硬い固定具が閉じる音を聞いた瞬間、道允の背筋は冷たく固まる。
再生バーは最後まで進み、音声ファイルは静止する。閲覧室には赤い保安灯の低い明滅だけが残る。李成勲は何が起きたのかわからない顔で道允を見る。朴美妍は志厚の絵を抱きしめたまま、唇を結んでいる。
海凛が先に動く。
「もう一度。今度は背景音だけを抜いてください」
道允は返事をせず、裁判所隔離端末の音響分離欄を開く。個人端末なら一瞬で済む処理が、公開民願回線を経由した隔離環境では重い。だが音声はすでに司法保全タグへ入っている。庁が消そうとしても、削除の痕跡ごと残る。
世羅の囁きが波形へ分解される。荒い呼吸、布擦れ、靴音、金属音。道允はそれらを順に落としていく。最後に残ったのは、耳ではほとんど意識できないほど低い唸りだった。
「換気音ですか」
海凛が画面をのぞく。
「普通の空調じゃない」
道允は周波数を拡大する。二十八ヘルツ付近に、わずかに揺れる山がある。一定ではない。三秒ごとに沈み、五秒ごとに戻る。記憶矯正庁の地下施設で使う陰圧換気の癖だ。感染隔離用ではなく、神経ガスと揮発性安定剤を外へ漏らさないためのもの。
「地下隔離棟」
道允の声が低く落ちる。
海凛の目が細くなる。
「本庁ですか」
「ソウル中央の地下二階から三階にかけて。同じ音を聞いたことがあります。強制スキャン対象者を一時的に置く区画です。執行官でも申請なしには入れない」
世羅の最後の言葉が、音のない部屋で再び立ち上がる。
『白執行官、あなたも次です』
道允は画面を閉じかけ、ふと固定具の音だけを切り出す。記憶椅子の拘束リングが閉じる音に似ている。似ているだけではない。第五特殊執行室の椅子より軽く、民間検査用より重い。隔離棟の短時間抽出椅子だ。
海凛は成勲と美妍へ向き直る。
「お二人はここで待ってください。今から先は、庁の中の手続きになります。連絡が来ても、単独では応じないでください」
美妍が震える声で聞く。
「志厚の記録は、見つかりますか」
道允はすぐに答えられない。だが嘘を置く余地もない。
「見つけます。消されたなら、消した跡を」
成勲が深く頭を下げる。感謝ではなく、縋るしかない人間の沈黙だった。
閲覧室を出ると、海凛は歩きながら通話用の小型端末を取り出す。
「本庁ロビーへ行きます」
「俺の身分証は止まっています」
「だから私が入るんです。制限証人の弁護人予定者として、接見権を行使します。あなたは依頼人本人。庁が拒否するなら、拒否理由を書面化させます」
「世羅さんは職員です。接見対象ではない」
「でも彼女はあなたへ証拠音声を送った証人です。拘束、隔離、面談中表示、強制的な記憶処理の疑い。十分に保全申請の対象になります」
海凛の声は速くならない。怒りを法的な文に変換していくような冷たさがある。
「目的は二つ。世羅さんの現在座標を出させること。もう一つは、志厚君の相談センター検査記録を、受付端末の公開キャッシュから引き出すことです」
「本庁ロビーの民願端末ですか」
「公開窓口なら庁内装備扱いではありません。あなたの記憶装備権限が止まっていても、民願検索は市民と同じ権限で触れる」
「監視はあります」
「あるから使います。彼らが何を止めるか、全部記録する」
道允は短くうなずく。海凛の方法は、扉を破るものではない。相手に扉を閉めさせ、その手の形を記録する方法だ。今の彼に残された数少ない武器だった。
ソウル中央記憶矯正庁のロビーは、昼前の光を受けても冷たい。巨大な壁面には更生率、再犯低下率、感情安定化支援件数が青い数字で流れている。入口の認証ゲートで道允の身分証が赤く弾かれる。
『現行権限停止中』
『記憶装備接続、内部端末、執行関連区域、全停止』
警備員が近づく前に、海凛が弁護士証と接見申請書を提示する。
「尹海凛。制限証人白道允氏の弁護人予定者として、証言能力保全に関する接見と、証人保全申請の受付を求めます。拒否する場合は、担当者名と根拠条項を書面で」
警備員は言葉を詰まらせる。ロビーの奥、管理者用ゲートが静かに開く。
現れたのは韓泰錫だった。
灰色のスーツに皺はない。疲れも焦りも表に出さず、手には薄い黒いファイルを持っている。道允を見ても、驚いた様子はない。待っていたのだ。
