七分という数字が、海凛の端末の隅で赤く減っていく。
道允は階段を駆け下りながら、外の空気を吸う暇もなく無人タクシーへ乗り込む。海凛は後部座席で鞄を開き、紙の決定文と裁判所端末を膝に並べる。尹泰謙の診療記録の角が、乱暴に詰められたせいで少し折れている。
「国立法医学センター、臨時安置棟。最短で」
車両が夜の道路へ滑り出す。窓の外で信号が流れ、報道画面に映った道允の顔が街頭の硝子に一瞬反射する。危険執行官。精神汚染疑い。誰かが用意した説明は、もう都市のあちこちで彼を追い越している。
海凛は通話を開く。
「尹海凛です。証拠保全申立ての緊急補充を送ります。対象は姜武鎮の遺体、脳残留記憶層。焼却命令の執行停止を求めます。担当判事へ直送してください。理由は、同一国家諮問コードに基づく証拠隠滅のおそれ」
相手が何か言う。海凛は遮らない。だが返す声は固い。
「はい、現場に向かっています。違法侵入ではありません。弁護人予定者としてではなく、既存証拠保全事件C-FM-11902の補充資料です。受理時刻を残してください」
道允は手首端末を開く。権限停止で庁の装備には入れないが、裁判所保全サーバーに隔離した七・四秒同期区間の閲覧鍵だけは生きている。姜武鎮の脳波断片。六件の重犯罪者矯正記録との一致。そこへ、臨時安置棟の設備図を重ねる。
「搬出口は西側。焼却車両は地下スロープから入る」
道允が図面を読み上げる。
「遺体保管室は」
海凛が尋ねる。
「臨時棟一階の奥です。解剖室を通さず、直接搬出できる動線がある」
「だから解剖省略なんですね」
海凛の声が低くなる。車両が急停止する。センターの灰色の塀が視界いっぱいに迫り、警備灯が霧の中で白く滲んでいる。二人が降りた時、端末の数字は二分十七秒だった。
臨時安置棟の入口には、法医学センターの職員二人と黒い防寒服の保安員が立っている。搬出用の金属カートが扉の内側で待機し、薄い白布をかけられた袋の輪郭が見えた。
「止めてください」
海凛が紙を掲げる。職員が顔をしかめるより早く、彼女は裁判所印の入った決定文を相手の胸元へ突きつける。
「緊急証拠保全決定。姜武鎮遺体および残留神経組織、焼却その他不可逆処分の一時停止。受領を拒む場合、拒否者名と時刻をここで記録します」
保安員が端末を取り出す。
「我々は上位命令で搬出を」
「上位命令の番号を」
海凛は一歩も下がらない。
「番号を言ってください。解剖省略と即時焼却を命じた根拠文書です。言えないなら、あなたは身元不明の口頭命令で司法保全対象を焼くことになります」
職員の視線が揺れる。保安員はイヤホンへ指を当て、誰かの指示を待つ。その数秒で、道允は横を抜ける。海凛は止めない。彼女が作った沈黙の隙間を、彼はまっすぐ遺体保管室へ滑り込む。
室内は冷たい。金属棚の列、消毒液の匂、低く回る冷却機の音。中央のカートに、姜武鎮がいる。顔は白布で覆われているが、顎の形とこけた頬だけでわかった。生きている時でさえ、彼は自分の顔を持たないような男だった。今はさらに、誰かの罪を入れる容器として処理されようとしている。
「姜武鎮」
道允は名を呼ぶ。返事はない。だが記憶は、脳が完全に沈黙する前に最後の傷として残ることがある。世羅が残した脳地図は、それを示していた。
彼は壁際の簡易神経スキャナを確認する。法医学センター用の検死補助装置で、記憶矯正庁の椅子ほど精密ではない。だが残留層の温度差と電気反応を拾うだけなら足りる。道允は裁判所端末の閲覧鍵を接続し、姜武鎮の七・四秒同期区間を参照波形として読み込ませる。
警告が出る。
『対象、死亡後神経崩壊進行中』
『残留記憶層、抽出可能時間、推定四分未満』
「足りる」
道允は白布を胸元まで下げ、こめかみの近くへ冷たい電極を貼る。生前に付けられた接続痕がいくつも残っている。小さな丸い火傷、針痕、髪の下に隠れた縫合跡。どれも医療ではなく、使い回された装置の跡だった。
扉の外で海凛の声が響く。
「現場録画中です。搬出カートに触れた方の氏名を確認します」
保安員が何か叫ぶ。職員の靴音が迷う。道允は振り向かない。スキャナが低い音を立て、画面に暗い層が開く。
最初に流れたのは、李志厚の恐怖ではなかった。
