赤い保安灯が点いた瞬間、李成勲の肩がびくりと跳ねる。朴美妍は画用紙を胸へ引き戻しかけたが、海凛が片手を上げて制した。
「まだ裁判所側の灯です。騒げば、外に理由を与えます」
彼女は壁面カメラと端末の記録状態を確認し、録画を開始する。赤い光の下で、机の上の画用紙だけが不自然に白い。割れた高窓。錆びた鉄扉。水たまりのような青い線。そして二足の小さな靴。
道允は灰色の運動靴から目を離せない。第五特殊執行室の破損映像で、十歳の自分の背後だけが黒く塗りつぶされていた。その欠損座標と、志厚の拙い線がぴたりと重なる。偶然ではない。自分の足元ではなく、その半歩後ろ。誰かを庇う位置だ。
指先が強張る。冷たい床の感触が、皮膚の奥から戻ってくる。水滴の音。鉄扉の擦過音。唇だけで『逃げて』と動く幼い自分。その背中の陰にいたはずの子ども。
「白さん。顔に出さないで」
海凛の低い声に、道允は短く息を吸った。裁判所サーバーの表示は消えない。
『補助対象、未成年女児の可能性』
美妍がその文字を読めたのかはわからない。ただ、彼女は震える声で言った。
「志厚は、女の子とは言いませんでした。ただ、小さい子がいるって。怖がっているって。自分より先に泣いているのに、声が出ないって」
成勲が唇を噛む。袖口を握る指が白くなる。
「その話をしたのは、検査のあとです」
海凛は録画枠を広げる。
「検査について最初から話してください。日時、場所、担当者名、検査名。わかる範囲で構いません」
「失踪の六日前でした。恩平区の記憶矯正庁相談センターです。小児神経科から紹介コードをもらいました。外部感情ノイズの疑いがあるから、子ども用の記憶安定検査を受ければ落ち着くと」
「予約は誰が」
「私です。民願端末で取りました。担当者名は出ませんでした。ただ、受付の人が、上位相談枠に切り替わったから早く見られると言っていました」
上位相談枠。七歳の子どもの不安検査に使う区分ではない。道允はその言葉を胸の内で固定した。
「検査室には同行できましたか」
「最初だけです。志厚の手首に小さなパッチを貼って、保護者は外で待つように言われました。二十分くらいで終わると言われたのに、五十分近くかかりました」
美妍が続ける。
「出てきた志厚は、泣いていませんでした。ぼうっとして、私が呼んでも少し遅れて返事をしました。検査の人は、安定化は成功した、二、三日は眠くなるかもしれないと」
「顔は覚えていますか」
「白いマスクをしていました。名札も透明なカバーで見えませんでした。でも普通の相談員ではなかったと思います。受付の人たちが、その人にだけ深く頭を下げていました」
匿名担当、上位相談枠、保護者分離、五十分の記憶安定検査。子どもの不安を取り除く検査ではない。何かを照合し、何かを入れ、反応を見るには十分な時間だった。
「検査後、二日だけ静かになったんですね」
「はい。私たちは治ったと思いました。でも三日目の朝、食卓で急に手を見つめて……この手が悪いことをしたのかって聞きました。自分は何もしていないのに、誰かに謝らないといけない気がするって」
美妍の声が詰まる。それでも彼女は崩れない。
「夕方には、靴が濡れて冷たい、床にもう一つ靴があるって言いました。そのあと、この絵を描いたんです。捨てようとしたら泣いて止めました。ここに、もう一人いるからって」
志厚は倉庫を見ただけではない。倉庫に残された誰かの感覚を、そのまま上書きされていたのだ。
成勲がうつむいたまま言う。
「私たちは、もっと強く庁に詰め寄るべきでした。でも専門家が大丈夫だと言うならと……その三日後に、志厚は消えました」
海凛は録画を裁判所サーバーへ固定し、司法保全タグを付ける。
「今の供述は任意提出映像として保全します。撤回する場合も、撤回の意思そのものを後から記録できます。誰かに消されることはありません」
美妍が小さく息を漏らした。安堵ではない。ようやく息をしてもいいと許された人間の音に近かった。
