「今は聞きません」
ジェユンは、自分の声が思ったより低く響いたのを感じた。カン・デシクが去り、食堂裏の扉が閉まっても、ソンロクは入口の柱から手を離さなかった。指の関節が白くなり、肩だけが浅く上下していた。
問い詰めれば、父は答えたかもしれない。だがその答えは、準備のない紙の上に落ちる。落ちた瞬間、誰かに踏まれて消される。
「父さん」
ソンロクの目だけが動いた。
「今日は、家へ帰りましょう」
「ジェユン」
「今、ここで話すことではありません」
子どもの声ではなかった。だからこそ、ソンロクはそれ以上言えなかった。ソウルから牙山へ飛ばされた傷は、まだ父の背中に残っていた。会社を信じた自分を恥じる時間すら与えられず、会長車の運転席から倉庫の作業服へ落とされた男だった。その父に、二十年前の夜まで一気に掘らせれば、折れる場所が違う。
ジェユンは日誌の原本を直接家へは持ち帰らず、写した紙だけをかばんに入れた。削られた日付、会長専用車の非公式な夜間経路、廃整備工場の名。その三つを、学校のノートとは別の薄い帳面へ書き写した。表紙には数学演習とだけ書いた。中を開かれなければ、ただの高校生の勉強道具に見える。
その夜、彼はオ・マンシクに電話した。
「原本を三冊に分けます。一冊ずつ、引退した人に預けます。誰がどれを持つか、僕も一枚の紙には残しません」
受話器の向こうで、マンシクはしばらく黙った。
「子どもが、厄介なことを覚えたな」
「覚えさせたのは本社です」
「分かった。昔の班で、まだ口の堅い人間を三人探す。だが俺にも全部は言うな」
「はい」
翌日から、紙は動いた。カン・デシクの日誌一冊目は、天安で廃業した整備工の家に入った。二冊目は、オ・マンシクが昔世話になったタクシー会社の休憩室の天井裏へ。三冊目は、群山の古い運転手が持つ農機具倉庫へ渡った。
それぞれの受け渡しに、同じ者は立ち会わなかった。スネは食堂の食材伝票に、白菜の箱数だけを余分に書いた。ミョンスは門番日誌に、来訪者ではなく雨漏り修理と記した。ソンロクは何も尋ねなかったが、ジェユンが出かける時だけ、車の燃料を半分より下にしないようにしていた。
三日が過ぎる頃には、消された日付の原本は牙山第三倉庫に一枚も残っていなかった。
だが、ジェユンの頭の中では別の線も動いていた。
高校の教室では、休み時間になると新しい携帯電話の着信音があちこちで鳴った。まだ誰もが持っているわけではない。だが、数年後には運転手の家族も、食堂の納品業者も、修理所の若い職人も、電話ボックスまで走らずに連絡できるようになる。
放課後、学校の情報室では、インターネット注文という言葉が雑誌の隅に載り始めていた。小さな本屋や電器店が、電話ではなく画面で注文を受ける。今は珍しい話でも、やがて荷物の出方そのものが変わる。
『本社の配車表だけを待つ時代は終わる』
ジェユンはそう考えた。今の助け合いは、病院予約や緊急部品の迂回にすぎない。だが携帯電話が増え、注文が地域ごとに細かく散れば、テガンの一括配車より、町の道を知る運転手たちのほうが速くなる。単価を奪われる側ではなく、地域の荷を集め、分け、運ぶ側へ回れる。
彼は新しい帳面に、地域輸送網、と書いた。
牙山、天安、平沢、群山、大田。
戻り便。
修理所。
病院。
市場。
小型箱。
夜間受付。
受領者名。
それはまだ会社ではなかった。看板もなく、資本金もない。だが、どの道に誰がいて、どの時間なら車が空き、どの家族が電話を受けられるかを知る網だった。テガンが消したがる名簿ではなく、誰かが倒れた時に次の人へ渡せる道だった。
ソンロクはある夜、ジェユンの帳面を見て言った。
「また、危ないことをしているのか」
「危なくない形に変えようとしています」
「本社は、そう見ない」
「本社がそう見るなら、なおさら一か所に置けません」
ソンロクは返事をしなかった。けれど翌朝、古い運行補助簿の端に、小さな字で平沢西門、夜間資材、受付交代時刻と書いて置いていった。父なりの同意だった。
