候補者欄に並ぶ文字列を、道允はすぐには読めなかった。
画面の灰色タグは『容器適合試験』。その右に、姜武鎮とは別の番号が十数行続き、最後の空欄に薄く点滅するコードがある。DY-10。第五特殊執行室の破損映像で見た識別列と同じだった。
「これは、俺の職員番号じゃない」
「ええ。職員番号ではありません。古い候補者コードです」
海凛は紙ファイルをさらに開く。机の上に、印刷された表が扇のように広がった。年代、事件番号、矯正対象者、反応値、再利用疑いの層。赤い線と青い線が縦横に走り、いくつもの名前を一つの中心へ引き寄せている。
地下閲覧室の空調音が、やけに近く聞こえる。
「十年前から追っていると言いましたね」
海凛の指が、最も古い欄を叩く。
「始まりは兄です。尹泰謙(ユン・テギョム)。当時、二十七歳。傷害致死の共犯として長期矯正を受けました。本人は車の運転手で、実行犯ではなかった。でも矯正後、兄は母の顔を見ても誰かわからなくなった。私の名前も、家の場所も、箸の持ち方も」
道允は何も言わない。彼女の声は乱れていない。乱れないように、何年も同じ説明を繰り返してきた声だった。
「病院は副作用だと言いました。矯正庁は、強い被害者記憶に接触した結果の一時的失認だと。けれど脳反応を取り寄せると、兄の中に、事件とは関係のない死刑囚の恐怖反応が混ざっていました。しかも一度ではない。別の矯正記録にも、同じ反応が出ていた」
海凛は一枚の透明シートを表の上に重ねる。すると離れて見えた線が重なり、同じ波形の山だけが黒く浮いた。
「脳は指紋より嘘をつかない、というのが庁の決まり文句です。でも本当に嘘をつかないなら、同じ恐怖が別々の犯罪者から何度も出てくるはずがない」
道允は袖口から透明ケースを取り出し、机の中央へ押し出す。内側素子は小さすぎて、これだけで姜武鎮の死も、志厚の記憶も、自分の空白も支えられるようには見えない。
「これを開けば、俺は終わります」
「庁内資料の無断持ち出し。公務上秘密漏洩。事故装備の破損部品窃取。向こうは全部乗せてきます」
海凛は即座に答える。
「でも今開かなければ、証言能力評価が先に確定します。あなたは汚染された執行官として扱われ、姜武鎮は自殺した凶悪犯で終わる。彼の中に何が入れられたか、誰も確認できなくなる」
道允は姜武鎮の濁った目を思い出す。移送カプセルの蓋が閉じる直前、声にならない唇が『見つけろ』と動いた。存在しない独房で死んだことにされた男。倉庫にはもう一人の子どもがいたと告げた男。
「弁護士として聞いているんですか」
「今は、証拠保全を申し立てる者として聞いています。弁護士としてなら、あなたを守るために今すぐ帰らせる選択肢もあります。でも証拠保全をするなら、あなたの危険まで含めて、記録として固定します」
海凛は机の端の隔離端末を起動する。裁判所鑑定サーバーの紋章が白く浮かび、地下閲覧室の扉のロックが内側から二重に閉じた。
「ここから先は、私にも戻せません」
道允はケースの蓋を開ける。薄い素子を端末の読取溝へ差し込むと、画面に赤い警告が三つ並ぶ。
『庁外未登録媒体』
『司法鑑定隔離モードでのみ閲覧可』
『原本破損率、七十八パーセント』
海凛が手早く操作し、読み取り範囲を絞る。
「全体を復旧しようとはしません。七・四秒だけを切り出します。あなたが見た区間、署名照合値、不明第三層、承認経路。それだけでいい」
「それだけで足りますか」
「足りません。でも裁判所にサーバー隔離複製を認めさせるには足ります。最初は、消されない場所に置くことです」
端末が素子を読み始める。砂嵐のような波形が画面を覆い、音のない倉庫が一瞬だけ像を結んだ。湿った床。片方だけの小さな靴。十歳の自分の肩。背後を塗りつぶす黒い欠損。
道允の喉が狭くなる。映像はすぐに崩れ、数字の列へ変わった。
『未承認感覚同期、七・四秒』
