三分。
空の椅子の拘束リングが開いたまま、道允の手首の高さで止まる。室内の空気がさらに冷え、天井の監視レンズが小さく角度を変える。椅子はもう空席ではない。画面上の予約が、彼の身体をそこへ置く未来として固定している。
海凛が一歩、道允と椅子のあいだへ入る。
「白道允氏は、今この瞬間から私の依頼人です」
彼女は端末を掲げ、裁判所の接見保全フォームを開く。声は低いが、部屋の警報音より鋭い。
「制限証人に対する無令状の短時間抽出、弁護人同席権の侵害、証言能力保全妨害。三つ同時に申立てます。韓次長、今この場で椅子に座らせるなら、あなたの指示として記録します」
韓泰錫は表情を変えない。
「彼は精神汚染の可能性がある。保全措置は行政機関の裁量だ」
「汚染の有無を判断する前に記憶を抜くことを、保全とは呼びません」
海凛の指が送信欄を叩く。画面に受付番号が浮かぶ。次いで、彼女は道允の手首をつかむ。強くはない。だが、動く方向を決める握り方だった。
「出ます。あなたは今、証人であり依頼人です。職員ではありません。返事をしないで、歩いて」
道允は椅子のモニターを見る。処理開始まで二分三十四秒。拘束リングが微かに震え、接近を待っている。世羅の皮膚跡が残るリングの内側が、白い光を反射した。
『ここで座れば、終わる』
自分の記憶だけではない。姜武鎮の原本脳地図も、世羅が椅子に残した抵抗の痕も、志厚の両親の供述も、すべて彼の頭の中から先に抜かれる。証言は汚染とされ、証拠は出所不明の幻覚に落とされる。
道允は海凛に従って背を向ける。警備員が一歩出るが、海凛が端末のカメラを向けると足が止まる。
韓の声が背後から追ってくる。
「逃げるのか」
道允は振り返らない。
「証拠を保全します」
廊下へ出た瞬間、陰圧扉が閉じ、椅子の警告音が鈍く遮られる。それでも背中には、開いた拘束リングの形が焼き付いている。
庁を出るまで、海凛は一度も足を緩めない。ロビーでは壁面ニュースが更生率を流し続け、職員たちは何も見ていない顔で視線を落とす。外へ出ると、灰色の公用車ではなく、海凛が呼んだ古い無人タクシーが待っていた。乗り込んだ直後、彼女は車内遮断モードを起動する。
「事務所へ行きます。裁判所の接見室より、私の保安網のほうが早い」
「世羅さんは」
「今は座標を追うより、あなたを椅子から外すほうが先です。あなたが抜かれたら、彼女の残したものも終わります」
道允は反論できない。タクシーの窓に、庁の白い建物が遠ざかる。そこにはまだ世羅がいるかもしれない。あるいは、もういないかもしれない。だが彼が戻れば、同じ椅子に座らされるだけだ。
海凛の事務所は裁判所裏の細いビルの三階にある。看板は小さく、廊下の照明は半分切れている。だが扉の内側へ入った瞬間、壁面の保安装置が静かに起動し、外部通信が切り分けられる。紙のファイル、古い神経記録媒体、複数の隔離端末。眠らずに積み上げた十年分の部屋だった。
海凛は道允を椅子に座らせず、立ったまま電子委任状を開く。
「氏名、生年月日、現住所。確認だけしてください。署名は生体ではなく、手書き入力で」
「生体署名は使わない」
「使わせません。盗まれた鍵で扉を閉める必要はない」
道允は画面に手書きで名前を入れる。白道允。黒い線が震えずに収まる。送信と同時に、海凛の端末に弁護人登録完了の通知が出る。
「これで、直接接触、抽出、証言能力評価は私を通さなければ違法になります。もちろん、向こうが守るとは限りません」
「守らせるための記録ですね」
「ええ。破らせるなら、破った形で残します」
そのとき、事務所の壁面モニターが自動で報道速報を拾う。海凛が止めるより早く、字幕が流れた。
『記憶矯正庁、内部執行官の精神汚染疑いを確認』
『姜武鎮事件担当者、未承認記憶接触後に異常行動』
『危険な記憶汚染拡散の可能性、庁が市民に注意喚起』
道允の顔写真が表示される。職員証から切り抜かれた無表情な顔。その下に、危険執行官という赤い文字が重なる。
海凛の目が冷たく細くなる。
