紙片の上で、祖母の名前だけが黒い墨を吸ったように濃くなっていく。
テオは反射的に立ち上がった。椅子の脚が床を引っかき、月影堂の静けさを乱す。ミョンジンヴィラ三階三〇二号。そこへ向かう秘書の足音まで聞こえる気がした。ボクスンは今、薄いカーディガンの袖をずらしたまま、薬の時間も分からず部屋にいる。玄関の鍵を誰かが叩いても、彼女は疑う前に返事をしてしまうかもしれない。
「どけ」
テオは鏡に背を向ける。黒い蝋燭の棚を避け、入口へ向かおうとした。だが影の声が、背後から冷たく届く。
「今走れば、何を見るべきか見逃す」
「ばあちゃんが先だ」
「その家へ行く手は、カン・ムンシクの家から伸びている。根を見ろ。枝だけ折っても、次の枝が伸びる」
鏡面が濡れたように揺れた。テオの足元から黒い冷気が広がり、床板を薄く覆う。逃げようとする足が重くなる。力で縛られたのではない。見なければならないと分かってしまった重さだった。
「短くしろ」
テオは歯を噛みしめる。
「少しでも変なものが映ったら、俺は行く」
影は笑わない。ただ、鏡の奥で応接室の光をさらに強くする。
ジンミョン人材の電話は、鳴りやまなかった。秘書が受話器を取り、二言で顔色を変える。別の社員が廊下から駆け込み、タブレットを差し出した。画面には取引先名が並び、その横へ解除、保留、監査要求という赤い表示が次々に増えていく。
テーブルのノートパソコンには、流出した資料の見出しがニュースサイトの下書きのように並んでいた。未成年実習生派遣疑惑。賃金控除帳簿。学校推薦と人材会社の癒着。誰かがまだ送っている。誰かではない。テオの中で、黒い蝋燭の火がまた小さく揺れた。
「大韓プレスから解除通知です。未成年実習生の派遣契約について確認が取れるまで、全部止めると」
「仁川港湾部品もです。賃金控除帳簿の件で、外部監査を入れるそうです」
ムンシクの顔がさらに赤くなる。彼はテーブルを叩き、灰皿が跳ねる。
「違法下請け? あれはソンジンが勝手にやった現場処理だ。うちは人を紹介しただけだ!」
弁護士が口を開こうとした瞬間、ムンシクの携帯が震えた。表示された名はマ・サンチョル。ムンシクは乱暴に通話ボタンを押し、最初から怒鳴りつけた。
「お前、何を隠していた!」
画面の向こうでサンチョルの声も荒れている。
「こっちが聞きたいわ! ジンミョンの書類に俺の会社の控除表までくっついて流れたんだぞ。あんたの息子の携帯から出たんじゃないのか!」
「口を慎め。ジヒョクは関係ない」
「関係ない? ミンギュに部品のことを指示したログまで出てる。学校のガキどもが全部名前を見てるんだ。あんたの息子が火をつけたんだろうが!」
ムンシクは立ち上がり、携帯を握り潰しそうな力で耳へ押し当てる。
「お前が未成年を現場へ入れなければ、こんな帳簿は存在しない。損害をかぶるのはそっちだ。契約上もそうなっている」
「契約? 今その契約が流れてるんだよ! 俺だけ切って逃げられると思うなよ、カン社長!」
怒号が重なり、応接室の社員たちは誰も近づけない。電話の向こうで椅子が倒れる音がし、サンチョルがさらにわめく。
「そっちの弁護士に言っとけ。俺は学生一人に全部かぶせる話なんか聞いてない。やるならジヒョクの名前も一緒に出す」
「やってみろ。お前の会社は今夜で終わる」
「もう終わりかけてるんだよ!」
通話は荒い息だけを残して切れた。ムンシクは携帯を投げつける。床に当たった携帯が滑り、革張りのソファの脚へぶつかる。秘書が小さく肩を揺らした。
鏡の映像は、そこで途切れない。
次に映ったのは、同じ家の上階だった。広い部屋なのに散らかっている。ブランド物の上着が床へ落ち、机の上には割れた携帯電話が置かれている。画面は蜘蛛の巣のようにひび割れ、黒い液晶の下で白い文字が滲んでいた。
カン・ジヒョクはベッドの端に座っている。唇の赤い傷はまだ残り、目の下の影は前より深い。父の怒号が階下から響くたび、肩がびくりと跳ねる。彼は両手で耳を塞ごうとして、すぐ机の携帯を見る。
割れた携帯が、勝手に点灯した。
