「遅いよ、ユン・テオ」
布の下から聞こえた自分の声に、テオは息を止める。結び目にかけた指が強張り、濡れた紐の繊維が爪の間へ食い込む。逃げろ、と頭の奥が叫ぶ。だが足は動かない。鏡を覆った黒い布の中央が、内側からさらに深くへこむ。
「……誰だ」
声は思ったより低く出た。震えを隠せたかどうか、自分でも分からない。
布の向こうで、彼と同じ喉が小さく笑う。
「知っているだろ。お前が一番よく知っている顔だ」
紐が勝手に緩んだ。
テオは反射的に結び目を押さえる。だが濡れた蛇のように紐は指の下を滑り、二重、三重に巻いたはずの輪がひとつずつほどけていく。黒い布の端が木枠から浮き、重い水音を立てて床へ落ちた。
鏡が露わになる。
そこに立っているのは、テオだった。
目の下に濃い影があり、汗で額に張りついた髪も、裂けた制服の肩も、血の乾きかけた指先も同じだ。ただ、鏡の中のテオは疲れ切っているのに、目だけが妙に澄んでいた。眠れない夜を何度も越え、泣くことも怒ることも使い切った後に残る、冷たい穴のような目だった。
「遅いと言ったんだ。折るのも、削るのも、覆うのも」
影は鏡の内側で、テオの動きを少し遅れてなぞる。だが口元だけは先に笑っていた。
「お前は、もう止められると思っている」
「止める」
テオは即座に言った。声が店の壁にぶつかり、古い護符を震わせる。
「今すぐだ。ドンスも、ミンギュも、ジヒョクも……もう十分だ。俺は、あいつらをあんなふうにしたいわけじゃない」
言いながら、胸の奥が薄く痛む。嘘ではない。けれど全部でもない。紙幣を借用書に見て泣き叫ぶドンス。証拠に追いつめられ、泣き笑いしたミンギュ。父親の怒号に崩れたジヒョク。その姿を思い出すたび、ぞっとする恐怖の下で、小さく甘い火が灯ったことをテオは知っている。
影も、それを知っている顔で見ていた。
「直接、傷つけたわけじゃない」
「何?」
「呪いがパク・ドンスの指を裂いたと思うか。イ・ミンギュの嘘を作ったと思うか。カン・ジヒョクの携帯に、存在しない動画を入れたと思うか」
鏡の奥で、薄暗い頁が何枚も重なる。コンビニのレジ。学校の保健室。ソンジン下請けの事務所。割れた携帯。電子黒板。吐き出される紙。すべてが水面の下の記憶のように揺れた。
影は続ける。
「違う。道は最初からあった。ドンスは奪った金を握った。ミンギュは不良リレーを隠し、売った。ジヒョクは撮り、脅し、消した。マ・サンチョルは書類で縛り、カン・ムンシクはその書類で人を回した。呪いは背中を押しただけだ。彼らが自分で積んだ石の道を、自分の足で歩かせた」
「だから何だ」
テオの喉が焼ける。
「俺が願った。俺が名前を刻んだ。俺が火をつけた。背中を押したなら、押したのは俺だ」
影の笑みが少し深くなる。
「ようやく認めるのか」
テオは台の上の帳簿を見る。最後の頁には、ユン・テオの名がほとんど形を成している。黒い文字の縁はまだ濡れており、指を近づけるだけで冷気が肌を刺す。
「消せ」
「できない」
「消せ!」
今度は叫びだった。月影堂の棚に並ぶ黒い蝋燭が、いっせいに細く震える。折った一本の断面からこぼれた粉が、灰の上で虫のように集まりかける。テオはそれを足で踏み潰した。
「俺はやめる。もう誰の名前も書かない。火もつけない。だから止めろ」
影は首を傾けた。鏡の中で同じ顔が、ひどく優しいふりをする。
「お前がやめても、名前は刻まれた」
低い声が、床の下から染みてくる。
「カン・ジヒョク。パク・ドンス。イ・ミンギュ。マ・サンチョル。そして、ユン・テオ。帳は受け取った。借りと怨みの線はもう走っている。お前が手を離しても、糸は勝手に締まる」
「そんなもの、俺は知らない」
「知らないまま願ったから、こうなった」
その一言は、刃より深く入った。
