ミンジェは扉へ視線を走らせた。廊下の奥で笑った若いボンレの声は、壁紙の裏から滲むように細く残り、すぐに換気扇の唸りへ溶けた。食卓の向こうの老女は口を閉じたまま、両手で自分の喉を押さえていた。
「今の声を、聞きましたね」
ボンレは頷こうとして、途中で首を止めた。
「私の声だった。でも、私じゃない」
ミンジェは録音機を持ち上げた。液晶には音量の山が二つ残っている。人の喉から出た音なら、室内マイクが先に拾う。だが波形の立ち上がりは廊下側の接触マイクに近く、さらに低い帯域に、電力ログで見た3F-共用の鋭い跳ねと同じ小さな歯が刻まれていた。
『まだ終わっていない』
再生はしなかった。ミンジェは画面だけを確認し、録音機の音声出力を切った。
「声そのものを聞き返すのは危険です。波形だけ見ます」
「どうして、私の若い頃の声を」
「建物が持っているからです。三階の中に残っている音を、電気系統へ流している」
言ってから、彼は自分の推測がようやく形を持ったことに気づいた。ボンレの口を借りず、廊下の奥で本人の声を再現した。録音室にあったリールの音。午前零時四十分に跳ねる3F-共用。行政文書の番号に挟まった契約票。すべてが、思い出話ではなく、建物の設備としてつながっている。
「地下へ行きます」
「管理室の鍵は、あの男が持っている」
「分かっています」
ミンジェは青い票を入れた証拠袋を鞄へ戻し、部屋を出る前にボンレへ言った。
「ユンさんは、今は廊下に出ないでください。声がまた呼んでも、返事をしないで」
ボンレは伏せてあった写真立てを見つめ、かすれた声で答えた。
「返事をしたら、持っていかれるのね」
「そう考えたほうがいい」
五階の廊下は誰もいなかった。だがミンジェが階段へ向かうと、背後の突き当たりで、さっきと同じ若い声が小さく息を吸った。彼は振り返らずに階段を下りた。
一階の薬局では、セヨンが処方箋の束をそろえる手を止めて待っていた。疲れた目元に、昨日より濃い影がある。
「鍵ですか」
「管理室ではなく、地下電気室の予備鍵を。ペクさんが管理室の鍵の束を持って行ったままなら、別の保管分があるはずです」
セヨンは薬棚の奥を見た。ためらいは短かった。彼女はカウンター下の古い金属箱を開け、番号札のついた鍵を一本取り出した。
「昔、停電の時に薬品冷蔵庫を守るため、薬局にも預けられました。返せと言われていません」
「借ります。もしドヒョンさんが来たら、私は電力ログの確認をしているとだけ言ってください」
「それは嘘ですか」
「半分は事実です」
ミンジェは二階へ上がり、オ数学学院の扉を叩いた。ジョンフンは黒板の前で座席表を作っていた。チョークの粉が袖口に白く付いている。
「先生、電力ログを見られる端末はありますか。前に送ってもらった管理会社の閲覧画面です」
「あります。時間帯ですか」
「五階で偽の声が出た時刻と、3F-共用の値を照合してください。午前零時四十分だけじゃなく、今みたいな昼間の突発的な跳ねも見たい」
ジョンフンはすぐにノートパソコンを開いた。数式を失った男の手は震えていたが、表を追う視線は鋭かった。
「……ありました。十六時二十二分。3F-共用だけ、0.05から0.18へ一秒未満で上がっています。その直後に共用廊下照明も揺れています」
「五階の声の時刻と同じです」
「声に、電気を使った?」
「声を出すためではなく、残っている音を押し出すために」
ジョンフンが息を呑んだ。ミンジェは端末画面を撮り、地下へ向かった。
地下へ降りる階段は、昼でも湿っていた。壁の塗料はところどころ浮き、足元の排水溝から古い水の匂いが上がる。地下電気室の扉には、新しい鍵ではなく、昔の予備鍵がまだ合った。差し込むと、金属が渋く鳴って回った。
中は狭く、配電盤が壁一面を埋めていた。古い蛍光灯が配電盤の上だけで明滅し、光が落ちるたび、赤と黒のケーブルが短く脈打つように見えた。空調は止まっている。それなのに、奥の壁だけがわずかに温かい。
ミンジェはまず3F-共用の子ブレーカーを探した。ラベルは剥がされていたが、古い印字の跡に「3」の下半分だけが残っている。別の階の回路なら、こんな消し方はしない。彼は手袋をはめ、配電盤の右側へ回った。
コンクリート壁の一面だけ、色が違った。古い灰色の上から、少し明るいセメントが長方形に塗り足されている。周囲のひびは古いのに、その面だけ刷毛跡が浅く、砂粒がまだ角を持っていた。
「最近、塞いだのか」
呟きは蛍光灯の明滅に吸われた。
彼は鞄から工業用の聴診器を出し、塗り足された面へ当てた。最初は配電盤の低い唸りだけだった。次に、もっと奥で、布を巻き取るような摩擦音がした。
ゆっくり回るリールの音だった。
ミンジェは息を止めた。ボンレが語った録音室の奥の音と、今、壁の裏で鳴っている音が重なる。機械は三階の空白だけにあるのではない。地下の電気系統を通じて、眠りながら回っている。
セメントの端を照らすと、角の一か所に古い煉瓦が混じっていた。コンクリートで塗り込めた際、完全には隠しきれなかったのだ。ミンジェは小型のスクレーパーを差し込み、周囲の新しいセメントだけを少しずつ削った。音を立てないよう力を逃がしながら、指先で粉を払う。
煉瓦は予想より浅く入っていた。数分後、端がわずかに動いた。ミンジェは両手でつかみ、ゆっくり引いた。
重い音を立てず、煉瓦が抜けた。
黒い隙間から、湿った埃の匂いが吐き出された。懐中電灯を差し込むと、奥に古い金属の角が見えた。壁の空洞に、箱が挟み込まれている。表面は錆び、取っ手には布のようなものが巻かれていた。だが箱の縁には、行政文書の受付印と同じ形式の細い刻印が残っている。
DWS-0317。
ミンジェは喉の奥が冷えるのを感じた。建物の抹消番号は、ここに物理的な箱として埋められていた。
彼は煉瓦穴を少し広げ、金属箱を片手で支えながら引いた。箱は途中で何かに引っかかったが、内部でリールが一度、低く回ると、抵抗がほどけた。まるで取り出されるのを待っていたように、箱は彼の腕の中へ滑り出した。
床に置くと、蓋の蝶番から赤茶けた粉が落ちた。鍵はかかっていない。ミンジェは再生機のスイッチに触れるときと同じ慎重さで、留め金を外した。
蓋を開けた瞬間、乾いた埃と古い磁性体の匂いが立った。
内部には、小さなリールテープが隙間なく詰められていた。紙の帯が一本一本に巻かれ、名前と品目が細い字で書かれている。上には薄い目録が載っていた。湿気で端は波打っているが、文字はほとんど消えていない。
ミンジェは目録の一枚目を開いた。
最初の行で、指が止まった。
ユン・ボンレ、新生児の泣き声。
その下には支払い額、受領印、そして小さく、回収条件の欄が続いていた。ミンジェがそこを読もうとした瞬間、電気室の蛍光灯が完全に消えた。
暗闇の中で、箱の一番上のリールだけが、誰にも触れられていないのに、ゆっくり半回転した。壁の奥から、若いボンレの声ではない、もっと小さな声が漏れた。
生まれたばかりの赤ん坊が、今まさに泣き出そうとしていた。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
17話 未回収の父の声が響く
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