濡れた紙をめくる音は、一度鳴って終わらない。
携帯の小さなスピーカーから、ぺたり、ぺたり、と水を含んだ頁が剥がれる音が続く。テオは階段の途中で立ち尽くす。画面の中の月影堂の鏡には、赤い光がひとつだけ宿っている。黒い布は床へ落ち、木枠の内側に溜まった闇が、遠くからこちらを見返しているようだった。
肩の傷がずきりと痛む。廊下の方ではまだ怒鳴り声とプリンターの音が重なっていた。マ・サンチョルの声、オ・ミョンシクの声、カン・ムンシクの電話越しの怒号。全部が階段の壁にぶつかって、壊れた機械のように反響している。
テオは画像を閉じようとした。だが指が動かない。赤い点の下で、また紙がめくられる。
『帰ってこい』
文字は出ていない。声もない。それなのに、そう聞こえた。
「……ふざけるな」
かすれた声が自分のものに聞こえない。
彼は救急箱も借りず、下へ降りた。事務所の一階では社員たちが携帯を耳に押し当て、誰も彼を止められない。外へ出ると、湿った夜気が裂けた制服の内側に入り込む。肩の血は乾き始めていたが、動くたび布が皮膚に貼りつき、鈍い痛みを返した。
学校へ戻れば出席はまだ残っている。教師たちは事情聴取だの報告書だのを理由に彼を呼び戻すだろう。だが今、教室の椅子に座っていられるわけがない。携帯の通知欄には、夜間クラスのグループチャットが凄まじい速さで流れている。
――職員室やばい。
――教育庁に行ったって本当?
――ジンミョンの資料まで出てる。
――記者から学校に電話来てるらしい。
その文字列の裏で、濡れた紙の音がまだ耳に残っている。
テオはバスを待たず、仁川駅裏へ走った。途中で肩が熱を持ち、息が乱れる。制服の上から鞄を押しつけて血を隠し、路地を曲がる。人通りのある大通りを避け、シャッターの下りた店の前を抜け、半分塞がれた階段の鉄扉へたどり着く。
鎖の隙間へ体をねじ込む時、裂けた肩が鉄に擦れた。
「っ……」
呻きが漏れる。だが止まれない。
地下商店街は、前に来た時と同じように死んでいた。古い看板の文字は剥げ、閉じたシャッターの下には埃が固まっている。奥の蛍光灯だけが、今にも切れそうに瞬いた。靴音が長く伸びるたび、どこかの店の奥で誰かが息をひそめているような錯覚がした。
月影堂の看板は、やはり少し傾いている。
テオは店先で足を止めた。扉は開いている。中から焦げた紙と濡れた土の匂いが流れてくる。あの夜、自分がつけた黒い火の残り香だ。
「誰かいるのか」
返事はない。
携帯のライトを向けると、店内は彼が逃げるように去った時のままだった。燭台の上には、黒く燃えた蝋燭の灰が細い柱のように残っている。風もないのに灰の先だけがわずかに震えた。帳簿は台の上で開かれたまま、最後の頁をこちらへ向けている。
そして鏡。
黒い布は、写真と同じく床に落ちていた。古びた布の端には、湿った泥のような黒い染みが広がっている。鏡面の中央にあった赤い光は、今は消えていた。だが消えたからこそ、奥の闇が深く見える。
テオはまず燭台へ向かった。棚から新しい黒い蝋燭を一本掴み、指に力を込める。固い。普通の蝋とは違い、乾いた骨を握っているような感触がある。彼は膝で押さえ、両手で折った。
鈍い音がした。
折れた断面から黒い粉がこぼれ、燭台に残っていた灰へ降りかかる。灰の柱がふっと沈み、見えない火種が息を止めたように暗くなる。
「もう燃えるな」
自分に言い聞かせるように、低く言う。
だが店の奥で、紙が一枚めくられた。
テオは帳簿を見る。最後の頁の中央。前に見た「ユ」の染みは、黄ばみへ紛れたはずだった。今は違う。黒い滲みは細く伸び、姓だけでなく名へ向かっている。ユン・テオ。その形になりかけている。
胃の奥が冷える。
「違う」
