その声を背中で聞いたまま、ジェユンは本館の玄関を出た。
ガラス扉が閉まる音が、妙に大きく響いた。午前五時、本館地下二番ゲート待機。父の出勤時刻が、会長車の空白に合わせて動かされた。つまり父は、明日の朝、その裏口へ会長を運ぶ車の中にいる。
家へ戻るバスの窓に、夕方の街が流れていった。ジェユンは膝の上で拳を握った。まだ証拠ではない。黒板の文字も、無線の声も、公式日程表の空白も、彼の記憶と耳の中にあるだけだ。紙に残っていないものは、テガンの前では存在しないのと同じだった。
翌朝、半地下の部屋はまだ暗かった。ソンロクは四時半には起き、台所で水を一杯飲んだ。制服の襟を整える音、ベルトの金具が鳴る音、車のキーが皿の上で触れ合う音。どれもジェユンには警報のように聞こえた。
「こんな朝早くから、また会社?」
ジョンヒが眠そうに身を起こした。
「急な配車だ。会長車は遅れられない」
ソンロクは短く答え、ジェユンのほうを見た。布団の中で目を閉じていたジェユンは、呼吸だけを子どもらしく浅くした。
父の靴音が路地の階段を上がり、外の冷たい空気に消えた。少しして、低いエンジン音が半地下の窓を震わせる。車が路地を抜けていく音を、ジェユンは最後の角を曲がるまで聞いた。
「ジェユン、熱は?」
ジョンヒの手が額に触れた。ジェユンは目を開け、腹に手を当てた。
「お腹が……少し痛いです」
敬語が出た。ジョンヒは眉を寄せたが、昨日から顔色が悪かったせいか深く疑わなかった。
「学校、遅れて行く? 先生には私があとで電話するわ。少し寝てなさい」
「……はい。少ししたら、行きます」
ジョンヒは市場へ出る支度を急いだ。息子を残すことに迷っている顔だったが、朝の惣菜屋は待ってくれない。米びつの横に温かい麦茶を置き、「無理しないのよ」と言って出ていった。
扉が閉まると同時に、ジェユンは布団をはねのけた。腹痛の演技を続ける相手はもういない。昨夜のうちに準備しておいた学生服を着込み、ランドセルは持たず、古い布かばんだけを肩にかけた。中には小さなノート、鉛筆、硬貨が数枚。証拠を持ち帰るには足りないが、見たものを書き留めるには十分だった。
外へ出ると、十一月の早朝は頬を刺した。まだ開ききらない商店のシャッター、濡れた路面、牛乳配達の箱。ジェユンは走らなかった。子どもが息を切らしてテガン本館へ向かえば目立つ。バスを一つ乗り継ぎ、途中から歩いた。
テガン本館の向かいにあるバス停は、出勤前の人で少しずつ混み始めていた。ジェユンは時刻表を見るふりをして、その裏へ回った。背後には古い電柱があり、新聞の切れ端が貼りついている。そこからなら本館正面と、一本横の路地へ入る車の流れが見えた。
外国銀行ソウル支店は、本館から二ブロック離れた大通り沿いにあった。だが裏口は、表通りではなく狭い路地に面している。会長車を目立たせずに入れるなら、大通りへは出ず、ビルの影を抜けるはずだった。
ジェユンは電柱の影に体を寄せた。小学生の肩は細く、影に収まりやすい。それが悔しいほど役に立った。
六時を少し過ぎた頃、本館地下の出口から黒いセダンが一台、滑るように出てきた。
会長専用一号車。
鷲の紋章が朝の薄い光を受けて、冷たく光った。運転席の横顔までは見えない。だがハンドルを握る姿勢と、車を出すときのわずかな間で分かった。父だった。ソンロクはいつものように背筋を伸ばし、会長の車を乱さない速度で路地へ入っていく。
ジェユンの喉がきゅっと縮んだ。今飛び出して父を止めれば、ただの異常な子どもになる。止められない。止めるには、父の名前ではなく、父を使った者たちの名前を押さえなければならない。
数十メートル後ろから、もう一台の車が出てきた。黒ではなく濃紺の社長車。運転手の隣に座る秘書が何度も腕時計を見ている。後部座席の窓越しに、少し腹の出た男の横顔が揺れた。
チェ・ミンテ。
さらにその後ろから、目立たない業務用セダンが静かに続いている。
三台の車は距離を空けすぎず、近づきすぎず、同じ路地へ入った。まるで偶然同じ方向へ向かう車に見える。だがジェユンは知っている。公式日程表に何もない時間、黒板にはチェ社長車だけ、無線には会長車だけ。別々に隠した線が、目の前で一本になっていた。
彼はバス停から離れ、歩道の人の流れに紛れた。近づきすぎれば守衛に見られる。遠すぎれば言葉を拾えない。前世の随行秘書として覚えた距離感が、小学生の足を動かした。
外国銀行ソウル支店の裏口は、搬入口の隣にあった。鉄の扉の上に小さな監視カメラがあり、横には守衛が一人立っている。表の入口とは違い、看板もなければ華やかな照明もない。金が本当に動く場所ほど、こうして静かだった。
先に会長車が路地へ滑り込んだ。続いてチェ・ミンテの車と業務用セダンが、ほとんど間を置かずに停まる。ジェユンは向かいの電柱の陰へ体をぴったり寄せた。胸が冷たいコンクリートに触れるほどだった。
