赤い通知は、地下移送通路を出ても消えない。
『証言能力評価を開始します』
道允はその一行を閉じようとするが、端末は受け付けない。評価対象者による通知棄却権限はない、と乾いた文字が返るだけだ。監視レンズの青い光は背後でまだ瞬き、姜武鎮を乗せた黒い車両の残響だけが通路の奥に残っている。
そのまま夜が明ける。
翌朝、ソウル中央記憶矯正庁の正門ゲートは、いつもより明るく見える。照明が強いのではない。職員の顔がみな硬く、誰も無駄話をしないため、白い床と硝子壁だけがやけに浮いて見える。
道允は身分証を認証台に置く。いつもの短い電子音が鳴らない。認証板の青い輪が二度点滅し、黄色に変わる。
『白道允。執行官身分、確認』
『記憶装備接続権限、一時停止』
『事故関連対象者閲覧権限、停止』
『原本検証室入室権限、停止』
『特殊執行室操作権限、停止』
行が増えるたび、背後の列が静かになる。警備員が端末をのぞき込み、道允の顔を見る。昨日まで彼がこの建物の奥で他人の記憶を開いていたことなど、最初からなかったような目だ。
「通れますか」
道允が聞くと、警備員は一拍遅れてうなずく。
「一般職員動線のみです。執行区画には、同行承認が必要です」
「誰の承認です」
「現在、保安監査室です」
韓泰錫ではない。だが韓泰錫の影が、その名の後ろに見える。道允は身分証を取り戻し、ゲートを抜ける。背中に残る視線を振り払うように、歩幅を崩さない。
執行室へ向かう廊下で、世羅が曲がり角から現れる。分析官用の白衣を肩に掛けたまま、髪は低く束ねている。いつもの軽口はない。彼女は道允とすれ違うふりをし、紙コップを持つ手で口元を隠す。
「白執行官、止まらないで聞いてください」
声はほとんど息だ。
「昨夜の地下三階移送記録、全部消えました。車両入構、カプセル搬出、民間研究所タグ、何も残ってません」
道允は正面だけを見る。
「監視映像は」
「午前三時十二分から十七分まで停電。復旧報告はあります。でも庁舎電力ログは落ちてません。移送通路のカメラだけ、都合よく死んでます」
歩く足が重くなる。姜武鎮の濁った目、音にならなかった『見つけろ』、もう一人の子ども。そのすべてが、記録上は存在しない出来事にされていく。
「姜武鎮の所在は」
「次長級以上。しかも対象者名検索が弾かれます。番号で引いても、空の保護ケースに置き換わる。やり方が普通じゃありません」
世羅はそこで一度、唇を噛む。
「白執行官の接触記録だけは残っています。制限証人への不適切接触、神経刺激誘発の疑い。そういう見出しで」
道允はようやく彼女を見る。世羅の目は笑っていない。恐怖より先に、腹を立てている目だった。
「俺が刺激したことになっているのか」
「はい。姜武鎮が何を言ったかは消して、白執行官が近づいた事実だけ残してます」
巧妙だった。証言は消す。接触は残す。道允が話せば、記録されていない発言を持ち出した汚染執行官になる。黙れば、もう一人の子どもも、七・四秒も、倉庫も消える。
「韓次長に会う」
「会えません」
世羅の返事は早い。
「朝一番で外部日程に切り替わりました。国会司法技術委員会の非公開説明だそうです。戻りは未定。執務室への面談申請も、保安監査室で自動却下されています」
「昨日の事故直後に外部日程か」
「偶然にしては手際がよすぎます」
世羅は紙コップをゴミ箱へ落とす。その音が廊下に乾いて響く。
「私の端末も監査対象に入りました。今はまだ分析官権限の一部が生きてますけど、長くないです。白執行官、何か残しているなら、庁内の端末で開かないでください」
道允は返事をしない。残していた七・四秒は消された。だが完全に何もないわけではない。自分の目で見た倉庫。姜武鎮の言葉。十歳の背中にしがみついていたはずの小さな指。その感覚だけは、まだ誰にも削除されていない。
第五特殊執行室の前に着くと、扉の表示が見慣れない灰色に変わっている。
『事故後保全中。入室には監査同行が必要です』