彼は帳簿へ手を伸ばし、爪で黒い文字を引っかいた。紙の表面は柔らかく湿っている。爪が食い込み、黒い汁がにじむ。消えると思った。破れると思った。
だが頁は破れない。
黒い文字の周りだけが赤く濡れた。血を吸ったみたいに、じわりと深い色が広がる。テオの爪の下にも赤黒いものが入り、指先が冷たく痺れた。
「消えろ」
もう一度、強くこする。
文字は消えない。むしろ擦った線に沿って、まだ書かれていなかった次の画が浮かび上がる。テオは息を詰め、手を引いた。帳簿の上の湿りは、紙ではなく生きた皮膚のようにゆっくり脈打っている。
その時、携帯が震えた。
画面にはオ・ミョンシクからの着信が出ている。テオはしばらく見つめ、通話を取らない。震動が止むと、すぐにメッセージが届く。
――ユン、今どこだ。すぐ学校へ戻れ。記者が来ている。お前も関係者だ。
続けて、夜間クラスのチャットがまた流れる。
――校長室の電話ずっと鳴ってる。
――ジンミョン人材、取引先から切られるかもって。
――カンの父親の会社、未成年派遣でニュース出るってさ。
――誰かが追加で資料流してる。賃金控除だけじゃないらしい。
テオは画面を握りしめた。
自分はここにいる。何も押していない。学校にも会社にも触れていない。それなのに紙は走り続け、記録は勝手に広がり、電話は鳴り止まない。
月影堂の鏡が赤く光った理由は、止まったからではなかった。
まだ、動いている。
彼は帳簿を閉じようとした。表紙はびくともしない。開いた頁が台へ貼りつき、そこに彼の名前が根を張っている。黒い蝋燭を折っても、火種を潰しても、契約は消えない。
『名前が刻まれた以上、もう戻れない』
前に鏡の中で見た自分の唇が、頭の奥でそう動いた気がした。
「黙れ」
テオは床に落ちていた黒い布を拾い上げた。重い。埃を吸っただけではない。水に濡れた毛布のように腕へまとわりつく。布の裏側には、古い墨で書かれた文字がいくつも残っていたが、読む前に視線をそらす。
鏡を見なければいい。
幼稚な考えだと分かっている。だが、今できることはそれしかなかった。鏡が口なら塞ぐ。目なら覆う。こちらを見るものがいるなら、見返せないようにする。
テオは椅子を引きずり、鏡の前に立った。木枠の上へ布をかける。布は途中で何かに引っかかったように止まった。内側から指で押さえられているみたいに、中央だけがふくらむ。
歯を食いしばり、両端をつかんで一気に下ろす。
布が鏡全体を覆った。
その瞬間、店の空気が沈んだ。蛍光灯のちらつきが止まり、地下商店街の遠い水音さえ消える。テオはすぐ棚の古い紐を取り、木枠へ巻きつけた。二重、三重に結ぶ。肩の傷が裂け、温かいものが胸へ伝ったが、手は止めない。
最後の結び目を固く引いた時だった。
布の下から、音が漏れた。
最初は吐息に似ていた。次に、喉の奥で抑えた笑いになる。く、く、と短く、湿っていない。むしろ乾いている。余裕があり、愉快でたまらないという響きがある。
テオの背筋が凍った。
その笑い声は、彼の声だった。
声の高さも、息の混じり方も、疲れた喉の擦れも、正確に一致している。録音を流したように同じだ。だがテオは、そんな笑い方を一度もしたことがない。誰かを見下ろして楽しむような、追い詰められた者の震えを味わうような笑いを、自分の喉から出したことはない。
布の中央が、内側からゆっくりへこんだ。
まるで鏡の向こうの誰かが、額を押し当てているように。
笑い声は近づき、テオの耳元で囁くほど鮮明になる。
「遅いよ、ユン・テオ」
それも、テオ自身の声だった。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
18話 鏡の中の影が示した道
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