テオは言い返そうとして、息だけを吐く。仁川西部警察署の窓口。相談室の合意書。祖母の住所を読み上げたサンチョル。四時十二分の動画。誰も止めなかった。誰も聞かなかった。だから彼は、普通ではない場所に頼った。
頼った結果が、目の前に立っている。
「じゃあ、俺にどうしろって言うんだ」
テオの声は掠れていた。
影は答えず、鏡の奥へ片手を差し出した。その指先が水面に触れるように揺れると、鏡面全体が黒い波を打つ。テオの顔が崩れ、代わりに別の部屋が浮かんだ。
明るい部屋だった。
月影堂の湿った闇とは違う、白い天井灯と磨かれた木の床。革張りのソファ。低いガラスのテーブル。壁には額入りの認定証が並び、その下にジンミョン人材の社名が金色の文字で光っている。
カン・ジヒョクの家だ、とテオは直感する。家というより、客に見せるための応接室だった。金と力をきちんと磨いて置いておく部屋。
ソファの中央に、カン・ムンシクが座っている。電話越しに怒鳴っていた声と同じ男だ。厚い首、固く結んだ口、怒りで赤くなった目。向かいには黒いスーツの男が書類を広げていた。弁護士だろう。隣には秘書らしい女がノートパソコンを開いている。
「学校側から出たことにするのは弱い」
弁護士が淡々と言う。
「職員室とソンジン、こちらの共有にも同時に流れている。内部だけでは説明がつきません。外部から侵入した学生がいる、という筋の方がまだ通ります」
ムンシクは灰皿の横に置いた携帯を睨む。
「学生?」
「ユン・テオです。被害者のふりをして資料に接触した。学校と会社に恨みがある。ジヒョク君の携帯にも近づく機会があった。未成年ですから、世論は同情するでしょうが、同時に不安定な少年という印象も作れます」
テオの指が冷える。
鏡の前に立っているのに、応接室の空気が喉へ入り込む気がした。自分の名前が、今度は別の紙の上で組み立てられている。合意書ではなく、責任をかぶせるための筋書きとして。
ムンシクは笑いもしなかった。ただ、歯を食いしばるように言う。
「ジヒョクを守れるなら、何でもいい。流出元がうちだと思われたら終わる。取引先が離れる前に、犯人を作れ」
「作る、ではなく、疑いを提示する形です」
「言い方は任せる」
秘書が画面をこちらへ少し向ける。そこには、テオの学校生活記録らしい項目が並んでいた。欠席、早朝勤務、祖母との同居、警察署相談履歴。どこから拾ったのか分からない断片が、冷たい表の中で意味を変えられていく。
「祖母の件は使えますか」
秘書が尋ねた。
テオの心臓が跳ねる。
弁護士は一瞬だけ眉を動かした。
「直接の脅しに見える表現は避けてください。ただ、保護者確認が必要な未成年で、家庭環境に問題があるという材料にはなります」
ムンシクがテーブルの端へ手を伸ばす。そこにはいくつもの紙片が散らばっていた。会社の取引先リスト、学校名、ソンジン下請けの担当者名。さらに、その端に一枚だけ、見覚えのある文字列がある。
仁川旧市街。
ミョンジンヴィラ三階三〇二号。
ユン・ボクスン。
テオの呼吸が止まった。
鏡の中の影が、画面の端から彼と同じ声で囁く。
「道はまだ続いている。彼らは、自分でそこへ向かう」
応接室のテーブルで、カン・ムンシクの指が祖母の住所の紙片を押さえた。次の瞬間、男は弁護士ではなく秘書を見て、低く命じる。
「まず、そのヴィラを確認しろ。少年が逃げるなら、必ずそこへ戻る」
テオは鏡へ手を伸ばした。冷たい表面に指が触れる。だが映像は消えない。紙片の上で、祖母の名前だけが黒い墨を吸ったように濃くなっていく。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
19話 黒い火が呼ぶ次の名前
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