ジヒョクが息を呑む。画面には新しいファイル名が並ぶ。給料封筒の動画。祖母の声真似。制御盤工作指示。廃棄リレー混入。さらに、さっきまで見えていなかった録音が追加されていく。
――事故になったらミンギュが勝手にやったことにしろ。
――ドンスの動画は消すな。ユンが逆らったら見せる。
――ばあさんの住所、親父の会社で分かる。
ジヒョクは喉の奥で短く叫び、携帯をつかむ。画面を押しても、電源を長押ししても、白い文字は消えない。送信中、という表示がひびの奥で点滅した。
「やめろ……やめろって!」
送信先が増える。ジンミョン人材取引先一斉。ハンビット工業高校職員室。ソンジン下請け共有。地域掲示板の投稿窓。ジヒョクは携帯を壁へ叩きつける。破片が飛び、液晶の一部が床へ落ちる。それでも、落ちた破片の小さな黒い面にまで白い文字が浮かぶ。
――送信完了。
続けて、ひび割れたスピーカーからジヒョク自身の笑い声が漏れた。祖母の声をまねた時の、あの薄い笑いだった。ジヒョクは両手で破片をかき集め、声を止めようとする。だが笑いは床の破片ごとに分かれ、部屋のあちこちで小さく鳴り続けた。
ジヒョクは後ずさり、壁に背をぶつけた。指が壁紙をつかむ。白い壁紙に爪が立ち、細い傷がいくつも走る。
「ユン・テオ……」
その名は憎しみより先に、恐怖で震えていた。
「生かしておけるわけないだろ。あいつを生かしてたら、俺が終わる。全部、俺のせいになる。違う。俺だけじゃない。俺だけじゃ……」
壁紙がさらに裂ける。下地の灰色が見え、爪の間に白い屑が詰まる。ジヒョクは何度も同じ場所を引っかき、やがて笑うような、泣くような息を漏らした。
「殺す。じゃないと、俺が先に殺される」
テオの胃が冷たく縮んだ。
今すぐ祖母の部屋へ走りたい。ヴィラの階段を駆け上がり、鍵をかけ、ボクスンを抱えてどこかへ逃げたい。だが鏡が見せたものは、ただの脅しではなかった。ジヒョクの家も、父の会社も、サンチョルの下請けも、互いを支えていた板を自分たちの手で外し始めている。落ちていく音が、確かに聞こえた。
そして、その音は甘かった。
テオはその事実に吐き気を覚える。ムンシクが追い詰められるほど、サンチョルが叫ぶほど、ジヒョクの指が壁紙を裂くほど、胸の奥の黒い火が静かに膨らむ。ざまあみろ、という言葉が喉元まで上がり、彼は唇を噛んで押し戻す。血の味がした。
「怖いか」
影が問う。
「……怖い」
テオは否定できない。
「でも、気持ちいい」
言ってしまった瞬間、月影堂の空気が一段深く沈んだ。鏡の中の影は、その答えを待っていたように目を細める。
「それでいい。自分の中の甘さを見ない者は、次に必ず罪のない名前を巻き込む」
「説教するな」
「説教ではない。確認だ」
鏡面の応接室も、ジヒョクの部屋も、黒い水へ沈む。
代わりに浮かび上がったのは、薄暗いヴィラの階段だった。見覚えのある古びた郵便受け。そこに、何者かの手がジンミョン人材のロゴが押された通知書をゆっくりと差し込んでいる。祖母の住所がすでに握られ、現実の脅威がそこまで迫っているという事実が、テオの喉を締めつけた。
映像が消え、月影堂の棚に並ぶ黒い蝋燭だけが、鏡の奥でも現実でも同じ角度で映った。一本一本が、まだ刻まれていない名前を待つ細い骨のようだった。
影が、もう一度問う。
「次の名前を刻む準備はできたか、ユン・テオ」
テオの視線が、棚の蝋燭へ吸い寄せられる。カン・ムンシク。喉の奥で、その名が形を取りかける。祖母の住所を押さえた指。犯人を作れと命じた声。ジンミョン人材の金色の社名。
手が、ゆっくりと動いた。
指先が黒い蝋燭の一本へ近づく。冷たい骨のような表面に触れる寸前、ボクスンの「学生さん、薬の時間かい?」という頼りない声が胸の奥でよみがえる。
テオの手は、そこで止まった。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
20話 手放せない黒い蝋燭の手綱
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