昨日まで彼が操作していた執行卓も、姜武鎮の血が乾いた記憶椅子も、この扉の向こうで封じられている。道允は認証板へ指をかざす。赤い拒否音が鳴る。
『権限不足』
短い四文字が、胸の奥に冷たく刺さる。
彼は扉の前で立ち尽くさない。そうすれば監視映像に弱さとして残る。踵を返し、一般職員用の執行準備室へ入る。そこなら、まだ入れる。狭い卓上端末に座り、外部記録照会を開く。
姜武鎮。検索不能。
制限証人保護前処理。該当なし。
民間神経処理研究所。登録機関多数、昨夜入構履歴なし。
移送通路停電。定期保守処理済み。
同じ壁に、別々の塗料を重ねるような隠蔽だった。どこか一つを消すのではなく、周辺の事実をすべて別の説明で固めている。七・四秒の混入、削除された複製、姜武鎮の不気味な証言、そして今朝の権限停止。散っていた欠片が、ようやく一つの形を取り始める。
これは事故隠しではない。
事故が起きる前から用意されていた、巨大な手順だ。
端末の片隅で、私用通信の通知が光る。父、白昌浩からだった。
道允は指を止める。今開くべきではない。そう思うのに、通知の文面は勝手に一行だけ表示される。
『今日、矯正記念日だろう。時間があれば夕食でもどうだ。母さんも喜ぶ』
穏やかな文章だった。父らしい、抑えた気遣い。矯正を受ける前の白昌浩なら、朝から酒の匂いをさせ、家の中の空気を踏み荒らしていた。矯正後の父は違う。怒鳴らず、殴らず、約束の時間を守り、記念日を忘れない。
道允はその変化を、制度を信じる最後の根拠にしてきた。
だが今、画面の穏やかな文字さえ、誰かが丁寧に張った薄い幕のように見える。父は本当に変わったのか。それとも、何かを抜かれ、何かを入れられ、別の形に整えられただけなのか。
『記憶は人を救うこともある』
韓泰錫の声が脳裏に戻る。
救ったのは誰だ。救われたように見える人間の外側で、誰かが代わりに壊れていたのではないか。姜武鎮が「俺のじゃない」と言った声が、父の穏やかな誘いに重なる。
道允は返信を書かない。通知だけを閉じる。指先がわずかに震えていた。
「白執行官」
世羅が入り口で小さく呼ぶ。彼女の顔色が変わっている。
「監査室が動きました」
言い終える前に、廊下の空気が重くなる。規則正しい足音が近づいてくる。保安要員の慌ただしい走りではない。書類上の正当性を背負った者たちの、ためらいのない足音だった。
執行準備室の扉が開く。
黒い監査服の男たちが三人、無言で入ってくる。先頭の女だけが透明な令状板を掲げる。内部監査チーム。胸の標章には、保安調査局の銀色の線が入っている。
「白道允執行官」
女の声は平坦だった。
「姜武鎮対象者との非承認接触、事故関連記録の私的保全疑い、および証言能力評価手続きに伴う保安調査を開始します」
世羅が何か言おうとしたが、後ろの男が視線だけで制する。道允は椅子からゆっくり立つ。
「弁明機会は」
「後続手続きで付与されます」
「調査対象は」
女は令状板を一段下げる。そこに表示された押収対象の一覧を見て、道允の喉が乾く。
『個人端末』
『隔離保存領域』
『事故当時の生体反応ログ』
『未申告神経記憶片』
最後の項目だけ、明らかに広すぎる。端末ではない。彼の頭の中に残ったものまで、調べる名目を作っている。
女は手を差し出す。
「端末を提出してください。今この場で」
道允の袖の内側で、個人端末が一度だけ震える。通知音は鳴らない。画面も見えない。だが彼にはわかる。
遠隔から端末のアクセス権が完全に剥奪され、初期化の信号が送られてきたのだ。彼に残された道は、ここで素直に従うふりをし、まだ奴らが気づいていない別の記録を探すことだけだった。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
10話 記憶椅子の残響キャッシュ
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