赤い線で囲まれたカン・デシクの名を見た瞬間、ジェユンは手帳を閉じなかった。
会長別荘専任。たったそれだけの肩書きが、城北洞の夜よりも古い匂いを持っていた。前世の秘書室で、別荘勤務の運転手は本館の運転手より口が重いと教えられた。会長の家族旅行、非公式客、深夜の出入り。そういうものは日程表ではなく、車庫の隅と給油伝票に残る。
「ここ、どうして赤線なんですか」
マンシクは笑わなかった。
「俺にも全部は分からん。昔、会長別荘の車を任されてた人だ。辞めてからは忠清北道のほうにいると聞いた。だが、今すぐ電話するな」
「理由は」
「古い名前ほど、いきなり呼ぶと切れる。まず今生きてる道からつなげ」
それは正しかった。ジェユンは手帳を受け取り、まず赤線のページに紙片を挟むだけにした。焦って深い井戸へ石を落とせば、底から何が跳ね返るか分からない。
その夜から、手帳の番号はノートの後ろへ移された。ソウル本館の運転手、地方の下請け運転手、引退した整備工、夜だけ出るレッカー、病院受付、薬局、安い宿。並べてみると雑多な名簿だったが、ジェユンの目には時間別の地図に見えた。
月曜の午前に空く車。火曜の夜なら大田へ戻る車。日曜だけ電話に出る整備工。現金を嫌がる相手。食券なら受け取る相手。ガソリン代だけ先に出せば動く相手。
中学生になったジェユンは、制服のポケットに十ウォン硬貨を数枚入れて歩くようになった。学校の帰りに公衆電話へ寄り、呼び出し音が二回鳴る前に切るか、三回鳴るまで待つかを使い分けた。仕事中の運転手には長く話さない。家族に聞かれて困る話は、まず病院名だけを言う。断る相手には理由を聞かず、次の頼みの逃げ道を残す。
「今すぐ来てください」では人は動かない。
「戻り道を十キロだけ曲げられますか」
「伝票に名前を残せます」
「ガソリン代は先に置きます。次の運転で返してもらえればいいです」
言葉の順番一つで、受話器の向こうの呼吸は変わった。前世で会長家の儀典を支えた経験は、ここでは命令ではなく、ためらいをほどく技術になった。誰が上座に座るかより、誰が今日あと一時間だけ走れるかのほうが重要だった。
最初に動いたのは、天安の小さな部品工場だった。成形機のベルトが切れ、釜山へ送る箱が夕方まで止まった。公式配車は翌朝まで空かない。ジェユンはマンシクの手帳から引退整備工の番号を選び、修理ではなく「部品の型番を見てもらうだけ」と頼んだ。老人は最初怒ったが、スネが食堂の余り券を二枚渡すと、古いスクーターで工場へ向かった。
次は病院だった。平沢の下請け運転手の妻が、子どもの発熱で夜間受付を探していた。ジェユンは病院へ直接会社名を出さず、症状と到着時刻だけを伝えた。保証金は現金ではなく、マンシクが翌日に食券とガソリン代を合わせて返す形にした。誰か一人の財布へ負担を押しつけないためだった。
三件目は緊急部品だった。大田から牙山へ戻る空車が、群山へ向かう小箱を二つだけ積んだ。運転手は「俺は宅配じゃない」と吐き捨てたが、箱番号を読み上げ、到着先の警備員名を先に聞かせると、最後には黙って走った。代金は出なかった。代わりに次の週、彼の弟の診察予約をスネが取った。
助け合いはきれいな言葉ではなかった。誰かの時間を削り、誰かの空き座席を使い、誰かの食券を別の誰かへ回す。ジェユンはノートの端に、受けたものと返すものを必ず二列で書いた。借りが片側へ積もると、そこから支配が生まれる。テガンがやってきたことを、小さな連絡網の中で繰り返すわけにはいかなかった。
ソンロクは相変わらず心配そうに見ていたが、もう止める言葉は短くなっていた。
「学校は」
「遅れていません」
「電話代は」
「食券で戻ります」
父は納得していない顔で黙り、翌朝には運行補助簿の端に、平沢から戻る車の番号を一つ書き足して置いた。止める代わりに、見える場所へ寄せる。それが父の同意の形だった。
一か月が過ぎた。大きな事故は起きなかった。部品は小さく回り、病院予約は二つ流れ、三つ通った。ミョンスの薬局領収書は、警備会社の担当者へではなく、まず本人控えとして封筒に残された。倉庫長も、ときどき紙を出した。怒鳴り声は減らなかったが、紙には名前と日付が入るようになった。
連絡網は静かに根を下ろしていた。誰も看板を掲げず、誰も代表を名乗らない。ただ、困った時に公衆電話の前で一つの番号を思い出す人間が増えた。
その月の終わり、食堂裏の壁に取り付けられた電話が鳴った。
スネが受話器を取り、すぐジェユンを振り返った。いつもの病院でも、薬局でも、下請け運転手でもない顔だった。
「ジェユン。本社だって。管理チームの……パク・ギチョル」
受話器を受け取る前に、ジェユンは手の中の鉛筆を置いた。テガンが小さな道に気づくには、まだ少し早いと思っていた。だが、一度見つけた道を、彼らが見逃すはずもなかった。
「パク・ジェユンです」
電話の向こうで、懐かしいほど乾いた声がした。
「久しぶりだな。牙山で面白いことをしているそうじゃないか」
ギチョルは笑っているようで、少しも笑っていなかった。
「正式な下請けでも、契約業者でもない。だが大田で止まった荷を動かし、病院まで押さえた。子どもの遊びにしては、随分役に立つ」
ジェユンは返事をしなかった。食堂裏の空気が冷え、スネが鍋の火を弱める音だけがした。
「頼みがある。今日、緊急納品が一つ出た。公式配車は塞がっている。お前の連絡網で処理してみないか」
頼み、という形だった。だが声の底には、断れば父の勤務評価にも倉庫の立場にも響くという重さが置かれていた。前に保安念書を差し出した時と同じ、相手の足元を先に踏んでから手を伸ばすやり方だった。
「責任者の名前と、荷の番号と、到着時刻をください」
ジェユンが言うと、受話器の向こうで短い沈黙が落ちた。
「そんなものは後でいい。まず動かせ」
「名前がなければ、誰も動けません」
ギチョルの声から、表面の柔らかさが一枚剥がれた。
「パク・ジェユン。これは提案だ。だが、会社が見ている提案だと思え」
その瞬間、食堂裏のファクスが震え始めた。古い機械が白い紙を吐き出し、先頭にテガン物流管理チームの角印が現れた。納品期限、二十三時四十分。失敗時責任、現場連絡者一任。
ジェユンは紙の最後の行を見た。現場連絡者欄には、すでに自分の名前が打ち込まれていた。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
26話 保安協力覚書の罠
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