白昌浩の言葉は、非常階段の冷気より深く道允の背中へ入り込む。
あの日、お前の記憶も消された。
端末の向こうで父は何かを続けようとしている。だが道允には、音が一度遠ざかったように聞こえる。金道植の病室で浮上した父の声。そこにいたのか、と問う声。十歳の自分の周囲だけが白く抜けた空白。ばらばらだったものが一本の線になる瞬間、線の先で倉庫の扉が開くかわりに、頭の内側が真っ白に塗り潰される。
「誰が」
声はかすれる。
「誰が、消した」
白昌浩は答えない。息遣いだけが録音に残る。矯正後の穏やかな父ではなく、何かに押し潰されて黙る男の呼吸だった。
「父さん。金道植に何を入れたかだけじゃない。俺の記憶を誰が消したのか、知っていたんですね」
「……知らされたのは、後だ」
「後でも、知っていた」
また沈黙が落ちる。非常階段の踊り場で、海凛が道允の端末画面を確認し、録音状態を保ったまま首を横に振る。追及を長く続けるなという合図だった。
白昌浩が低く言う。
「お前は、戻ってきた時、何も覚えていなかった。医者は、そうしなければお前が壊れると言った。私たちは……それを信じた」
「俺が壊れるから、ですか。それとも、父さんたちが耐えられなかったからですか」
受話口の向こうで小さく息が詰まる。道允はそれ以上聞けない。今の声を聞き続ければ、父の罪を責める言葉だけが増えていく。増えた言葉は証拠にならず、倉庫の扉を開けない。
海凛が端末へ手を伸ばし、通話を切る前に短く言う。
「白昌浩氏。次に話す時は、弁護人立会いで録取します。端末を替えないでください。今の通話は保全されました」
通話が切れる。
道允の膝から力が抜けかける。海凛はそれを許さないように、彼の肘を強くつかむ。
「ここで倒れないでください」
「俺の記憶まで、父は……」
「父親の話はあとです。今わかったのは、金道植氏の処置とあなたの幼少期の記憶削除が同じ線上にあること。それだけです」
「それだけ、ですか」
「それだけを、今は使います」
海凛の声は冷たいが、指先には力が入りすぎている。彼女も揺れている。それでも揺れを仕事の形へ押し込めている。
「裁判所記録室へ戻ります。金道植氏のタグ、尹泰謙の記録、姜武鎮の残留記憶を同じ表にかけます。個別事件ではなく、実験様式として出す」
道允は目を閉じ、息を数える。自分が誰の息を真似ているのか一瞬わからなくなる。十歳の自分か、金道植か、姜武鎮か。だが海凛の言葉の中に、つかむべき枠がある。索引。タグ。様式。彼はそこへ戻る。
「行きます」
療養監護所を出るまで、道允は一度も振り返らない。正門の外では夕方の光が薄く、施設の窓格子だけが黒い線になっている。無人タクシーの中で、海凛は通話録音を裁判所サーバーへ送り、道允は金道植の保全ハッシュ値を確認する。画面の文字だけを追っていれば、頭の中の倉庫はまだ完全には開かない。
ソウル家庭裁判所記録保存棟の地下閲覧室に戻る頃には、夜が落ちている。古い蛍光灯は低く唸り、地下の空気は紙と樹脂の匂いが混じっている。海凛は入口で職員に補充閲覧決定文を示し、拒否理由を書面化する余地を与えず端末室へ入る。
「対象を三つに固定します。金道植、尹泰謙、姜武鎮。まず反応値」
道允はうなずき、裁判所鑑定サーバーの隔離端末へ接続する。生体署名は使わない。弁護人補助の閲覧権限で、すでに保全されたデータの索引だけを呼び出す。
金道植。怒り反応定着試験、複合罪悪感耐性、容器安定化前処理。
尹泰謙。人格統合障害、非事件関連恐怖反応混入、自己罪悪感反応過剰、最終処理NAC-04-113A。
姜武鎮。原本出所削除、複合恐怖層定着、裁判証拠用表層生成、容器耐性。
三人の事件名も、刑期も、表向きの処置理由も違う。だが深層反応値を並べると、同じ骨格が現れる。移植後に本人の事件と関係のない罪悪感を訴えた時期。怒り反応が本人の生活史と一致しない区間。記憶の出所を尋ねると、診療記録が副作用、同一化、精神不安定の語で閉じられる処理。欄の順序まで似ている。
海凛が被害者名簿を開く。十年間の副作用救済申請、却下案件、療養監護所への移管者、家族の異議申立。灰色の一覧が画面を埋める。
「条件を入れます。移植後三十日以内。他人の怒りを訴えた記録。見知らぬ罪悪感。原本出所不明。最終処理欄に空白または上位コード」
検索結果が跳ね上がる。十件、二十三件、四十一件。海凛は表情を変えないまま、重複と医療事故扱いを外す。残った二十七件のうち、十六件に同じ形式の相談記録が付いていた。