「早い。椅子にかける前提で、報道文まで用意していましたね」
道允は画面を見つめる。怒りより先に、奇妙な納得が来る。姜武鎮の死と同じだ。事実が起きる前から、説明だけが作られている。
「俺の証言を聞かれる前に、聞く価値をなくす」
「だから証言ではなく、手続きと原本を出します」
海凛はすぐに別の端末を立ち上げる。志厚の両親の供述映像、画用紙の高解像記録、世羅が残した姜武鎮の原本脳地図、隔離椅子の強制走査ログ。それらを一つずつ非公開の証拠保全手続きへ放り込んでいく。
「公開はしません。今出せば、記憶汚染者の資料として潰される。非公開保全なら、裁判所が原本性だけを先に押さえます」
「姜武鎮の脳地図は、世羅さんが違法に取得したと主張されます」
「だから取得経路ではなく、椅子の残留キャッシュとして保全します。違法な強制走査の結果、庁自身の装置に残ったものです。彼らが否定するほど、世羅さんを椅子にかけた事実が強くなる」
道允は別の隔離端末に向かう。海凛の事務所の端末は庁の内部網へ直接つながらない。だが、裁判所サーバーに保全された七・四秒同期区間と、民願端末から取得した身分番号のキャプチャがある。
彼は、盗用された生体署名の承認ログを開く。
午前五時十二分四十秒。照合値九十九・九九一。完全一致ではない古い登録波形。白道允の署名として扱われた承認補助。その経路は前回、途中で切れていた。今は民間研究員番号を鍵にする。
志厚の検査室へ入った番号。姜武鎮の非公開移送時に黒い車両タグへ映った番号。世羅の質問断片に残っていた研究支援三チームの識別経路。三つを同一人物としてではなく、同一の外部アクセス認証として束ねる。
「同じ番号を、人ではなく通行鍵として使っている」
海凛が顔を上げる。
「民間研究員番号ですか」
「はい。入室者の身分ではなく、決裁システムの迂回ノードです。志厚の検査、姜武鎮の移送、俺の署名盗用が同じ外部認証を通っている」
道允は逆追跡をかける。画面に階層が開く。恩平相談センター。研究支援三チーム。ソウル中央地下隔離棟。民間神経処理研究所。韓泰錫次長承認欄。
そこで終わるはずだった。
だがログは、さらに下へ折れている。韓泰錫の承認は中間承認にすぎない。最終決裁欄には個人名がない。黒い帯の代わりに、匿名処理された英数字が一行だけ残っている。
『国家諮問コード:NAC-04-113A』
『最終決裁、承認済』
事務所の空気が止まる。
道允は最初、意味を測りかねる。国家諮問。庁内部ではない。次長級でもない。記憶政策を外側から承認する、政府横断の上位識別子だ。
「韓次長じゃない」
彼の声はかすれる。
「最後に許可したのは、庁の外です」
海凛は画面のコードを見たまま動かない。さっきまで休みなく動いていた指が、端末の縁で止まっている。顔から血の気が引き、唇の色だけが白く沈む。
「尹弁護士」
道允が呼ぶと、海凛はゆっくり息を吸う。だが、その呼吸は途中で引っかかる。彼女は背後の金庫へ視線を向けた。そこには、十年前から開け閉めされた跡のある古い鋼鉄の箱がある。
「そのコードを、私は一度見ています」
海凛の声は低く、ほとんど感情がない。感情を入れれば崩れると知っている声だった。
「兄の尹泰謙の矯正記録の最後に。同じコードがありました」
道允の指先が止まる。姜武鎮、志厚、世羅、そして自分の署名盗用。いま一本につながった線の十年前の端に、海凛の兄がいる。
その瞬間、道允が接続していた隔離端末の画面で、警告灯が赤く点滅し始めた。尹泰謙の記録に、外部からの照会がかかっている。
海凛が振り向くより早く、画面に新しい通知が浮かぶ。
『NAC-04-113A、関連記録削除命令を受信』
十年前の記録が、今まさに消されようとしていた。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
19話 十年前からの同じコード
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