ミンジェは封印テープを握ったまま、薬局へ駆け上がった。
通話は切らなかった。階段を上がるあいだも、受話口の向こうではカセットの巻き戻し音が細く続いていた。セヨンは何度か息を吸ったが、息子の名らしい音は一度も口から出なかった。代わりに、天井裏のどこかでくぐもった声が一音節ずつ名前を呼び、呼ぶたびに棚のガラスが小さく震えた。
一階に着くと、薬局の自動ドアは半分開いたまま止まっていた。店内の蛍光灯は明るいのに、調剤室の奥だけが夜のように沈んでいる。セヨンはレジ横に立ち、スマートフォンを両手で持っていた。画面には制服姿の少年が笑っている写真と、連絡先の名前が表示されている。
「ハンさん、画面を伏せてください」
「見ないと、分からないんです」
「見ても危険です。名前へ近づく条件になります」
セヨンは従おうとして、指を止めた。写真の少年を見つめる目は、母親のものではなかった。親しい患者の子どもを見る時の、丁寧で遠い目だった。
「顔は、あります。私の携帯に入っています。保険証の控えにも、学校からの通知にも、同じ名前があります」
「読めますか」
「読めます。でも、音になりません」
彼女は首をわずかにかしげた。画面の中の少年が、何かの冗談を言った直後のように歯を見せて笑っている。セヨンの親指が、その頬の上をなぞった。
「この子を、好きだと思います。大切にしなければいけないとも分かります。でも名前を聞かされても、何も結びつかないんです。顔に名札が貼ってあるだけみたいで……知らない子どもに、私の記録だけが全部ついているみたいで」
天井裏の巻き戻し音が止まった。
その代わり、調剤室の奥から誰かが少年の名を呼んだ。セヨンの口調を真似た、少し明るい母親の声だった。セヨンは目を見開き、スマートフォンを胸に押しつけた。
ミンジェは彼女の肩には触れず、レジ台にあったメモ用紙を差し出した。
「今、名前ではなく事実を書いてください。顔、年齢、今日の服、学校、誕生日。感情ではなく記録で固定します」
「記録なら、残りますか」
「少なくとも、抜かれた場所の形は残せます」
セヨンは震える手でペンを持った。最初の一文字を書いたところで、ペン先が紙を削るように止まった。名前ではない。少年の年齢の数字だった。それでも彼女は息を整え、数字だけを何度もなぞった。
ミンジェは薬局の冷蔵庫の音と天井裏の残響を端末に記録した。3F-共用の待機値は、彼が地下にいた時よりさらに上がっていた。箱を取り出しただけではない。父のリールが応答を待った瞬間から、建物全体が未回収契約を探し始めている。
二階から、黒板を叩くような乾いた音が続けて響いた。
ミンジェが階段を駆け上がると、オ数学学院の扉は開け放たれていた。教室には数人の生徒が残り、前列で固まっている。黒板の前のジョンフンはチョークを握ったまま、汗で顔を濡らしていた。
黒板には二次方程式の解の公式が途中まで書かれている。だが式そのものより、数字の読み方が壊れていた。ジョンフンは「二」と書いてから「十」と読み、「平方根」を指しながら分母を先に読み上げ、分子へ戻れずに同じ場所を何度も叩いていた。
「先生、そこ、下から読むんですか」
生徒の一人が小さく言った。からかいではなかった。怖がっていた。
ジョンフンは振り返り、すぐにいつもの講師の顔を作ろうとした。だが口元が引きつり、言葉が出る前にチョークが折れた。
「違う。違うんだ。これは、順番が……頭では分かっている。式も見える。なのに、どこから読めば説明になるのかが、つかめない」
「板書をやめてください」
ミンジェは短く言った。
「生徒を帰してください。問題を見せるのも一度やめます」
ジョンフンは反論しかけたが、生徒たちの顔を見て言葉を飲み込んだ。彼はチョークの粉がついた手で眼鏡を押し上げ、低くうなずいた。
