聞こえたな。お前が俺に使った時間だ」
ドギョムは受信機を握り込む。拳の内側でプラスチックが軋む。返事はしない。ラウクへも、マローンへも。
彼の視線が信号所の向こうへ上がる。
広場の方角の空は、雨雲の下で白く瞬いている。大型スクリーンの光か、警光か、それとも爆破の前触れかはまだわからない。だが次のノイズの奥で、別の男が短く告げる。
「倉庫班、起爆準備完了」
ドギョムは痛む肋骨を片手で押さえ、廃鉱へ向かう線路の闇を見る。彼が動き出すより先に、広場の向こうの空が、今度は赤く滲み始めた。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
99話 ドローンが暴いた逃走路
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