低い男の息は、空のファイルからではなく、休憩室の壁そのものから吐き出されているように聞こえた。
ミンジェはノートパソコンの音量を確認した。ミュート。外部スピーカーも接続していない。ヘッドホンは机の上に置いたまま。再生される経路はどこにもなかった。それでも、ファイル一覧の最下段で青く反転した行だけが、呼吸に合わせてかすかに点滅していた。
パク・ソンファン、施錠用音声。
父の名は、偶然紛れ込むには具体的すぎた。
「パクさん……」
セヨンが声を絞った。薬棚の奥では昼の冷蔵庫が低く唸っているはずなのに、その音まで遠ざかっていた。
ミンジェはファイルを右クリックした。プロパティは開かなかった。削除も、名前の変更も、コピーも受け付けない。容量は0KBのままなのに、そこから吐き出される息だけが、確かに部屋の空気を震わせていた。
『父さんの声じゃない』
そう思おうとした。だが否定するための基準がなかった。彼は父の顔を覚えていた。手も、癖も、背中も覚えていた。けれど声だけが、暗い箱の底を覗くように空だった。
ミンジェはパソコンを閉じず、画面だけをスリープさせた。息はそこで途切れた。完全に止まったのではなく、壁の奥へ退いただけに思えた。
「このファイルのことは、誰にも言わないでください」
「管理組合長にも、ですか」
「特にペクさんには」
セヨンは白衣の裾を握ったまま、小さくうなずいた。彼女のスマートフォンはまた震えたが、画面を見ようとしなかった。息子の名前がそこにあっても、誕生日への温度が戻らないかもしれない。その怖さが彼女の指先に残っていた。
ミンジェは機材をまとめ、管理室へ向かった。扉の前には新しい南京錠が掛かったままだったが、ほどなく廊下の奥からペク・ドヒョンが現れた。昨日よりもさらに眠っていない顔だった。整った目元の下に、黒い影が濃く沈んでいる。
「報告書の件でしょうか」
先にそう言ったのはドヒョンだった。
「三階共用の電力系統と、二階四階間の空白座標が一致しました。壁内設備の点検許可をください。非破壊で構いません」
「契約書を確認してください。パクさんに依頼したのは夜間騒音原因の鑑定です。隠された設備の捜索ではありません」
「原因がそこにある可能性が高い」
「可能性で建物を騒がせられては困ります」
ドヒョンの声は低く丁寧だった。だが言葉の端は硬かった。ミンジェは外部メモリを握る手に力を入れた。
「保存した覚えのないファイルが現れました。題名に、私の父の名がありました」
ドヒョンのまぶたが、一度だけ遅れて瞬いた。
「お父様?」
「パク・ソンファンです」
短い沈黙が落ちた。廊下の蛍光灯がじり、と鳴った気がした。ドヒョンはすぐに表情を戻したが、その一瞬だけ、名前を聞いた人間の顔ではなかった。すでに知っているものを、不意に聞かされた顔だった。
「個人的な事情を、建物の調査に持ち込まないでください」
「偶然ではありません」
「偶然かどうかも、契約範囲外です」
ドヒョンは胸ポケットから折り畳んだ書類を出した。鑑定依頼書の写しだった。赤い付箋で、業務範囲の欄が示されていた。
「報告書は今日中に。配管または換気系統の共振、老朽化による夜間振動。そう整理してください。追加調査費は出ません。入居者への聞き取りもこれ以上は不要です」
「入居者はすでに記憶を失っています」
「疲労と不安です」
「三人が同じ時刻以降に、反復記憶だけを失った」
「医師ではないでしょう、パクさん」
言葉だけなら正しかった。だからこそ、ミンジェはそれ以上押さなかった。ドヒョンが許可を出さないことは、もうわかっていた。必要なのは許可ではなく、次に何が起きるかを逃さない準備だった。
「わかりました。中間報告書をまとめます」
ミンジェが引き下がると、ドヒョンの肩がほんの少し緩んだ。
「賢明です」
「ただし、提出前に確認したいデータがあります」
「今日中にお願いします」
ドヒョンはそれだけ言い、管理室ではなく階段の方へ歩いた。足音は二階と四階のあいだで、やはり一拍だけ沈んだ。
ミンジェはその背中を見送ってから、すぐ一階へ戻った。セヨンには薬局の奥で、失った記憶をできるだけ細かく書くよう頼んだ。息子の誕生日を知っていた証拠、最後に祝った日の匂い、ケーキの箱を受け取った店、思い出せない空白の形。覚えていることだけでなく、覚えていないと気づいた瞬間も記録に残させた。
「名前は、まだわかります」
