道允は端末を外す前に、監査官の顔を見る。
女の表情には勝ち負けがない。最初から結果だけが決まっている手続きの顔だ。彼が抵抗すれば、押収対象は広がる。世羅が庇えば、分析官権限まで即座に切られる。だから道允は袖口を押さえ、個人端末のロックを自分の指で解除する。
「提出します」
声は乾いているが、震えはない。女監査官が透明な証拠袋を開く。道允は端末を滑り込ませる寸前、側面の状態灯を一瞥する。初期化信号は走っている。隔離領域はもう死んだ。だが彼の頭に残っているのは端末ではない。
第五特殊執行室の記憶椅子本体。
事故時、主系統から切り離された一時キャッシュは、装置規定上七十二時間だけ椅子の内部補助コアに残る。神経崩壊事故の再現検証用で、通常は監査開始と同時に封印される。だが監査チームが押さえるのは端末と執行卓が先だ。椅子本体の廃棄予定部品までは、まだ意識が届いていない可能性がある。
「白執行官。私物端末はほかに」
「ありません」
「神経記憶片の外部媒体化は」
「していません」
嘘ではない。外部媒体化は、していない。消されたのだから。
女監査官は世羅へ視線を移す。「閔分析官、あなたもこの場に残ってください。昨夜の事故ログについて確認があります」
世羅の肩がわずかに強張る。道允は彼女を見ないまま、机上の紙資料を整えるふりをして、指先で一枚の付箋を裏返す。そこに何かを書く余裕はない。だが世羅はその動作だけで、彼がまだ何かを考えていると悟る。
「監査官」
世羅が、いつもより少し高い声を出す。
「私の分析席のログも押収対象に含まれますか。含まれるなら、今ここで封印手順を確認したほうがいいと思います。事故当時、私の権限で遅延保存した補助層がありますから」
女監査官の目が細くなる。「補助層?」
「外部感情ノイズ疑いです。手順上、分析官席と執行卓の両方に参照痕跡が残ります。片方だけ押さえると、保全形式に異議が出ます」
世羅は怯えた職員の顔を作っていた。だがその目だけは、道允へ一瞬だけ向く。行ってください。声には出さないが、そう読める。
「詳しく説明してください」
女監査官が一歩、世羅のほうへ向く。黒い監査服の男たちも彼女の端末へ視線を落とす。その隙に、道允は証拠袋に入れた端末から手を離し、自然な足取りで扉へ向かった。
「どこへ」
背後の男が言う。
「保安調査の待機室へ移動します。指示があるまで一般職員動線で待機、でいいですね」
男は女監査官を見る。女は世羅の表示した補助層一覧から目を離さず、短くうなずく。
「廊下で待機してください」
「承知しました」
道允は廊下へ出る。扉が閉まるまで歩幅を変えない。監視カメラの下を通るたび、正面を見て歩く。焦りは記録に残る。迷いも残る。彼は角を曲がり、一般職員用の倉庫区画へ向かう清掃用通路に入ったところで、初めて呼吸を深くした。
時間は少ない。
第五特殊執行室は封鎖中。正面からは入れない。だが記憶椅子は事故後、冷却系と神経端子の一部を交換するため、隣接する機材室へ作業台ごと移されているはずだ。そこは執行区画ではなく保守区画に分類される。道允の停止された権限でも、一般職員動線から搬入口までは行ける。
問題は、見つかる前に終わらせられるかどうかだった。
保守区画の空気は、執行室より乾いている。壁には廃棄予定の神経端子、古い記憶束読取器、割れた透明シールドが積まれていた。機材室の扉は半開きで、赤い保全封印が貼られている。封印は入室禁止ではなく、作業変更記録を残すためのものだ。道允は隣の資材棚から手袋と廃材箱を取ると、清掃業者の動きに見える角度で扉を押す。
室内は暗い。照明の半分が落とされ、中央の作業台に記憶椅子の背面ユニットだけが横たわっている。かつて姜武鎮を縛りつけた拘束帯は外され、神経接続部は灰色の養生布で覆われていた。血の匂いはもうない。代わりに、焦げた樹脂と冷却液の甘い臭いが残る。
道允は扉を閉めきらない。完全に閉じれば、逆に怪しい。細く隙間を残し、作業台の下へ膝をつく。
『補助コア位置、背面下部。事故検証用一時保存、七十二時間』