濡れた路地でも、黄色い傘でもない。鉄格子の向こうで処刑室の照明を見上げる男の視野。舌の奥に残る焦げた薬品の味。自分が死ぬことへの恐怖ではなく、誰かに自分の最期を流し込まれる怒り。
次の層では、別の男が叫んでいる。手首に拘束帯の跡。死刑台へ歩かされる足の震え。だが映像の端に、姜武鎮の脳反応とは合わない別の波形が縫い込まれている。恐怖の上に罪悪感、その上に順応値の安定記録。縫い目のようなノイズが層と層をつないでいた。
道允の喉が乾く。
「姜武鎮の記憶じゃない」
画面がさらに深く沈む。別の死刑囚の怒鳴り声。別の長期囚の閉所恐怖。別の矯正対象者の自己嫌悪。互いに異なる終わりが、姜武鎮の脳に同じ方向へ押し込まれている。事件も場所も時刻も違う。なのに最後は必ず、抵抗値低下、順応反応安定、加害認識強化という同じ処理欄へ収束していく。
誘拐犯の確信などない。子どもを連れ去った手の感覚も、供述を裏づける記憶の連続性もない。あるのは、他人の恐怖と怒りを削り、罪悪感の形に整え、姜武鎮という脳へ縫いつけた痕跡だけだった。
『原本出所、削除済』
『容器耐性、良好』
『複合恐怖層、定着』
『裁判証拠用表層、生成完了』
その一行で、道允は息を止める。法廷で有罪証拠として使われた記憶は、姜武鎮のものではなかった。最初から、裁判に提出するための表面だけが作られていた。
海凛が室内へ飛び込んでくる。保安員がその後ろに迫るが、彼女は端末を道允の画面へ向ける。
「送ってください。今なら裁判所サーバーが開いています」
「全部は重い」
「表層生成ログと原本出所削除だけでいい。組織的な記憶容器実験の物証になります」
道允は抽出範囲を絞る。死刑囚たちの恐怖そのものを送る必要はない。彼らの苦痛をまた証拠物として晒すためではない。必要なのは、誰が、どの手順で、姜武鎮の脳を加工したかだ。
送信準備が整う。
『裁判所鑑定サーバー、緊急保全接続』
『残留記憶層スキャンデータ、送信開始』
進行率が上がる。十三、二十一、三十八。扉の外で複数の足音が増える。海凛は紙の決定文を片手で掲げたまま、もう片方で録画を続けている。
「ここから先に入るなら、司法保全対象の破壊妨害として全員記録します」
「尹弁護士、下がってください!」
「下がる法的根拠を言ってください」
進行率、六十二。
道允は姜武鎮の顔を見る。閉じたまぶたの下に、彼が最後に見たものは残っていない。ただ、誰かが押し込んだ層の縫い目だけが、いま証拠として剥がれかけている。
『お前も、倉庫の子どもだった』
あの声は、作られた供述ではなかった。容器にされた男の中に、縫い残された本物の裂け目だった。
進行率、八十一。
天井灯が一度、白く瞬いた。
海凛が顔を上げる。
「道允さん」
「続けます」
八十九。九十三。九十六。
その瞬間、安置棟全体の電源が落ちた。
冷却機の音が消え、照明が黒く潰れる。スキャナの画面も裁判所端末も、一斉に沈黙した。非常灯だけが赤く点き、室内の金属棚を血のように染める。
道允は端末を叩く。応答がない。送信完了通知もない。九十六パーセントで切れたのか、その先で届いたのか、画面は何も答えない。
暗闇の中、海凛が低く言う。
「確認できない」
扉の外で足音がそろう。保安員のものではない。訓練された鎮圧チームの重い靴音だ。非常灯の下で、姜武鎮の白い顔が一瞬だけ浮かび、また影に沈む。
天井スピーカーが雑音を吐いた。
次いで、韓泰錫の声が低く明瞭に響いた。
「白道允、尹海凛。あなた方は司法保全を装い、国立法医学センターの遺体および神経証拠を不法に窃取した現行犯である」
道允は暗い端末を握りしめる。海凛は決定文を下ろさない。だが送信の成否は、まだ誰にもわからない。
スピーカーの声が、最後の逃げ道を塞ぐように続いた。
「ただちに逮捕する。抵抗すれば、記憶汚染拡散防止手続きに移行する」
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
21話 父の登録番号と恐怖層
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