ソンロクは受話器を置いたあとも、すぐには動かなかった。会社用かばんの横に広がった念書の束が、畳の上で白く浮いていた。戻すには多すぎ、隠すには遅すぎる量だった。
「あなた……」
ジョンヒがかすれた声を出した。ソンロクは答えず、束をつかんで急いでそろえた。折り目と向きを確かめる指が震えている。ジェユンはその震えを見ながら、チャン・ムンシクがなぜ今呼んだのかを考えた。
説明会前の確認。会社用かばんの検査。あるいは、すでに誰かが何かを知らせた。
『早い。こちらが動く前に、向こうが締めに来た』
「ジェユン、お前は家にいろ」
ソンロクは念書を底板の下へ押し込み、かばんを閉じた。
「学校へ行け。今日だけは会社に近づくな」
「父さん一人ではコピー室へ行けません」
「行かない。呼ばれただけだ」
「なら、なおさらです」
ソンロクの目が鋭くなった。叱る目ではなく、息子を危険から遠ざける目だった。
「いいか。今から俺がどこへ行くか、誰にも言うな。お前は母さんとここにいろ」
ジェユンは返事をしなかった。返事をすれば約束になる。ソンロクはその沈黙を不服に思ったのか、もう一度「家にいろ」とだけ言って、黒い外套を羽織った。
玄関が閉まると、ジョンヒがジェユンの肩をつかんだ。
「だめよ。お父さんがああ言ったでしょう」
「母さん、学校かばんを取ってきます」
「ジェユン」
「学校へ行くふりをしないと、近所に見られます」
ジョンヒの手が止まった。その一瞬で十分だった。ジェユンはかばんを背負い、弁当かばんを胸に抱えた。中にはまだ何も入っていない。けれど、写しを入れる場所は昨夜から決めていた。底の布を二重に縫い合わせた、油紙の下だった。
路地へ出ると、ソンロクの乗った車はすでに角を曲がっていた。ジェユンは走らなかった。走れば子どもだ。息を整え、通学路とは逆の停留所へ向かい、最初のタクシーに乗った。
「テガン本館の近くまで。正門じゃなくて、裏の大通りで降ろしてください」
運転手はミラー越しに怪しむ目をしたが、ランドセルの代わりに学校かばんを背負った子どもを、深く問い詰めはしなかった。大通りで降りると、ジェユンは百メートル歩いて別のタクシーを拾った。尾行を避けるためではない。子ども一人で本館裏へ向かったという記憶を、一台にまとめないためだった。
夜明け前のテガン本館は、窓の半分だけに明かりが入っていた。正面玄関は静かで、裏手の搬入口だけが早い時間の人影を吸い込んでいる。ジェユンは植え込みの陰を通り、地下二番ゲートの近くで足を止めた。
ソンロクの黒い外套が、ちょうど通用口の奥へ消えるところだった。
ジェユンは一拍置いてから中へ入った。守衛の視線が来る前に、弁当かばんを持ち上げる。
「父さんに弁当を届けに来ました。パク・ソンロクです」
前にも使った言い方だった。守衛は面倒そうに名簿をめくり、地下車両班の欄を見た。早朝の忙しさのほうが疑いより勝ったらしく、顎で奥を示した。
「すぐ渡して帰れ」
「はい」
廊下の床は磨かれすぎて、蛍光灯の白さを冷たく返していた。ジェユンは角を曲がる直前で足を止めた。向こうの応接室の前に、チャン・ムンシクが立っていた。細身の黒い外套、体から離さない書類かばん。声は低いが、廊下の壁にまっすぐ届いた。
「今日中に全員分だ」
ソンロクは姿勢を正して立っていた。
「室長、説明会は午前中と聞いております」
「説明を聞いたあと、班ごとに押す。運転職と警備協力班、対象者全員。出席者名簿はこれだ」
紙の束が差し出された。ソンロクは両手で受け取った。
「実印を忘れた者は、家に取りに戻らせろ。家族確認欄は今週中でいい。ただし本人欄は今日だ。分かったか」
「……承知しました」
「一番上の名前はお前だ。パク・ソンロク。会長車の運転手が迷えば、下が騒ぐ。逆に、お前が押せば早い」
ジェユンの指が弁当かばんの持ち手に食い込んだ。予想していた言葉でも、実際に聞くと重かった。父の背中が少しだけ沈んだが、すぐ戻った。
「車のキーを、点検係に預けたままでした。会長車を動かす前に確認してまいります」
ソンロクの声は硬かった。
チャン・ムンシクは一秒ほど父を見た。疑ったのか、ただ急いでいるだけなのか分からない沈黙だった。
「五分だ」
「承知しました」
ソンロクが振り返った瞬間、ジェユンは柱の陰から一歩だけ出た。父の目が大きく開く。怒るより先に、息をのんだ顔だった。
「お前……」
「弁当です」
ジェユンは小さく言い、弁当かばんを見せた。ソンロクは怒鳴れなかった。チャン・ムンシクの視線がこちらへ向く前に、父はジェユンの肩を押して廊下の奥へ歩き出した。
「帰れと言っただろう」
「コピー室はこっちです」
「ジェユン」
「五分です」