「昨日より速いですね」
「はい。箱の摘出後、進行の間隔が詰まっています」
ミンジェは黒板の写真を撮った。公式の誤りだけではない。矢印、番号、読み順の印が、誰かに横から組み替えられたようにねじれていた。知識を奪うのではなく、知識へ入る順路を消す。彼の仮説は、また一つ嫌な形で確かめられた。
四階へ上がる途中、階段の踊り場で冷えた風が吹いた。三階がないはずの壁面から、ミシンの針が一度だけ空気を突く音がした。ミンジェは足を止めなかった。
祈祷院の扉は閉まっていた。中から祈りの声は聞こえない。代わりに、入口上の古い看板の前でギジュンが立ち尽くしていた。痩せた背中はまっすぐだが、右手だけが聖書の角を強く握っている。
「ソ牧師」
声をかけても、彼は振り向かなかった。視線は看板の最初の文字に固定されている。祈祷院。その「祈」の字を、初めて見る記号のように見つめていた。
「読めますか」
「読めます」
ギジュンの声は静かだった。
「意味も、分かるはずです。けれど、そこから入れない。祈る場所の名前なのに、最初の字が扉にならない」
彼はゆっくりと手を伸ばし、看板に触れようとしてやめた。指先が文字の手前で止まり、そのまま力なく下りた。
「中に入れば、また私の声で何かが始まる気がします」
「今日は礼拝堂を空けてください。信徒にも近づかせないでください」
ギジュンは短くうなずき、看板から背を向けた。その動きが、ミンジェには祈りを捨てたのではなく、祈りを奪われないように守る動きに見えた。
一階、二階、四階。喪失はもう翌朝を待っていなかった。写真を見た瞬間、板書した瞬間、看板の最初の字に向き合った瞬間。装置は、本人が記憶の入口へ近づくたびに、先回りして取っ手を外している。
ミンジェは踊り場で端末を開き、電力ログを確認した。3F-共用の線は細く震えながら上がり続けている。午前零時四十分の山ではない。夜を待たずに、低く長い予熱が始まっていた。
封印するしかない。
少なくとも、父のリールだけは箱から切り離し、壁の中へ戻す。完全な解決ではない。だが応答待機の状態で外へ置いておけば、装置はミンジェを通じて他の契約を探し続ける。彼は地下へ戻るため、階段を一段ずつ下りた。
地下への扉を開けると、電気室の空気はさっきより冷えていた。配電盤の唸りはある。床には自分の足跡も、防水シートを広げた痕も残っている。だが壁の前まで来た瞬間、ミンジェは息を止めた。
穴がなかった。
新しいセメントを剥がし、煉瓦を抜き、金属箱を取り出したはずの長方形の跡が、最初から存在しなかったように消えていた。壁は滑らかなコンクリートに戻り、色の差も、削った粉も、工具の跡もない。懐中電灯の光を斜めに当てても、凹凸ひとつ浮かばなかった。
ミンジェは床を見た。箱はない。父のリールもない。彼が赤い字で書いた封印テープだけが、配電盤の下に千切れて落ちていた。
再生禁止。応答禁止。
その文字の「応」の部分だけが、黒く湿った染みで潰れていた。
背後で、足音がした。
ミンジェは振り返らず、懐中電灯だけをわずかに下げた。電気室の入口には誰もいない。だが闇の奥、配管の影から、眠っていない男の黒い目だけが先に現れた。
ペク・ドヒョンだった。
彼は乾いた声で言った。
「触れてはいけないものを、起こしましたね」
ミンジェがライトを向けると、ドヒョンの手には錆びた金属箱の蓋があった。蓋の内側で、父の名を書いた小さなリールが、電源もないままゆっくり一回転した。
そして闇の底から、ミンジェを呼ぶための息が始まった。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
20話 最初の契約回収の夜
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