黒い乗用車のドアが、夜明けの路地で低い音を立てて開いた。
降りてきたのはパク・ギチョルだった。前より濃い灰色のコートを着て、手袋を片方だけ外しながら、引っ越しトラックの前へ歩いてきた。坂道の上にはまだ薄い霧が残っている。近所の家々の窓は閉じたままで、路地にいるのはパク家の三人と、テガン本館の車だけだった。
「パク・ソンロクさん」
ギチョルは挨拶を省いた。
「地方発令前の保安確認が残っています。五分で終わります」
ソンロクはハンドルから手を離さなかった。
「辞令は受け取りました。荷物も出しました」
「だから今です。牙山へ行ってからでは、確認が面倒になる」
ギチョルが後ろの社員へ顎をしゃくると、男が薄いファイルを持って近づいた。ファイルの角にはテガン建設管理チームの青い印があった。ジェユンは助手席からそれを見た瞬間、腹の底が冷えた。辞令だけで済ませるはずがなかった。追い出す前に、最後の紐を結ぶために来たのだ。
ジョンヒが後部座席から降りて、前へ出た。
「こんな朝に何の紙ですか。もう家も出ます」
「奥様にも関係があります」
ギチョルは淡々と言った。
「ご主人が業務上知り得た情報を外部へ漏らさないという確認です。会社の通常手続きですよ」
通常手続き。その言葉ほど、テガンで危ないものは少なかった。前世のヒョヌも、通常手続きの名で調書に署名し、通常手続きの車で護送され、通常手続きの事故で死んだ。
社員がボンネットの上に書類を広げた。ソンロクは降りざるを得なかった。路地は黒い乗用車に塞がれ、後ろには引っ越しトラックの荷台がある。逃げ場は紙一枚の上にしかなかった。
「署名だけで結構です。印鑑は奥様がお持ちでしょう」
ギチョルの視線がジョンヒの胸元へ落ちた。彼女は古い布袋を胸に抱いていた。中には通帳と、家の印鑑入れがある。保証金を戻す手続きのため、夜明け前から離さず持っていたものだった。
ジェユンは足元のノートを拾うふりをして、トラックから降りた。子どもの背丈では、ボンネットの上の文字が少し見えにくい。だが彼は前世で、法務チームが小さく印刷する場所を知っていた。
表題は「地方勤務移行に伴う保安念書」。上の段には守秘義務、資料返還、社外持ち出し禁止とありふれた言葉が並んでいた。危ないのは中ほどの損害賠償条項だった。
業務資料の写し、または写しと推定される情報が第三者へ流出した場合、本人および家族は連帯して会社に生じた一切の損害を賠償する。
ジェユンは唇の内側を噛んだ。
『妻と子どもまで巻き込む気か』
ただの保安念書ではなかった。福利基金同意書の写しが出た責任を、これから発生する損害として家族へかぶせる罠だった。署名すれば、牙山へ行った後でも、ジョンヒの保証金、ジェユンの将来の学資、家族の名義の口座まで、いくらでも脅しの材料にできる。
ソンロクも途中で読んだのだろう。社員から受け取ったペンを持つ手が止まった。
「これは……家族の連帯責任まで入っています」
「漏らす予定がなければ問題ありません」
ギチョルはすぐ返した。
「すでに会社の書類が外へ出ています。ご本人が潔白なら、潔白を確認する紙に署名するだけです」
「潔白を確認する紙なら、なぜ損害賠償があるんですか」
ジョンヒが思わず言った。声は震えていたが、目は逃げていなかった。
ギチョルの表情が少しだけ動いた。
「奥様。会社の書類です。細かい条項は法務が作っています」
「細かくないでしょう。妻と子どもって書いてあります」
ソンロクはペンを置こうとして、置けなかった。黒い車、管理チーム長、引っ越しの路地。ここで拒めば、牙山へ着く前に発令取り消しではなく懲戒に変わるかもしれない。職を失えば、家族は本当に行く場所を失う。
ジェユンは母の布袋を見た。
「母さん、印鑑……落ちそうです」
「え?」
ジョンヒが胸元を見下ろした。その一瞬、ジェユンは袋の口にそっと触れた。古い朱色の印鑑入れが滑り、路地の傾斜に沿ってころりと転がった。
「あっ」
印鑑入れはトラックのタイヤの脇を抜け、排水口横の雨水ますへ向かった。蓋の格子にぶつかって止まると思った瞬間、端が跳ね、黒い隙間へ半分落ち込んだ。
「印鑑!」
ジョンヒが駆け寄った。社員が反射的に追い、ギチョルも顔をしかめて一歩動いた。朝の静かな路地に、金属蓋を踏む音が響く。
「動かさないでください。下に落ちます」
ジェユンは子どもらしく声を上げた。実際には、落ち切る位置ではなかった。だが大人たちは印鑑という言葉に弱い。書類の前に印鑑がなければ、手続きは止まる。
ソンロクの前に、署名欄だけが残った。