「白執行官。いや、現在は執行官権限停止中だったな」
道允は黙って見る。
韓はファイルから一枚の命令書を抜き、二人の前へ差し出す。
「白道允に対する追加措置だ。記憶装備、民願検索端末、相談記録閲覧端末、証言能力評価関連サーバー、すべてへの接続を一時遮断する。本人の精神汚染可能性を考慮した保全措置だ」
海凛が命令書を受け取らず、表面だけを読む。
「発令時刻が三分前ですね。私たちがロビーに入った後」
「必要に応じて出すのが行政命令だ」
「必要性を作ったのは、そちらです。閔世羅分析官はどこですか」
韓の目が一瞬だけ動く。
「職員の勤務状況を外部人に答える義務はない」
「では、不当手続き保全申請を提出します。証人に対する隔離、職員保安面談を装った記憶処理、ならびに白道允氏の接見権妨害。受付番号を今ここで出してください」
海凛は紙の申請書を出す。電子ではない。朱色の付箋が条項ごとに貼られ、裁判所受付印の写しも付いている。韓の背後にいた職員が反射的に受け取りかけ、韓が視線だけで止める。
「尹弁護士。庁内で騒ぎを作るつもりなら」
「騒ぎではありません。提出です。行政機関は受領拒否の理由を書面化する義務があります。今、ロビーの監視カメラと私の端末で同時記録しています」
その数十秒が、道允には十分だった。
彼は一歩下がり、一般市民用の民願検索端末へ向かう。警備員が気づくが、海凛の声がその場の視線を縫い止める。
「韓次長。拒否理由の条項番号を」
道允は端末に触れる。画面は市民用の簡易検索だけを表示する。予約確認、証明書発行、相談履歴照会。内部端末ではない。だが公開予約は一度ここを通る。志厚の予約番号を入力し、成勲の保護者認証を選ぶ。
また灰色の警告が出る。
『対象記録は内部保安区分へ移管済み』
道允はそこで止まらない。通常画面を戻し、端末の印刷待機履歴を開く。民願端末は印刷エラーに備え、表示画面の一時キャッシュをローカルに保持している。サーバー側で内部移管処理がかけられていても、端末のバッファには当時の表層データが残っているはずだ。
検索欄に予約番号ではなく、相談センター支部コードを入れる。次に検査日。最後に志厚の生年月日ではなく、画面遷移番号を打つ。これは職員研修で習う裏技に近い。正式機能ではないが、障害時の復旧に使われる。
画面が一瞬だけ白くなる。
『検査室入室名簿』
『恩平相談センター、上位相談枠、未成年安定検査』
道允は息を止める。名簿は欠けている。担当者名は消され、所属欄は空白だ。だが入室認証の身分番号だけは、印刷キャッシュに残っている。
三つの番号が並ぶ。
一つは受付職員。もう一つは保護者分離確認者。そして最後の番号が、入室、再入室、退室と三度繰り返されている。民間研究員の身分番号だ。道允はその数字列に確かな見覚えがあった。
姜武鎮の非公開移送時、地下三階の黒い車両の要員タグに一瞬だけ映った空欄番号。
同じ番号だった。
喉の奥が乾く。志厚の検査室に入った民間研究員が、姜武鎮の移送にもいた。誘拐前の七歳の子どもと、矯正後に消された被告を、同じ手がつないでいる。
道允は画面のキャプチャを押す。
その瞬間、端末の照明が落ちた。
『遠隔保全処理』
『民願端末を終了します』
画面は黒くなり、ロビー全体の空調音が低く沈む。韓泰錫が、ゆっくりと道允のほうを見る。海凛の申請書を受け取っていた職員の手が止まっている。
「白道允」
韓の声は、ロビーの白い床を滑るように届く。
「君は本当に、自分が何を開こうとしているのかわかっていない」
そのときだった。
ロビー奥の隔離区域へ続く廊下から、金属扉越しに短く鋭い悲鳴が走る。
長くはない。息を切り裂かれたような、一秒にも満たない声。だが道允にはわかる。分析席で軽口を叩き、危険を笑って隠していた世羅の声だ。
隔離扉の警告灯が赤く点滅する。
道允が一歩踏み出した瞬間、奥の扉の向こうで、記憶椅子の固定具がもう一度閉じる音がした。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
17話 空椅子の次の対象者、白道允
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