セヨンは紙に息子の名を書きながら言った。
「誕生日だけが、紙に貼られた数字みたいです。私の中に入ってこない」
「その感覚も書いてください。比喩で構いません」
二階のジョンフンには、解の公式をいつから教えているか、普段の板書順、チョークを持つ指の圧まで書かせた。彼は何度も黒板の前に立ち、途中で手を止めた。
「頭ではわかるんです。けれど手が、別の人間の癖をなぞる」
「その『別の人間』の感じを残してください」
「気味が悪い記録ですね」
「気味が悪いものほど、あとで役に立ちます」
四階のギジュンは、白く抜けた祈祷文の紙を机に置き、記憶の入口が失われた感覚を丁寧に書いた。最初の一節を思い出そうとすると、床のない階段に足を出すようだと、彼は静かに言った。
「これで戻るのでしょうか」
「戻す方法を探すためです」
「では、祈ります。祈りの始まりを失っていても」
ミンジェはうなずき、各階に録音機を再配置した。今回は単に音を拾うだけではない。薬局の冷蔵庫横、二階教室の黒板下、四階礼拝堂の床、五階廊下、階段室の壁。さらに踊り場の接触マイクと、外部メモリの0KBファイルを監視する端末を連動させた。
午前0時40分より前に、すべてを起動させる必要があった。
午後十一時五十二分。ドウォンビルは昼間より静かだった。薬局のシャッターは半分だけ下ろされ、塾の机は整列したまま空いている。礼拝堂の椅子には誰も座っていない。だが建物の奥では、3F-共用の待機値が少しずつ上がっていた。
0.11。0.12。0.13。
ミンジェは二階踊り場に座り、ヘッドホンを首に掛けた。セヨン、ジョンフン、ギジュンはそれぞれの持ち場にいた。直接音を聞かないよう、耳栓を渡してある。何か起きれば、照明を三度点滅させる約束だった。
午前0時39分30秒。
ファイル一覧の最下段が勝手に表示された。パク・ソンファン、施錠用音声。容量はまだ0KB。だが作成時刻の欄に、数字がにじむように現れた。
00:40:00。
ミンジェは息を止めた。
三十九分五十八秒。いつもならミシン音が先に入る時刻だった。だが今回は違った。
タタタ、という針の音が壁の中で始まるのと同時に、チャリ、チャリ、と硬貨が落ちた。さらにその下から、キュルルル、と古いテープの巻き戻し音が食い込んできた。順番がなかった。三つの音が互いを待たず、同じ空白座標で重なった。
建物全体が、一つの喉になった。
ミンジェはヘッドホンをかぶった。危険はわかっていた。だが今度の音は、肉耳で聞かなくても壁から骨へ入ってくる。ならば、記録として正面から受けるしかなかった。
タタタタタ。チャリ、チャリ、チャリ。キュルルルル。
音が渦を巻き、左右の耳の区別すらつかなくなった。波形は赤く飽和し、電力ログの線は鋭い山を作る。七枚目を待つ硬貨の規則も、三拍で欠けるミシンの癖も、巻き戻しの反転も、すべて同じ瞬間に押し寄せた。
その底で、男の声がした。
低く、はっきりと。
「上がってくるな」
ミンジェの指がヘッドホンを掴んだ。爪が樹脂に食い込む。聞いたことのない声だった。なのに胸の奥だけが、昔から知っていたように痛んだ。
父だ。
証明はまだできない。声紋もない。比較対象もない。だが、空白だった場所に突然、形が戻った。台所で新聞を折る横顔が、工具箱を閉じる手が、その声に合わせて息を吹き返した。
「上がってくるな」
二度目はさらに近かった。警告ではあった。だが拒絶ではない。誰かを遠ざける声ではなく、下にいる息子を守るために扉の向こうから押し返す声だった。
階段室の壁が内側から膨らんだ。二階と四階のあいだ、存在しない高さで、コンクリートが湿った布のように低く軋んだ。録音機の液晶には、見たことのない表示が浮かんでいた。
施錠音声、応答待機中。
ミンジェはゆっくりとヘッドホンを外した。配管音でも、換気扇でも、古い機械の故障でもない。そんな説明は、もう何の役にも立たなかった。
この建物の過去を、自分の手で掘り返さなければならない。
そう決めた瞬間、0KBだった父のファイルに、初めて容量が刻まれた。たった一バイト。
そして壁の奥で、誰かが内側から階段を一段、上がる音がした。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
11話 上書きされた三階の記録
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