道允はその一つを開く。地方刑務所の元収容者。窃盗犯だった男が、移植後に「自分が絞めたことのない首の感触」を訴えている。記録者は『罪悪感反応の深化』と書いている。別の女は、矯正後に「知らない子どもを黙らせたい怒りが来る」と泣き、最終的に療養監護所へ移されている。欄の末尾には、削り損ねたような薄い灰色で同じ表記が残る。
『NAC-04-113A』
「上位承認コードではなく、実験フォーマットの管理印です」
海凛の声がかすかに低くなる。
「姜武鎮事件と兄の事件に出たのは、例外ではなかった。副作用被害者名簿の奥に、同じ書式で何十件もある」
道允は一覧を見つめる。人の名前が並んでいる。どの行にも、誰かの人生が制度の注釈へ押し込まれている。父の暴力を背負った金道植だけではない。兄を壊された海凛だけでもない。見知らぬ怒り、見知らぬ罪悪感、見知らぬ恐怖を、自分のものだと信じさせられた人間たちが、同じ設計図の上に配置されている。
「一人の実験じゃない」
道允は言う。
「反応値の収集です。怒り、罪悪感、恐怖、順応。どの順に重ねれば、人が自分の境界を失うかを見ている」
海凛は答えず、相談録音の列を開く。音声ファイルの多くは劣化している。裁判所が証拠価値なしとして保管期限だけ延ばした低品質の相談記録だ。
「言葉を探します。医療名ではなく、被害者が呼んだ名前を」
最初の録音が再生される。中年の男の震えた声が、雑音の奥で途切れ途切れに訴える。
『先生は、これは順応の途中だと言った。呉博士が見れば正常だと……でも俺の怒りじゃない』
海凛の指が止まる。
二つ目。若い女の声。
『相談員じゃなくて、呉博士に回すって言われました。博士は、罪悪感が定着すれば楽になるって……』
三つ目。尹泰謙の古い診療添付音声に、かすれた男性の声が残っている。
『呉博士は、怖いのは抵抗が残っている証拠だと言った。僕のじゃないのに。僕の恐怖じゃないのに』
閲覧室の空気が変わる。呉博士。三つの施設、違う年代、違う対象者の口から、同じ呼称が出ている。道允は画面上のNAC-04-113Aを見て、首筋が冷えるのを感じる。
「呉博士が、NAC-04-113Aの人間ですか」
「まだ断定しません」
海凛はそう言いながら、すでに内部告発者ネットワークの閉鎖フォームを開いている。相談録音の声紋、各記録の作成者端末、上位処理コード、呉博士という呼称を一つの照合依頼にまとめる。
『NAC-04-113A関連。通称、呉博士。音声照合と実名照会。緊急』
送信。
返答を待つ数十秒が、異様に長い。道允は父の通話録音を開きかけ、やめる。今それを聞けば、また足元が崩れる。海凛も画面を見たまま動かない。長い髪の乱れが頬に落ちても、直そうとしない。
通知音が鳴る。
内部告発者からの返信は短かった。
『音声照合一致。通称「呉博士」実名、呉世俊(オ・セジュン)。現・国家記憶政策諮問委員。記憶矯正標準化指針共同設計者。NAC-04-113A管理権限保持者』
画面の下に、公開プロフィールが自動で添付される。柔らかな笑みを浮かべた中年の男。国家の記憶政策を語る講演写真。肩書きの列。社会安全記憶資源化委員。矯正刑標準反応値検討会座長。国民心理回復支援構想参与。
海凛の呼吸が止まる。
道允は横を見る。彼女は十年間、兄の壊れた記録の端に残るコードを追ってきた。その名前が今、画面の中央に実名として立っている。怒りではなく、長すぎる追跡の果てにようやく形を持った敵を前にした沈黙が、彼女の顔から血の気を奪っている。
「尹弁護士」
海凛は返事をしない。片手で机の縁を押さえ、もう片方の手で画面を閉じようとして、閉じられない。
その時、添付プロフィールの下で新しい予定通知が開く。
『国立記憶政策フォーラム、基調講演者:呉世俊。登壇予定、明日午前十時。演題、記憶の公共資源化と社会安全』
さらにその下、参加者照会欄に一行が追加表示される。
『関係機関招待席、白道允執行官』
海凛がようやく息を吸う。だがその呼吸は整わない。道允は画面の中の呉世俊の笑顔を見つめる。
次に扉を開けてくる相手は、もう影ではなかった。制度そのものの顔をして、明日の演壇に立とうとしていた。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
27話 呉世俊の演壇と父の記録
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