道允が二歩目を踏み出すより早く、海凛の手が袖をつかむ。
「待ってください。今、あなたが中へ入れば、向こうは不法侵入で処理します」
「悲鳴がした」
道允はそれだけ返す。声は自分でも驚くほど平坦だ。怒りが表に出るより先に、身体が地下の構造を思い出している。隔離区域の赤い灯、陰圧扉、短時間抽出椅子。世羅の最後の息。固定具が閉じる音。
韓泰錫がゆっくり歩いてくる。
「止まりなさい。白道允。ここから先は保安区域だ」
「中で職員が叫んだ。保安区域なら、なおさら開ける理由になる」
「君にその権限はない」
韓の言葉が終わる前に、道允は隔離扉脇の非常解放ボックスへ手を伸ばす。透明カバーを拳で叩き割る。警報が鋭く鳴り、警備員が動く。海凛がすぐに前へ出て、端末を掲げる。
「現場保全のため録画します。負傷者救護を妨害するなら、全員の氏名を記録します」
その一瞬で足りる。道允は赤いレバーを引き下ろす。電子錠が拒否音を返すが、非常機構は完全には止められていない。手動ハンドルを回すと、古い金属が軋む。扉の隙間から冷たい陰圧の空気が吹きつけ、薬品と焦げた樹脂の匂いが流れ出す。
「白道允!」
韓の声が背中を打つ。道允は振り返らない。重い扉を肩で押し開ける。
隔離室の中は、異様に静かだ。
世羅はいない。床に倒れた椅子も、争った痕跡もない。白い壁、中央の記憶椅子、天井の監視レンズ。すべてが清掃直後のように整っている。だが記憶椅子の右側アームだけがわずかに湿り、拘束リングの内側に皮膚の赤い跡が薄く残っている。
道允は一歩ずつ近づく。足元に、透明な神経パッチが落ちている。
薄い膜の端が丸まり、接着面に淡い体温の曇りが残っていた。今しがた皮膚から剥がされたばかりだ。中心部の微細回路はまだ緑に瞬き、残留信号を吐き出している。
「世羅さんのですか」
海凛が入口で低く言う。警備員たちは韓の指示を待って踏み込めずにいる。韓泰錫だけが表情を動かさない。
道允はパッチの接着面を避け、手袋越しに端だけをつまみ上げる。
「分析官用の皮質補助パッチです。短時間抽出で、抵抗が強いと交換前に剥がれる」
「強制スキャンですね」
「はい」
言葉にすると、胸の奥の何かが硬く割れる。世羅は彼を逃がすために一度監査を引きつけた。今度は、彼が追っている情報を持っていたから椅子にかけられた。韓泰錫は対象者だけでは足りず、周囲の人間に手を伸ばしてきた。
道允は顔を上げる。
「どこへ移した」
韓は答えない。
海凛の指が端末の上を速く動く。彼女は廊下の監視カメラの表示を呼び出し、直後に目を細める。
「廊下CCTV、四十七秒分が欠落しています。削除ではなく、保全後の上書き偽装」
「裁判所へ」
「もう送っています」
海凛は欠落ログ、非常扉開放時刻、警報発生時刻、韓泰錫の立ち位置まで一つのパケットにまとめ、進行中の証人保全申請へ添付する。画面に受付番号が出る。庁の内部記録ではなく、裁判所サーバーの記録になる。
道允は記憶椅子の側面カバーを開く。権限は止まっている。だが隔離椅子には、ネットワーク遮断時にも使う技師用診断スリットがある。彼はパッチを直接差し込まず、接点を軽く触れさせ、残留信号だけを読ませる。
『未閉鎖セッションあり』
椅子の小さな保守画面に文字が浮かぶ。
『対象者、閔世羅。処理区分、証言関連記憶確認。抽出方式、強制走査』
海凛が息を止める。韓泰錫の靴音が背後で止まった。
道允の指が一瞬だけ強張る。確認ではない。掘り返しだ。世羅の頭の中から、彼女が見たもの、聞いたもの、道允へ渡したものを強引に探した。志厚の検査担当。研究支援三チーム。姜武鎮の移送番号。すべてを。
画面の端に抽出質問の断片が流れる。『共有先』『弁護士』『白道允』『姜武鎮原本』。世羅の反応値は何度も危険域へ跳ね、そのたびに椅子が安定剤を追加している。抵抗した証拠だ。答えないために、彼女は自分の記憶を何度も切られている。
保守画面の下部に、破損した添付キャッシュが点滅している。世羅が抵抗したのか、抽出の途中で何かを椅子側へ逃がしたのか。道允はその断片を開く。
灰色の脳地図が現れる。
「姜武鎮……」
そこには、矯正執行前に保存された姜武鎮の原本脳地図があった。表層記憶、情動反応、犯罪供述関連領域。普通なら次長級封印の内側にあるはずのものだ。世羅は保安面談に入る直前、何らかの経路でこれをつかんでいる。そして強制スキャンに抵抗する中で、椅子の残留域へ引っかけた。
「比較できますか」
海凛が近づく。道允はうなずき、裁判所に保全された七・四秒同期区間と、第五特殊執行室の事故時反応値を呼び出す。椅子の保守画面では足りないため、海凛の端末が補助表示を受け持つ。
二つの脳地図が重なる。
最初、道允は自分の目を疑う。原本側の恐怖反応は、確かに暴力犯としての粗い衝動を含んでいる。だが志厚の最終恐怖記憶へ反応したとされる深層の罪悪感、濡れた床、鉄扉音、子どもの視野に絡む異常な固着は、原本脳地図のどこにも根を持っていない。
犯罪記憶が、姜武鎮の脳の中で育った形跡がない。
ある時点で、精密な層として挿入されている。
「合わない」
道允は低く言う。
「供述記憶と執行時反応が、同じ脳から出ていません」
海凛の目が画面を走る。
「挿入痕の境界がきれいすぎる。自然な抑圧や忘却じゃない。原本の情動線を避けて、別の罪悪感を縫い込んでいます」
道允は唇を結ぶ。姜武鎮は嘘をついたのではない。彼自身が、自分の脳に置かれた他人の罪を自分のものだと感じるよう作られていた。志厚の恐怖も、倉庫の子どもも、その上に重ねられた。
「容器だった」
声にした瞬間、言葉が部屋の冷気より重く沈む。
韓泰錫が初めて口を開く。
「解析を中止しなさい。その画面をこれ以上見ることは、君自身のためにもならない」
「俺のために世羅さんを椅子にかけたのか」
道允は振り返る。自分の声がどれほど低いか、遅れて気づく。
韓は淡々と言う。
「職員の保安確認は規定の範囲だ」
「規定は、悲鳴を上げる職員を消すためにあるんですか」
韓の目が細くなる。だが答えはない。答えないこと自体が、今は証拠になる。海凛の端末が、その沈黙も録っている。
そのとき、空だった記憶椅子の正面モニターが勝手に点灯した。
誰も触れていない。ネットワークは遮断されているはずだ。だが画面には、隔離棟の予約システムが青白く開いている。次の処理枠。対象分類。処理区分。
道允の背筋を、別の冷たさが走る。
『短時間抽出椅子、予約確定』
『対象者、白道允』
海凛が息を呑む音が聞こえる。韓泰錫は、まるで予定表を確認する職員のように静かに立っている。
画面の下で、処理開始までの数字が減り始めた。
三分。
空の椅子の拘束リングが、道允を迎えるようにゆっくり開いた。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
18話 国家諮問コードの末端
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