三日目の朝、倉庫の空気は妙に乾いていた。雨上がりの泥も固まり、門の前には大型トラックが二台、エンジンを切ったまま並んでいた。ジェユンが食堂裏でスネから湯をもらっていると、ミョンスが駆け込んできた。
「本社の車だ」
その一言で、長机の周りの音が止まった。
窓の外に、黒い乗用車が見えた。降りてきた男は、首の太い管理者だった。パク・ギチョル。かつてソウルで父を面談室に座らせ、牙山へ飛ばした男。今は革の書類かばんを持ち、倉庫長を横に立たせていた。
倉庫長はいつものように怒鳴らなかった。むしろ、横に立たされていること自体を不快がっている顔だった。ギチョルはそんなことに構わず、事務室の前で足を止めた。
「パク・ソンロクさんは」
「車両点検中です」
ジェユンが答えると、ギチョルの目がゆっくり下がった。子どもを見る目ではない。前に覚書を返された相手を測る目だった。
「高校生になったか」
「はい」
「なら、少しは分かるだろう。会社の古い記録は会社のものだ」
スネが息を殺し、ミョンスの手が門番日誌の端を押さえた。ソンロクは整備場の入口から戻ってきていた。顔色は変わらないが、歩幅だけが少し狭かった。
ギチョルは書類かばんを開けなかった。命令は、紙にせず口で落とすつもりだった。
「昔の運行記録を探している」
倉庫長が眉をひそめる。
「昔の、ですか」
「会長関連の夜間車両。別荘、城北洞、外部整備先。特に、ある日付の前後だ」
ジェユンは湯飲みを置いた。音を立てないようにしたつもりだったが、陶器が机に触れる小さな音がやけに大きく聞こえた。
ギチョルの視線がそこで止まる。
「牙山に、古い紙が流れたという話がある。見つけ次第、すべて本社へ上げろ。写しも控えも残すな」
「監査ですか」
ジェユンは尋ねた。
ギチョルの口元がわずかに動いた。
「質問する立場ではない」
「どの日付ですか」
「探せば分かる」
その言葉で十分だった。ギチョルは日付を口にできない。言えば、その日付が本社にとって特別だと認めることになる。だが焦っている。消された一行が、もう誰かの手に渡った可能性を疑っている。
ソンロクが一歩前に出た。
「古い運行記録なら、本館にあるはずです。牙山へ来た私には、分かりません」
「あなたに聞いているのではありません」
ギチョルは冷たく遮った。
「この倉庫には、会社の外の車が多い。引退者も出入りする。余計な紙が紛れ込むことがある」
彼はそこで初めて、ジェユンをまっすぐ見た。
「パク・ジェユン。見つけたら、先に私へ連絡しろ。父親を二度も巻き込みたくなければな」
ミョンスが息を吸い込む音がした。スネの顔から血の気が引いた。倉庫長でさえ、目だけを横へ逃がした。
ジェユンは返事をしなかった。代わりに、事務室の壁に貼られた古い配送表を見た。紙は日々貼り替えられる。だが、剥がされた跡は壁に残る。消された日付も同じだった。
ギチョルは待たなかった。倉庫長へ短く指示を残し、黒い車へ戻っていった。門を出る直前、後部座席の窓が少しだけ下がった。
「期限は今日中だ」
低い声が、エンジン音に混じって落ちた。
車が去ったあとも、誰もすぐには動けなかった。ソンロクの手はまた、入口の柱に置かれていた。三日前と同じ姿だった。
だが今度は、ジェユンの指は固まらなかった。彼は帳面を開き、消された日付の横に、新しい一行を書き足した。
本社が探し始めた日。
その下へ、もう一つだけ線を引く。
『今日中に、こちらから先に動かす』
ジェユンが鉛筆を置いた瞬間、食堂の奥の電話が鳴った。スネが受話器を取り、顔をこわばらせた。
「……マンシクさんからよ。天安で、廃業した整備工の家が一軒、もう荒らされたって」
ジェユンは目を上げた。
原本の一冊を預けた家だった。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
31話 消された日付と整理名簿
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