後部座席の扉は開かなかった。会長が降りるのではない。銀行の誰かを乗せるか、書類だけを通すのだ。
代わりに、最後尾の業務用セダンから、細身の男が一人降りた。黒い外套、体から離さない書類かばん。チャン・ムンシク室長だった。
ムンシクは周囲を大きく見回さなかった。見る必要がない人間の動きだった。守衛の前へ行き、扉を二度、短くノックする。
「テガンです。クォン副支店長との朝の確認です」
守衛が名簿を見た。
「予定表にはチェ社長車だけですが」
「会長車扱いだ。表には載せない」
ムンシクの声は低かった。ジェユンは息を止めた。マイケル・クォン。新聞の小さな記事から拾い、ノートの空白へ書き足した名前が、今、裏口の鉄扉の前で生きた音になった。
守衛はためらい、扉の内側へ一度声をかけた。中から韓国語に英語の響きが混じった短い返事が来る。誰の顔もはっきり見えない。だが必要なものは顔ではなかった。
「書類は?」
守衛が尋ねた。
ムンシクは書類かばんの取っ手を少し持ち上げた。
「運転手給与通帳の写しと、退職金確約書。建設側の一覧も入っている。中で確認する」
その二つの言葉が、路地の冷えた空気を裂いて届いた。
運転手給与通帳。
退職金確約書。
ジェユンは電柱に押しつけた指先が痛むのも忘れた。福利基金先払い同意書は、ただの社内説明用ではない。外国銀行に見せる材料だった。運転手たちの給与口座と、まだ受け取っていない退職金を、テガン建設の外貨借り入れの裏づけに使う。父の名前は、その中の一行として運ばれていた。
前世のIMFの光景が、一瞬で重なった。新聞の一面に並んだ為替急騰。倒産した下請けの社長。夜の本館で泣きながら印を押した運転手。危機対策室の奥で誰かが言った、福利勘定の調整という薄汚れた言葉。すべては突然落ちてきた災害ではない。こうして早朝の裏口で、誰かがかばんに詰めて運んでいた。
ムンシクが中へ入ると、鉄扉は静かに閉まった。会長車もチェ・ミンテの車も、エンジンを切らずに待っている。父は運転席で前だけを見ているはずだった。自分の背中の後ろで、何が差し出されているかも知らずに。
ジェユンはノートを開かなかった。今ここで鉛筆を動かせば、視線を集める。彼は言葉を頭の中へ刻んだ。六時十分。外国銀行ソウル支店裏口。会長専用一号車。チェ・ミンテ社長車。チャン・ムンシク。クォン副支店長。運転手給与通帳。退職金確約書。
これは記憶ではない。
目で見た。
耳で聞いた。
父の車がその場にあった。
鉄扉が再び開く前に、ジェユンは電柱の影から離れた。長くいれば顔を覚えられる。証拠は、持ち帰って初めて意味を持つ。彼は路地を戻り、通勤客に紛れてバスへ乗った。つり革に届かない手で座席の端をつかみながら、同じ言葉を何度も反芻した。忘れるためではない。忘れない順番へ並べるためだった。
家に戻ると、ジョンヒはまだ市場から帰っていなかった。半地下の部屋には朝の冷気が残っている。食卓の上に、見慣れない封筒が置かれていた。テガン本館からの社内便封筒。宛名はパク・ソンロク。
ジェユンは靴も脱ぎきらないまま、封筒へ近づいた。封はされておらず、薄い紙の角が少し折れ、内側の文字が透けていた。
会社説明会出席通知書。
十日午前。本館地下会議室。対象者は車両班および警備協力班長。実印持参。
ジェユンは喉の奥で息を止め、同封された出席者名簿を引き出した。紙は二枚。上から順に番号が振られている。
一行目。
パク・ソンロク。
二行目。
オ・マンシク。
昨日まで薄い鉛筆で書かれていた父の名前が、今度は会社の活字で先頭に置かれていた。偶然ではない。銀行裏口へ運ばれた退職金確約書の次に、説明会で最初に印を押させる相手。その順番だった。
ジェユンは名簿を握りしめたまま、食卓の端に視線を落とした。そこにはジョンヒが置いていった小さなメモがあった。
「お父さんが帰ったら、これを見せて。会社から大事な書類だそうです」
会社から大事な書類。
違う。
これは父への通知ではない。父の名前を先頭にして、他の運転手を黙らせるための合図だった。パク・ソンロクが押せば、班長のオ・マンシクも押す。二人が押せば、下請け警備班長たちは逃げられない。
ジェユンは名簿の一行目を指で押さえた。紙がわずかにへこむ。明日の朝までに、この順番を壊さなければならない。父に見せるか、隠すか。どちらを選んでも、もう子どものふりだけでは済まなかった。
そのとき、路地の上から車のエンジン音が近づいてきた。ソンロクが戻るには早すぎる時間だった。ジェユンは名簿を胸に抱え、玄関のほうを見た。
扉の外で、男の革靴が一度だけ止まった。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
10話 父に見つかった同意書
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