その言葉で、ソンロクは黙った。怒りを後回しにできる時間しか残っていなかった。
地下コピー室は車両待機室のさらに奥、古い備品倉庫の隣にあった。扉のガラスは曇り、内側の明かりだけがぼんやり見える。早朝のため誰もいなかったが、廊下の先には職員用階段がある。足音が響けばすぐ分かる場所だった。
「僕は外にいます」
「中へ入るな」
「入りません。足音を数えます。革靴が二つ以上近づいたら、扉を二回叩きます。守衛なら一回。走る音なら、何もせず先に逃げてください」
ソンロクは何か言いかけた。しかし、ジェユンの顔を見て言葉を飲んだ。小学生の頬はまだ赤かったが、目だけは廊下の曲がり角と階段の影を交互に測っていた。
「……三人分だけだ」
「給与明細、念書、同意書の家族確認欄です。順番は崩さないでください」
ソンロクは扉を開け、中へ入った。コピー機の起動音が小さく鳴る。ジェユンは廊下の壁に背をつけ、弁当かばんを抱えたまま耳を澄ませた。
一人目。遠い階段を下りる音。革靴ではなく作業靴。通り過ぎた。
二人目。台車のきしみ。清掃員。曲がり角の前で止まり、また遠ざかった。
コピー機の光が扉の曇りガラスを青白く照らした。一枚、二枚。機械の動きはひどく大きく感じられた。ジェユンは息を短く吸い、廊下の掲示板を見るふりをした。そこには説明会の案内が貼られていた。午前九時、地下会議室。対象者は車両班および警備協力班長。実印持参。
三人目の足音は軽かった。事務職員の靴だ。近づいてくる。ジェユンは弁当かばんを胸に抱え直し、扉を一回叩いた。
中の音が止まった。
職員は角を曲がり、ジェユンを見た。
「ここで何してるの」
「父さんを待っています。弁当を渡しに来ました」
「父さん?」
「パク・ソンロクです。車のキーを確認すると言って……」
職員はコピー室の扉をちらりと見た。だが車両班の運転手が点検前に紙をコピーしていても、早朝の本館では珍しいことではないらしい。彼女は眠そうにあくびをかみ殺し、「廊下で走らないで」とだけ言って去った。
ジェユンは扉を二回、軽く叩いた。再開の合図だった。
コピー機がまた動き始める。熱を持った紙の匂いが、扉の隙間から漏れた。やがてソンロクが中から細く扉を開け、数枚の紙を差し出した。ジェユンはそれを受け取り、弁当かばんのふたを開いた。弁当箱の下、布の底をめくり、油紙のさらに下へ押し込む。
給与明細。運転職福利基金先払い同意書。家族確認欄。念書の一部。パク・ソンロク、オ・マンシク、キム・チュンベ。
紙は薄いのに、底へ入れるたび弁当かばんが重くなる気がした。
「まだです」
ソンロクは低く言った。
「名簿も一枚だけ取る。今日中に全員と書かれている」
「時間は」
「あと一分」
ジェユンは廊下を見た。遠くでエレベーターの到着音が鳴った。革靴。今度は二人分だった。迷いなくこちらへ近づいてくる。
扉を二回叩いた。
ソンロクが中で紙をそろえる音がした。コピー機のふたが閉まり、原本を戻す気配。だが焦るほど紙は言うことを聞かない。ジェユンの耳に、鉄クリップが机へ触れる小さな音が届いた。
父が出てきたのは、革靴の足音が曲がり角の手前まで来たときだった。ソンロクは扉を閉め、何もなかった顔でジェユンの弁当かばんを受け取ろうとした。
「僕が持ちます」
ジェユンは離さなかった。
二人は廊下を戻った。ソンロクの手には名簿と会社用かばん。ジェユンの腕には弁当かばん。歩く速度は速すぎても遅すぎてもならない。背中に視線を感じるたび、ジェユンは前世の廊下を思い出した。扉を開ける側は、背中を見せている時間が一番長い。
角を曲がる直前、コピー室の中で冷えていく機械のファンが止まった。
ソンロクは一瞬だけ足を止めた。ジェユンもその理由に気づいた。かばんの中の原本の束は戻した。折り目も向きもそろえたはずだ。だが、焦って留め直した鉄クリップの位置は、最初より紙の右端へ数ミリずれている。
たったそれだけ。
それだけで、あのチャン・ムンシクが疑いを抱くには十分だった。
応接室の前を通り過ぎようとしたとき、開いた扉の奥から低い声が聞こえた。
「CCTV担当を呼べ。地下コピー室の五時台を確認する」
ソンロクの肩が固まった。ジェユンは顔を上げず、弁当かばんを両手で抱え直した。底の奥で、写しの角が布に引っかかる感触があった。
彼は父を見上げ、出口のほうへ目だけで合図した。
今走れば捕まる。歩けば、映る。けれど止まれば、終わる。
ジェユンは小さく息を吐き、子どもの歩幅のまま、父より半歩先へ出た。背後でチャン・ムンシクの声がもう一度落ちた。
「その子も、映っているか確認しろ」
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
14話 写しが外へ出た日
次の話