ジェユンは父を見なかった。見れば、合図になる。合図になれば、父はまた息子を守ろうとして逆に動けなくなる。だから彼は雨水ますのほうへしゃがみ込み、指を差した。
「そこです。棒がないと取れません」
ソンロクは短く息を吐いた。紙へ近づいたペン先が止まり、彼はゆっくりとペンをボンネットの上へ置いた。署名欄は白いままだった。
「印鑑がないなら、今は無理です」
ソンロクの声は低かった。
ギチョルが振り向いた。
「署名だけ先に」
「家族連帯の紙に、印鑑なしで署名だけしろと言うんですか。あとで別の紙を足されても、こちらは分かりません」
その言い方は、昨日までの父とは少し違っていた。会社を信じる運転手の声ではなかった。紙の怖さを一度見た人間の声だった。
ギチョルの目が細くなった。
「パク・ソンロクさん。牙山での勤務評価に響きますよ」
「もう響いています」
ソンロクは答えた。
一瞬、路地の空気が止まった。ジョンヒが雨水ますの前で顔を上げた。社員の手が宙で止まる。ジェユンは父の横顔を見た。怒りではない。諦めでもない。何かを飲み込んだ後、まだ立っている顔だった。
ギチョルは紙を乱暴に閉じた。
「後日、倉庫で再確認します」
「そのときは条項を読んでからにします」
ソンロクはそう言って運転席へ戻った。ジョンヒは社員が拾い上げた印鑑入れを奪うように受け取り、布袋の奥へ押し込んだ。黒い乗用車がゆっくり後退し、路地の出口が空いた。
引っ越しトラックは、古いエンジン音を震わせて坂を下った。ジェユンは助手席の窓から、半地下の小さな窓が遠ざかるのを見た。もう戻る部屋ではなかった。そこに残ったのは、熱のある朝に目覚めた自分と、最初の電話の音だけだった。
ソウル郊外の高速道路へ入る頃、空は白く明けきっていた。荷台の家具が段差のたびに鈍く鳴る。ジョンヒは後ろの座席で印鑑入れを握ったまま、目を閉じていた。眠ってはいない。指の関節が白くなっていた。
ジェユンは窓の外を見た。
テガン本館の高い建物が遠くに見えた。ガラスの壁は朝日を受け、何事もなかったように光っている。あの地下で、父のロッカーに赤い札が貼られた。あのコピー室で、彼らは五分だけ紙を写した。高い建物はいつも、低い場所で起きたことを自分の影に隠す。
次に、城北洞の別宅へ続く丘の線がかすかに見えた。塀の内側には、幼いユリムの写真があった。前世の最後まで信じた声も、今はまだ何も知らない顔であの家にいる。ジェユンは胸の奥が揺れるのを感じたが、名前をつけなかった。
さらに道が曲がると、外国銀行ソウル支店の裏手へ続く大通りが一瞬だけ視界に入った。六時十分。会長車扱い。表に載らない役員。父の給与通帳と退職金確約書。すべては、窓の外で一つずつ小さくなっていった。
ソンロクはずっと無言だった。ハンドルを握る両手は、今度は震えていない。だが会長車を運転していたときの正確な余裕もなかった。道を間違えないことだけに意識を置き、何かを考え始めれば崩れるのを防いでいるようだった。
ジェユンも話しかけなかった。謝罪は昨日した。説明はまだ足りない。だが今、どんな言葉を置いても、父の失った席の代わりにはならなかった。
昼を過ぎると、車窓の建物は低くなり、倉庫と田畑と小さな工場が増えた。ソウルのガラスの壁ではなく、錆びた看板と埃をかぶった門が続いた。テガンはここにもあった。むしろ、本館よりも広く、細かく、逃げ場のない形で広がっていた。
日暮れごろ、トラックは忠南牙山テガン物流第三倉庫の正門へ着いた。
鉄板の門には、古びたテガンの鷲の紋章が打ち込まれていた。本館のキーに刻まれていたものと同じ形なのに、こちらは雨と埃で黒ずみ、片翼の先が少し曲がっていた。ジェユンはその紋章を見上げた。光る場所で人を縛る印も、錆びた場所で人を押し潰す印も、同じものだった。
警備詰所の窓が開いた。中にいた若い男が、来訪者名簿へ手を伸ばす。その左手には白いハンカチが巻かれていた。赤黒い染みが指の間から滲んでいる。
男はジェユンの視線に気づくと、慌ててハンカチを外し、ポケットへ押し込んだ。机の上には、まだ乾いていない血の跡と、その横に置かれた一枚の紙があった。
紙の上の太い文字を、ジェユンの目は門の外からでも拾った。
個人不注意確認書。
牙山の門は、まだ開いてもいない。だがジェユンには分かった。テガンは父を遠くへ飛ばしたのではない。もっと深い底へ、彼らを落としたのだ。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
19話 第三倉庫の底にある紙
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