道允は端末を引き寄せる。
「相談センターの予約ログを照会します。紹介コードはありますか」
成勲が携帯を差し出す。画面には相談センターの自動通知が残っている。予約番号、日時、支部名、保護者認証。道允は裁判所の隔離端末から庁の公開網へ接続し、民願記録照会欄へ番号を入力した。
海凛が横から言う。
「庁内権限は使わないで。公開記録だけで」
「わかっています」
最初の画面は開いた。志厚の氏名、保護者名、予約時刻。だが検査担当者の欄へ進んだ瞬間、画面が灰色に凍った。
『照会不可』
『対象記録は記憶矯正庁内部保安区分へ移管済み』
『申請者、白道允。現行権限停止中』
続けて赤い警告が重なる。
『内部資料への非認可接続試行として記録されました』
道允はキーから指を離す。裁判所端末で公開予約ログを見ただけで、庁の権限停止に引っかかった。志厚の検査記録は、通常の相談記録ではない。自分を監視する同じ網の内側にある。
海凛は遮断画面も録画保存する。
「これも証拠になります。彼らが何を隠したかではなく、隠す対象として分類した事実を残す」
道允はうなずく。だが視線は警告から離れない。志厚の予約ログに、自分の停止権限が反応した。DY-10。未成年女児の補助対象。七歳の相談記録。別々だった点が、冷たい線になってつながる。
そのとき、閉じていたはずの内部メッセンジャーが端末の右下で瞬いた。
凍結アカウント。差出人は、閔世羅。
道允が海凛を見る。海凛は録画中の表示を確認し、小さくうなずいた。
「開いて。画面ごと記録します」
メッセージは一行だけだった。
『志厚検査担当、相談センター所属ではありません。韓泰錫直属、研究支援三チーム。予約ログは後から相談枠へ偽装されています』
道允の血が冷える。韓泰錫。第五特殊執行室の事故を封じ、姜武鎮を非公開移送し、道允の権限を切った男。その直属チームが、志厚の失踪前に七歳の子どもを検査していた。
成勲が画面を見て、声にならない息を吐く。
「それは……庁の人間が、志厚に」
「断定はまだです」
道允の声は低くなる。
「でも、相談センターの通常検査ではありません」
彼は返信欄を開く。
『世羅さん、今どこにいる。研究支援三チームの名簿を送れるか』
そこまで入力したところで、世羅の表示名が灰色に変わった。
『閔世羅:保安面談中』
道允の指が止まる。懲戒待機室の白い壁と、世羅が渡した廃矯正チップの感触がよみがえる。彼女は一度、危険を承知で彼を外へ出した。今度は、その危険が彼女自身に向いている。
返信欄が勝手に閉じる。代わりに、ファイルが一つ届いた。
『VOICE_SERA_0516.tmp』
海凛が即座に言う。
「再生前に隔離複製」
「時間がない」
道允は複製処理を走らせながら、再生を押す。最初に流れたのは、荒い呼吸だった。近すぎる。端末を口元に隠して録ったような、布にこすれる音が混じっている。
次に、世羅の声が聞こえた。
「白執行官……これを聞いているなら、返信しないでください」
震えている。いつもの軽口も、分析官らしい冷静さもない。背後で、低い換気音のようなものが途切れず鳴っていた。
「私を捜さないでください。絶対に。ここへ来たら、あなたの記録まで開かれます。志厚君の検査は、相談じゃありません。あれは……」
音声が乱れる。遠くで金属が鳴り、靴音が近づく。
世羅は息を呑み、囁きだけで続けた。
「白執行官、あなたも次です」
録音はそこで切れなかった。最後の一秒、世羅の震える息の向こうで、硬い固定具が閉じる音がした。道允が記憶椅子でしか聞いたことのない、あの音だった。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
16話 地下隔離棟に響く悲鳴
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