訓練課程で覚えた装置構造を頭の中でなぞる。事故からまだ一日も経っていない。監査が遠隔消去をかけても、本体キャッシュは物理接続なしでは完全に潰せない。だから彼らは端末を先に奪った。
道允は養生布をめくり、背面下部の小さな装甲蓋を探る。固定ねじの一つは熱で歪んでいた。工具箱から合うビットを選び、音を立てないようにゆっくり回す。三つ目のねじが外れた瞬間、廊下の遠くで人の声がする。
彼は手を止める。
足音は近づかない。世羅がまだ引きつけている。道允は歪んだ蓋を指でこじ開ける。中には焼けた配線と、黒い爪ほどのバックアップコアが二つ並んでいた。一つはすでに端子が溶けている。もう一つは、状態灯が消えかけの緑で瞬いている。
「生きている」
声に出したのは失敗だった。彼はすぐ唇を閉じる。
コアを抜くには、正式な保守端末が必要だ。だがここにあるのは廃棄予定の神経読取器と、古い検査用端末だけだった。道允は廃材箱を探り、規格の合いそうな変換ケーブルを引き抜く。被覆は割れ、端子は曲がっている。それでも接続できる可能性はある。
指先が汗で滑る。彼は手袋を外し、素手でコアの固定爪を押す。熱がまだ残っていて皮膚を刺す。焦げた匂いが強くなる。固定爪の片方が折れ、コアが斜めに浮く。
廊下で、通信端末の短い警告音が鳴った。
『白道允、待機位置を確認できません』
館内放送ではない。保安調査室から個別に飛ばした呼び出しだ。時間切れが近い。
道允はコアを引き抜き、古い検査端末へ差し込む。端末はしばらく無反応だった。次に、画面全体が砂嵐のように白くざらつく。
『未認証媒体。破損キャッシュを検出』
『復旧率、二十一パーセント』
十分だ。
道允は再生を押す。
最初に現れたのは、黒い線と白い斑点だけだった。音も途切れ途切れで、水滴のようなノイズが混じる。やがて画面の奥に、古い倉庫の床が浮かび上がる。コンクリートは湿り、隅に錆びた工具が散らばっている。視点は低い。十歳の道允の目線だ。
画面の端を、何か小さなものが転がった。
靴だった。
子ども用の小さな靴。色はノイズで潰れ、黄色にも灰色にも見える。片方だけが床を滑り、鉄扉のほうへ転がって止まる。道允の胸がきつく締まる。李志厚の記録にあった、現物未確認の片方の靴。その欠落と、いま目の前の倉庫の靴が、理屈より早く同じ場所へ重なろうとする。
映像が乱れる。次の瞬間、幼い道允の手が映る。小さな拳を握りしめ、爪が掌に食い込んでいる。恐怖で震えているのに、後ろへ下がらない。誰かを庇うように、身体を斜めにしている。背中の向こうは黒い欠損で塗り潰され、形だけが読めない。
『……後ろへ』
ノイズの奥で、低い声がする。
道允は画面に顔を近づける。声は姜武鎮ではない。韓泰錫の声にも聞こえない。もっと乾いた、命令に慣れた大人の声だった。
『原本候補を分けろ。男児は処理後に返す。もう一体は残す』
心臓が一拍、遅れる。
エラーではない。幻覚でもない。誰かが十歳の道允をそこに置き、何かを選別し、彼の過去を切り取った。その欠片は、李志厚の恐怖記憶と姜武鎮の脳を経由して、国家システムの奥深くに隠されていた。
画面の下に、さらに破損した識別列が浮かぶ。
『参照分類……原本候補……DY-10……補助対象、未表示』
道允は息を止める。自分の職番ではない。だが、DYという二文字と十という数字は、背骨を冷たくなぞる。十歳の白道允。切り取られたあの日の識別名。
彼はコアを抜こうとする。ここで止めなければならない。証拠は確保した。これ以上見れば、監査に捕まる前に自分の神経が先に崩れる。
そのとき、機材室の外で足音が止まった。
一人ではない。だが、前に立つ足音だけが妙に重く、革靴の踵が床を鈍く叩く。扉の隙間から廊下の光が細く伸び、道允の手元のコアを照らした。
低く、湿った声が闇へ落ちる。
「白執行官。コアを渡したまえ」
韓泰錫だった。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
11話 偽装された死の草案ファイル
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