『接続対象、姜武鎮』
『臨時参照、白道允』
『第三層、未分類』
『承認補助、生体署名照合値九十九・九九一』
海凛は息を吸う時間すら惜しむように、申請フォームへ文章を打ち込む。
「事件名、姜武鎮特殊矯正執行事故関連証拠保全。申請趣旨、記憶矯正庁保有記録の遠隔改変および削除のおそれ。保全対象、第五特殊執行室補助コア由来の七・四秒同期区間」
「姜武鎮の死亡草案も入れてください」
「入れます。存在しない独房番号も。あなたの制限証人分類票も」
海凛の指は止まらない。紙の表から番号を拾い、電子申請へつなぐ。その横顔は硬い。兄の名前を出したときだけ見えた揺れは、もう奥へ押し込まれている。
道允は端末の進行率を見る。二十三、四十六、六十八。数字が上がるたび、庁の廊下が遠ざかる。戻れば手錠が待っている。だが戻らなくても、韓泰錫が手を伸ばしてくるのは時間の問題だ。
「追跡は」
「媒体読取に入った瞬間、庁の監査網へ反応が飛ぶ設計のはずです」
「遮断できますか」
「通常なら無理です。だから裁判所サーバーへ入れます。いったん鑑定対象として受理されれば、庁の内部監査タグは司法保全タグに置き換わる。少なくとも、この七・四秒については、庁はあなたを追う根拠を失います」
完了音が鳴る。画面に『隔離複製完了』の文字が出た。続いて海凛が申請送信を押す。
『証拠保全申請、受付』
『鑑定サーバー隔離番号、C-FM-11902』
一秒遅れて、端末の周囲に走っていた赤い追跡枠が消えた。見えない手が道允の首から外れたように、ほんのわずかに息をつく。
だが海凛は安堵しない。彼女はすぐに追跡表を閉じ、隔離番号の下へ自分の代理人署名を重ねる。
「これで庁は、この媒体を単純な窃取物として回収できません。回収するには裁判所へ理由を出さなければならない」
「理由なら作るでしょう」
「作らせます。作った文書が、次の証拠になる」
その言い方に、道允は初めて、海凛が十年生き延びた理由を少しだけ理解する。彼女は逃げてきたのではない。敵が踏む床を、少しずつ証拠に変えてきたのだ。
そのとき、隔離端末が短く震えた。
海凛の指が止まる。申請受付後の自動検査が走っている。通常なら、形式確認だけで終わるはずの画面に、黄色い警告帯が広がった。
『既存鑑定記録との脳波パターン一致を検出』
道允は画面へ身を乗り出す。
「姜武鎮の記録ですか」
「違う」
海凛の声が、初めて低くかすれた。警告帯の下に、六つの事件番号が縦に並ぶ。殺人、集団放火、未成年者誘拐、薬物致死。事件名も時期も違う。対象者名も違う。
だが一致区間は同じだった。
『一致対象、姜武鎮脳波パターン断片』
『同一断片検出数、六』
『分類、重犯罪者矯正記録』
海凛がゆっくりと、兄の追跡表へ視線を落とす。道允も見る。六つの事件番号のうち二つは、彼女が赤線で囲んでいた欄と重なっていた。
姜武鎮は一人の容器ではなかった。
彼の脳に入れられていたものは、すでに六人の別の重犯罪者の記録に使われていた。しかも裁判所サーバーは、それを今、この瞬間に公式警告として認識した。
画面の最下段で、新しい文字が点滅する。
『追加照合を開始しますか』
その問いの下に、対象候補としてもう一つの識別列が浮かんだ。
DY-10。
海凛が道允を見る。道允は、画面から目を離せない。自分が次の容器候補なのではない。すでに、何かの比較対象として登録されている。
「押してください」
道允の声は、自分でも驚くほど静かだった。
海凛が追加照合のキーに指を置いた瞬間、地下閲覧室の扉の外で、保安ロックが一つずつ解除される音がした。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
14話 二足の小さな靴が示す影
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